453・宮本武蔵「円明の巻」「風便り(9)(10)」


朗読「453円明の巻48.mp3」8 MB、長さ: 約 9分 14秒

きゅう

もう三日月みかづき宿しゅくで、きているいえは、一軒いっけん二軒にけん
そのひとつのは、宿場しゅくばにたった一軒いっけん旅籠はたごだった。
鉱山かなやまがよいの金商人かねあきんどだの、但馬たじまえの糸屋いとやだの行脚僧あんぎゃそうなどだのが、ひとしきり母屋おもやでさわいでいたが、おもおもいに寝入ねいったらしく、ともし母屋おもやはなれた狭苦せまくるしい一棟いっとうにしかのこっていなかった。
年下とししたおとこをつれた駈落かけおもの――とでも間違まちがわれたにちがいない。そこは旅籠はたご年寄としよりが、まゆなべつむぐるまをおいて、ひとりんでいるところだったがおつう城太郎じょうたろうのためにわざわざけてくれたのだった。
「……城太じょうたさん、それでは、おまえ江戸表えどおもてで、武蔵様むさしさまにはおいすることができなかったのですね」
そののはなしを、かれから逐一ちくいちいて、おつうは、うらかなしそうにいう。
城太郎じょうたろうは、彼女かのじょも、木曾路きそじでちりぢりになって以来いらいいまもってそのひとめぐわないでいる――といういたましい述懐じゅっかいいて、なんだかかたるにもえないような気持きもちがするのだった。
「――が、おつうさん、そうなげくことはないよ。かぜ便たよりだけれど、近頃ちかごろ姫路ひめじにこんなうわさがある」
「え。……どんな?」
わらでもうわさでも彼女かのじょいまもちでは、つかまずにいられなかった。
武蔵様むさしさまが、ちかいうちに、姫路ひめじるかもれないのだ」
姫路ひめじへ……。それは、ほんとでしょうか」
うわさだから、どの程度ていどまで、しんじていいかわからないが、はんではもっぱら本当ほんとうらしくいわれている。――細川家ほそかわけ師範佐々木小次郎しはんささきこじろう試合しあいする約束やくそくはたすために、ちかく、小倉こくらくだるだろうと」
「そんなうわさは、わたしもちらといたことがありますが、だれ一体いったいいいしたことやら、ただしてみれば、武蔵様むさしさま消息しょうそくを――いるところすら、っているひとはありません」
「いや。はん流布るふされているはなしには、もうすこし、真実しんじつらしい根拠こんきょがある。……というのは、細川家ほそかわけとも縁故えんこのふかい、きょう花園妙心寺はなぞのみょうしんじから、武蔵様むさしさま所在しょざいれて、細川家ほそかわけ家老かろう長岡佐渡ながおかさどどのの取次とりつぎ小次郎こじろうからの試合状しあいじょう武蔵様むさしさまとどいているというのだが」
「では、そのは、もう近々ちかぢかでございまするか」
「さ。そのへんのことになると、何日いつのことやら、何処どこでやるのか。とんとわかってはいない。――しかし、京都きょうとちかくにいるものなら、豊前ぶぜん小倉こくらくだるには、きっと姫路ひめじ城下じょうかはおとおりになるはずだ」
「でも、船路ふなじもありますもの」
「いや、おそらくは」
と、城太郎じょうたろうは、くびって、
ふねではかれまい。なぜならば姫路ひめじでも岡山おかやまでも、山陽さんよう各藩かくはんでは武蔵様むさしさま通過つうかせつはぜひ一泊いっぱくめよう。そして、人物じんぶつよう。またはそれとなく、仕官しかんのぞみがあるかないか、はらこう。……などと種々いろいろかんがえで、ちうけている。げん姫路ひめじ池田家いけだけでも、沢庵坊たくあんぼう御書面ごしょめんしたり、妙心寺みょうしんじ問合といあわせたり、また、城下口じょうかぐち駅伝問屋えきでんどんやめいじて、もし武蔵むさしらしいものとおったらすぐらせよと、たっしてあるそうだから」
そうくと、おつうはかえって、ああとなげいて、
「では、なおさらです。武蔵様むさしさまが、陸路くがじくだっていらっしゃるはずはない。武蔵様むさしさまのなによりもおきらいな、そんなさわぎが、城下城下じょうかじょうかちうけているようでは――」
と、絶望ぜつぼうしていった。

じゅう

うわさの程度ていどでも、よろこぶであろうと、城太郎じょうたろうはなしたのであったが、彼女かのじょにいわれてみれば、武蔵むさし姫路ひめじるだろうなどという期待きたいは、はかない、こっちだけの空想くうそうにすぎない。
「――では城太じょうたさん。京都きょうと花園妙心寺はなぞのみょうしんじへゆけば、たしかなことが、れましょうね」
「それは、れるかもしれないが、うわさだからなあ」
「まるで、なしぐさでもないでしょうから」
「もう、?」
「ええ。そういたら、あしたにでも、ちとうございます」
「いや、てよ」
城太郎じょうたろうは、以前いぜんとちがって、彼女かのじょについても、いまではいっぱしの意見いけんった。
「おつうさんが、武蔵様むさしさまえないのは、そういうふうに、なにかちらと、うわさでも、かげでもさすと、一途いちずに、それをあてくからじゃないかな。時鳥ほととぎす姿すがたようなら、こえのしたさきをやらなければえないのに、おつうさんのは、あとあとへとっては、はぐれているようにおもえるが……」
「それは、そうかもれませんが、理窟りくつのように、こころのもてないのがこいでしょう」
つうは、城太郎じょうたろうになら、なんでもいいた。
けれどいまこいということばをついらして、城太郎じょうたろう姿すがた見直みなおすと、はっとおもった。城太郎じょうたろうかおいろもあかくうごいた。
もう城太郎じょうたろうこいということばを、手鞠てまりのように、受取うけとったりかえしたりしていられる相手あいてでなかった。ひとこいより、彼自身かれじしんが、それになや年配ねんぱいになっていた。
で。にわかに、
「ありがとう。わたしも、よくかんがえてからにいたします」
つうが、らすと、
「そうなさい。そしてとにかく一度いちど姫路ひめじかえって」
「ええ」
「ぜひ、屋敷やしきへはてください。ちち拙者せっしゃのいる屋敷やしきへ」
「…………」
ちち丹左たんざも、はなしてみると、おつうさんのことは、七宝寺しっぽうじにいたころのことまで、よくっていました。……なにらないが、いちどいたい、はなしもしたい、などともうしていますから」
つうは、こたえなかった。
えかかる燈芯とうしんに、ふと、振顧ふりかえって、びさしから夜空よぞら見上みあげながら、
「……ア。あめが」
あめですって。――あしたは姫路ひめじまであるくのに」
「いいえ、蓑笠みのかささえあれば、あきあめぐらいは」
「たんとなければいいが」
「……オオ、かぜが」
めましょう」
城太郎じょうたろうって、雨戸あまど引寄ひきよせた。きゅうにむしあつく、そしておつうのもつ、おんなかおりこもがした。
「おつうさん、よいように、ください。拙者せっしゃはこのまま――」
と、木枕こまくらって、まどしたに、かべむかってよこになった。
「…………」
つうは、まだきて、ひとあめおといていた。
ておかないといけないぞ。おつうさん、まだねむらないのか」
ねむりつけないらしく、うしきのまま、城太郎じょうたろうはそういって、うす寝具しんぐを、かおまでっかぶった。