456・宮本武蔵「円明の巻」「観音(5)(6)(7)」


朗読「456円明の巻51.mp3」14 MB、長さ: 約 15分 09秒

一心いっしんがとどいた。
いわのぞかれた。
うれしや!
つうは、したいわともに、よろめきながらこころでさけんだ。
だが。
ばばは、いわあなからると、いきなりおつうえりがみへびかかってった。このきて出直でなおした目的もくてき第一だいいちがそれであったように。
「あれッ――ばばさまっ」
「やかましい」
「な、なんで」
れたこと」
ばばは、ちからまかせに、おつう大地だいちにひきすえた。
そうだった。れきったことではあった。けれどおつうには、こういう結果けっかは、かんがえられなかった。ひとおく真心まごころは、真心まごころをもってかえされるものとだれたいしても、一様いちようしんじてうたがえない彼女かのじょって、この結果けっかは、やはり意外いがいおどろきにちがいなかったのである。
「さあ、おじゃい!」
ばばは、おつうえりがみをったまま、あめながれる地上ちじょう引摺ひきずった。
あめすこやみになったが、なお、ばばの白髪しらが燦々さんさんひかってそそいだ。おつうは、引摺ひきずられながら、あわせて、
「ばばさま、ばばさま堪忍かんにんなさいませ。おはらえるまで、御折檻ごせっかんはうけまするが、このあめたれては、ばばさまのおからだも、あと御持病ごじびょうもとになりまする」
「なんじゃと。図々ずうずうしい。こうされても、まだ、ひとをおとしにするかいな」
げませぬ。どこへでもまいりますから、おを……ああ……くるしい」
「あたりまえじゃ」
「は、はなして。くく……」
のどくびがつまったのである。
つうおもわず、ばばのをもぎはらって、ちかけたが、
がそうか」
とそのは、またすぐ、黒髪くろかみをつかむ。
と、ちゅういたしろかおに、あめそそいだ。おつうは、じていた。
「ええ、わがのために、どれほど、多年たねんあいだ艱苦かんくめさせられたことか」
ばばは、ののしって、彼女かのじょなにかいえばいうほど、もがけばもがくほど、黒髪くろかみ引摺ひきずりまわし、んだり打擲ちょうちゃくしたりした。
が――そのうちに、ばばは、しまった! というようなかおして、きゅうに、はなした。ばたと、たおれたまま、おつうはもうむしいきもしていない。
さすがに、狼狽うろたえて、
「おつうっ。おつうやあ」
ばばは、彼女かのじょしろかおをのぞいてんだ。あめあらわれたかおは、死魚しぎょのようにつめたかった。
「……んでしもうた」
ばばは、ひとごとみたいに茫然ぼうぜんとつぶやいた。ころ意志いしはなかった。あくまで、彼女かのじょゆるもないが、こうまでするもなかったのである。
「……そうじゃ。ともあれ、一度いちどやしきへもどって」
ばばは、そのままりかけたが、またふとかえってて、おつうつめたいからだを、いわあななかかかれた。
入口いりぐちせまいが、なかはおもいのほかひろい。とおむかし求道きゅうどう行者ぎょうじゃが、趺坐ふざしていたあとかのようなところえる。
「オオひどや……」
ふたたび、ばばがそこからようとしたころいわあなくちはまるでたきだった。そしておくのほうまでしろ飛沫しぶききこんでた。

ろく

ようとすれば、いつでもられるになってみると、この豪雨ごううに、なにいて、れにくことはない。――
「やがて、けように」
そうかんがえて、ばばは、いわあななかにつぐなんだまま、暴風雨あらしのやむのをっていた。
が、そのあいだしんやみのなかに、おつうつめたいからだと、ひとつにいるのが、ばばは、おそろしかった。
しろつめたいかおが、めるように始終しじゅう自分じぶんているがする。
何事なにごとも、約束事やくそくごとじゃ。成仏じょうぶつしてたもよ……うらむなよ」
ばばは、をつぶって、小声こごえきょうはじめた。きょうしているあいだは、苛責かしゃくわすれ、こわさもまぎれた。幾刻いくときもそうしていた。
チチ、チチ、と小禽ことりこえがふとみみむ。
ばばは、ひらいた。
洞窟どうくつえた。そとからしろひかりが、あざらかに、あらつちはだせている。
夜明よあごろから、あめかぜも、はたとやんでいたらしい。いわあなくちには、金色こんじきあさが、かえってかがやいていた。
「なんじゃろ?」
とうとしながら、ばばはふと、かおまえしている文字もじをとられた。それは、洞窟どうくつかべりこんである何人なんぴとかの願文がんもんだった。

てんもん十三じゅうさんねん、天神山城てんじんやまじょうかつせんに、浦上うらがみどののぐんぜいに、森金作もりきんさくという十六じゅうろくたせて、ふたともざるかなしさのあまりに、諸所しょしょ御仏みほとけをたずねさまよい、いまここに一体いったいのかんのん菩薩ぼさつをすえたてまつること、ははにはらくるいのたねともなり、きんさくがためには後生ごしょうをねがいまつるにはべ
幾世いくよあと、ふとうひともあらば、あわれとねんぶつなしたまわれ、ことしきんさく二十一にじゅういちねんのくようなり

