455・宮本武蔵「円明の巻」「観音(3)(4)」


朗読「455円明の巻50.mp3」7 MB、長さ: 約 7分 37秒

さん

どうして、こんなおおきないわを、城太じょうたさんはひとりでうごかしたろう、とおもう。
からだしてみたり、両手りょうてをかけてありったけのちからをこめてみたが、いわあなくち一寸ちょっとひらかない。
つうは、せいつからして、
城太じょうたさんも、あんまりひどい)
と、うらみにおもった。
自分じぶんたからよいようなものの、もしこのままにしておけば、ばばはなかくるじにしてしまう。それはそうと、きゅうこえがしなくなったのは、もう半分死はんぶんしんでしまったようになっているのではあるまいか。
「ばばさま。おちなさいよ。……慥乎しっかりして! いま! もうぐにおたすけいたしますから」
いわいわのあいだにかおせていったが、それでも返辞へんじはなかった。
もちろん、いわあななかは、洞然どうぜんたる暗黒あんこくで、ばばのかげもみえない。
――が、かすかに。

或遇悪羅刹わくぐうあくらせつ
毒龍諸鬼どくりゅうしょきとう
念彼観音力ねんぴかんのんりき
時悉不敢害じしつふかんがい
若悪獣囲繞じゃくあくじゅういにょう
利牙爪可怖りげそうかふ
念彼観音力ねんぴかんのんりき

ばばのとなえる観音経かんのんぎょうこえがそこにする。ばばのみみには、おつうこえ姿すがたもなかった。ただ、観音かんのんえる。菩薩ぼさつ御声みこえきこえている。
ばばは、合掌がっしょうし、安心あんしんしきって、いまなみだれながら、ふるえるくちびるから、観音経かんのんきょうとなえていたのであった。
けれどおつう神通力じんつうりきもなかった。かさねてあるみっつのいわひとつもうごかせなかった。あめはやまず、かぜやすまず、彼女かのじょみのもやがて千断ちぎててむねかたも、ただあめどろにまみれるばかりだった。

よん

そのうちに、ばばも、ふと不審ふしんおもしたのであろう、隙間すきまかおせて、そとうかがいながら、
だれじゃ? だれじゃ?」
と、どなった。
ちからき、せいき、途方とほうれたかおして、風雨ふううなかに、すぼめていたおつうは、
「おお、ばばさまか。――おつうでございます。まだ、そのおこえでは、お元気げんきのような」
なに?」
と、うたがうように、
「おつうじゃと」
「はい」
「…………」
いて、また、
「おつうじゃと?」
「はい……おつうでございまする」
ばばは、はじめて愕然がくぜんと、ものにたれたように、自己じこ幻覚げんかくからほうされて、
「ど、どうして、われ此処ここへはたぞよ。……ああ、さては城太郎じょうたろうめが、あとって」
いま、おたすけいたします。ばばさま城太じょうたさんのことは、ゆるしておあげなされませ」
「わしを、すくいにた……?」
「はい」
われが……わしを」
「ばばさまなにもかも、かたのことは、どうぞみずながして、おわすれくださいませ。わたくしも、おさなころに、お世話せわになったことこそおぼえておりますが、そのあとの、おにくしみやご折檻せっかんは、けっして、おうらみにはおもっておりませぬ。――元々もともと、わたくしのわがままもあったことと」
「では、がさめて、前非ぜんぴもとのように、本位田ほんいでんよめとしてもどりたいというか」
「いえ、いえ」
「では、なにしにここへ」
「ただ、ばばさまが、お可哀かわいそうでなりませぬゆえ」
「それをおんせて、以前いぜんのことはみずながせといやるか」
「…………」
たのむまい。だれがそなたにたすけてくれとたのんだか。――もし、このばばに、おんでもせたら、うらみをくか、などとかんがえたのなら、大間違おおまちがいじゃぞ。たとえ、そこにおろうとも、ばばは、生命いのちしさに意気地いくじげぬ」
「でもばばさま。どうしておとしをとったあなたさまが、こんなうているのをておられましょう」
上手じょうずをいうて、われ城太じょうためと、同腹どうふくではないか。ばばをはかって、こうしやったのは、なんじ城太じょうためじゃ。もし、このいわあなからたら、きっときっと、この仕返しかえしはぐしてみせるぞよ」
いまに――いまに――わたくしの気持きもちが、きっとばばさまに、わかっていただけるもございましょう。ともあれ、そんなところにいては、またおからだみましょう」
「よけいなぐち。うぬ。城太じょうたといいあわせて、わしを揶揄からかいにおったの」
「いえ、いえ、ていてください。わたくしの一心いっしんでも、きっとおいかりをいてみせまする」
彼女かのじょはまた、がって、いわした。うごかないいわを、きながらした。
だが、ちからでは、絶対ぜったいうごかなかったいわが、そのときなみだではうごいた。みっつのいわひとつが、どさっとちた。
それからまた、うしろのいわも、おもいのほかかるゆるして、いわあなくちはやっとひらいた。
彼女かのじょなみだちからのみではなく、ばばのちからなかからくわわっていたためである。――で、ばばは自分じぶんちからのみでそこをやぶったような血相けっそうたたえ、同時どうじいわあなそとへおどりした。