447・宮本武蔵「円明の巻」「飾磨染(1)(2)」


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飾磨染しかまぞめ

いち

武蔵むさし又八またはちなどが、岡崎おかざきって、あきともに、京都きょうとのほうへうつっていたころ伊織いおり長岡佐渡ながおかさどともなわれて、海路かいろ豊前ぶぜんむかい、佐々木小次郎ささきこじろうもまた、その便船びんせんで、小倉こくら帰藩きはんについていた。
すぎばばは、昨年さくねん、その小次郎こじろう江戸えどから小倉こくらへおもむくさい途中とちゅうまでこうともにして、家事整理かじせいり法会ほうえのため、一度いちど美作みまさか郷里きょうりもどった。
沢庵たくあんも、江戸えどり、近頃ちかごろは、但馬たじま郷里きょうりではないかといううわさ
かくて、その人々ひとびと足跡そくせき所在しょざいとは、このあき以上いじょうのようにほぼわかっていたが、いまなお、ようとしてわからないものは、奈良井ならい大蔵だいぞう逃亡とうぼう前後ぜんごして、消息しょうそくってしまった城太郎じょうたろう
朱実あけみもどうしたか。
これまた、かぜ便たよりもない。
それと、さしあたって、生命いのちさえあんじられるのは、九度山くどやまてられてった夢想権之助むそうごんのすけうえであるが、これは伊織いおりくちから、長岡佐渡ながおかさどらせば、佐渡さど交渉こうしょうひとつで、なんとかすくいのみちはつこうというもの。
もっとも、そのまえに「関東かんとう諜者ちょうじゃ」という疑惑ぎわくもとに、九度山衆くどやましゅうあやめられてしまえば、これはもはやすくいも交渉こうしょう余地よちもないことだが、聡明そうめいなる幸村ゆきむら父子ふしにとまれば、そんな嫌疑けんぎは、ちどころにれ、あるい今頃いまごろ、すでに自由じゆうになって、かえって伊織いおりを、あんさがしているかもれない。
――むしろ。ここにひとり。
無事ぶじでも、うれうべき運命うんめいひとがある。以上いじょうだれをさしいても、ひとまずそれをかたるべきであろう。いうまでもなく、それはおつう武蔵むさしあるがゆえに、きもし、希望きぼうもし、ひたすらおんなみちを、おんなたらんとしながら、柳生やぎゅうしろはなれてからまた、とつ妙齢としごろもはやぎかける片鴛鴦かたおしどりひとを、旅人たびびと不審いぶかられながら、むなしくたびちんとはして――いったい彼女かのじょは、このあきを、どこに武蔵むさしつきているのだろうか。

「おつうさん、いるかの」
「はい。――おりますが、どなたさまですか」
万兵衛まんべえじゃが」
と、その万兵衛まんべえが、蠣殻かきがらしろくついている柴垣越しばがきごしに、かおびあげた。
「オ。麻屋あさや旦那だんなさまでいらっしゃいますか」
「いつも、ようおはたらきだのう。――せっかく、はたらいているところを、邪魔じゃましてはわるいが、ちょっとはなしがあるで……」
「どうぞ、おはいりくださいませ。そこの木戸きどして」
と、おつうは、かみにかけていた手拭てぬぐいを、あいまったあおで、つまむようにそっとる。
ここは播州ばんしゅう飾磨しかまうらで、志賀磨川しかまがわみずうみそそところ三角形さんかっけいになっている河口かこう漁村ぎょそん
だが、おつういまいるところは、漁師りょうしいえではなく、そこらのまつえだ竿ざおに、かけわたしてある藍染あいぞめぬのてもれるように、飾磨染しかまぞめ世間せけんでよぶ紺染こんぞめぎょうとするちいさい染屋そめやにわにいるのだった。