施主せしゅ 英田あいたむら きんさくはは
所々ところどころ風化ふうかして、めないところもある。天文永禄てんもんえいろくころといえば、ばばにもふるおもしかない。
そのころ、この近郷一帯きんごういったいの、英田あいた讃甘さぬも勝田かつた諸郡しょぐんは、尼子あまこ侵略しんりゃくをうけて、浦上一族うらかみいちぞく諸城しょじょうから敗退はいたい運命うんめい辿たどっていた。ばばのおさなころ記憶きおくにも、けてもれても、しろけるけむりそらくらく、はたけみちばたや、農家のうかのあるちかくにまで、兵馬へいば死骸しがい幾日いくにちてられてあった。
きんさくとかいう十六歳じゅうろくさいをその合戦かっせんたせて、そのまま、ふたともわなかった母親ははおやは、二十にじゅう一年いちねんったあとまで、そのかなしみをわすれかねて、後生ごしょういのりつつ、諸所しょしょをさまよって、供養くようこころがけていたものとみえる。
「……さもあろう」
又八またはちというつばばには、おなははなるそのおやもちが、ひしとわかる。
南無なむ……」
ばばは、いわかべむかって、あわせ、嗚咽おえつしないばかり、落涙らくるいしていた。――そしてややしばし、れていたが、われにかえると、そのなみだ合掌がっしょうしたに、おつうかおがあった。すでにこのあさひかりらず、つめたいひととなって、よこたわっていた。

なな

「おつうっ……。わるかった。このばばがわるかったぞよ。ゆるしてたも。ゆ、ゆるして……たも」
――どうおもったのか。
ばばは、いきなりおつうからだきあげてさけんだ。悔悟かいごのいろが、ばばのおもてにはあふれていた。
おそろしや、おそろしやの。ゆえのやみとは、このことか。わが子可愛こかわいさにひとのには、おにとなっていたか……おつうよ、其方そなたにも、おやはあったものにのう。親御おやごからたらこのばばは、のかたきじゃ、羅刹らせつじゃ、……。ああわしのすがたは夜叉やしゃともみえていたであろう」
洞窟どうくつなかなので、彼女かのじょこえはいんいんとこもって、彼女自身かのじょじしんみみこたえてくる。
ここには、ひともいない、世間せけんもない。また、見得みえもない。
あるのはやみ、いや菩提ぼだいひかりだけである。
「――その羅刹らせつとも夜叉やしゃともえようわしを、おもえば、其女そなたながのあいだ、ようまあ、うらみもせぬのみか、このいわあなへまで、ばばをすくおうとて。……おう、今思いまおもえば、其女そなたこころ真実しんじつじゃった。それを、よこしまに、悪推量あくすいりょうして、おんをあだににくんだのも、みなこのばばのこころがねじけていたためじゃ……。ゆるしてくれよ。おつう
そしてては、きあげたおつうかおへ、わがかおを、ひたとつけて、
「このようなやさしい女子おなごが、わがにもあろか。……おつうよ、まいちどをあいて、ばばがびを、ておくれやれ。まいちどものをいうて、ばばを、くちかぎり、ののしってをはらしてたも。おつうよ」
そうおつうむかって悔悟かいごするむねには、またきょうまでのあらゆる場合ばあい自己じこすがたが、すべて懺悔ざんげ対象たいしょうになってまざまざといのむねんでる。もなく、
「ゆるしてたべ。ゆるしてたも」
ばばは、おつうきぬれたまま、このまま、ともなんものとまで、おもいつめたが、
「いや、なげいているまに、はよう手当てあてしたら、まいちど、きぬかぎりもない。――きてあれば、まだわかはるながいおつうじゃに」
ばばは、おつうからだを、ひざからろすと、蹌這よろばいながら、いわあなそとへとびした。
「あっ」
きゅうに、あさびて、くらんだのであろう。両手りょうてで、かおおおいながら、
「――さとしゅうっ」
んだ。
びながら、した。
さとしゅうっ。さとしゅう――。てくだされや」
すると、杉林すぎばやし彼方かなたから、だれかがやがやと人声ひとごえがして、やがて、
「いたぞうっ。――おばばが無事ぶじで、あれにおるぞっ」
と、呶鳴どなものがあった。
ると、本位田ほんいでん一族いちぞく――身寄みよりのだれかれ十名近じゅうめいちかく。
ゆうべ、佐用川さようがわ河原かわらから、にまみれてかえった郷士ごうしのひとりからきゅうげたので、夜来やらい豪雨ごううおかし、ばばの居所いどころ安否あんぴをさがしに人々ひとびととみえ、みのかさけ、だれかれも、みずからがったようにれていた。
「おお、ばば殿どの
「ご無事ぶじじゃったか」
って人々ひとびとが、ほっと、安堵あんどのいろをかべ、そして左右さゆうからいたわりぬくのを、ばばはほとんどよろこぶ様子ようすもなく、
「わしじゃない。わしはどうなとかまわぬ。はよう、あのいわあなのうちにいる女子おなご手当てあてしてたも。たすけてたも。……もううしなうてから、刻経ときたっているほどに、はやうせねば……はやくすりなとやらねば……」
まるで、うつつかのように彼方かなたゆびさし、もつるるしたに、かおじゅうに、異様いよう悲涙ひるいたたえていった。