そうしたちいさい紺染屋こんぞめやは、この海辺うみべ部落ぶらくに、何軒なんげんもあった。
染法そめは、搗染つきぞめといって、何度なんど染料せんりょうにかけたあいぬのを、うすれては、きねくのだった。
だから、ここの紺染こんぞめは、いとがつづれるまでてもせないといわれて、諸国しょこく需要じゅようがある。
きねって、こんぬのを、うす仕事しごとは、わかむすめたちの仕事しごととして、染屋そめやかきうちから、どこかのはまきこえてゆく。――わか船頭衆せんどうしゅうのなかに、おもひとをもつむすめは、そのうたこえでもれると――さとものはよくいう。
だが。おつううたわない。
彼女かのじょが、ここへたのは、なつころで、きねをもつ仕事しごとにも、まだれなかった。今思いまおもうと――このなつあつ日盛ひざかりを、泉州せんしゅうさかい小林太郎左衛門こばやしたろうざえもん店先みせさきを、脇目わきめもせず、みなとほうあるいてったたびおんなは――あのおり伊織いおりうし姿すがたをチラと女性じょせいは――やはり彼女かのじょであったかもれないのである。
ちょうどそのころ。おつうは、さかいみなとから赤間あかませきへゆく便船びんせんって、そのふねが、飾磨しかま寄港きこうしたおりこの土地とちりたのであったから。
――とすれば、なんというしさ。
運命うんめい盲目もうもく人間にんげんのあわれさ。
彼女かのじょってたそのふねは、廻船問屋かいせんどんや太郎左衛門たろうざえもん持船もちふねであったにちがいない。
こそちがうが、おな堺港さかい太郎左衛門船たろうざえもんぶねには、その後細川家あとほそかわけ家士かしらがこぞって乗船じょうせんした。
そして、その潮路うしおじを、長岡佐渡ながおかさども、伊織いおりも、巌流佐々木小次郎がんりゅうささきこじろうとおった。
巌流がんりゅう佐渡さどとは、よしや顔見かおみあわせてもらずにぎようとも、どうして伊織いおりえなかったろう。いつのふねでも、飾磨しかまうらにはるものを。
じつあね! と、あれほどさがしている伊織いおりに――。ひとつ浦辺うらべりながら。
いやいやえなかったはずともいえるのだ。細川家ほそかわけ家中かちゅう乗船じょうせんしたので、どうともせきにはまくめぐらし、ふつうの町人ちょうにん百姓ひゃくしょう道者どうしゃ僧侶そうりょ芸人げいにんなど一般いっぱんものはみな、はこのような船底ふなぞこ区切くぎられ、のぞもできなかったし、飾磨しかまって、彼女かのじょふねりたのも、夜明よあけのまだくらいうちであったから、伊織いおりがそれをるよしもなかった。
飾磨しかまは、乳母うばさとだった。
彼女かのじょがここへたことからさっしると、はる柳生やぎゅうち、江戸えどったころには、もう武蔵むさし沢庵たくあんもいなかったあとで、わずかに、柳生家やぎゅうけ北条家ほうじょうけたずねて、武蔵むさし消息しょうそくぐらいをき、ふたたびそのひとわばやの一心いっしんから――たびへ、たびへ、はるからなつあるすごし、ついに、ここまでたものとおもわれる。
ここは姫路ひめじ城下じょうかちかく、同時どうじに、彼女かのじょそだった郷里きょうり――美作みまさか吉野郷よしのごうへも、そうとおくない。
七宝寺しっぽうじそだてられたころの、乳母うばはこの飾磨しかま染屋そめやつまだった。おもして、せたものの、故郷ふるさとちかいので、そと出歩であるいたこともない。
乳母うばはもう五十近ごじゅうちかいのにもなかった。それに貧乏びんぼうでもあるし、ただあそんでいるのも心苦こころぐるしく、臼搗うすつきの仕事しごと手伝てつだいながら、ここからとおくない中国街道ちゅうごくかいどう頻繁ひんぱんなうわさから、もし武蔵むさし便たよりでもれようかと、うたもない多年たねんの「えざるこい」をめて、染屋そめやにわあきしたに、黙々もくもくと、毎日まいにちきねっておもいていたのであった。
そこへ。なに折入おりいって、はなしがあるとたずねて万兵衛まんべえ近所きんじょ麻屋あさや主人しゅじんである。
なんであろ?)
つうは、あいを、ながれであらって、ついでに、うつくしくあせばんだひたいいた。