434・宮本武蔵「円明の巻」「熱湯(4)(5)」


朗読「434円明の巻29.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 10秒

よん

佐兵衛さへえは、わかしゅう協力きょうりょくして、伊織いおり両手りょうてとらえ、土蔵露地どぞうろじのわきにある湯沸ゆわかほうへ、引摺ひきずってた。
巌流がんりゅうがそこへて、れたはかまかたを、仲間ちゅうげんかせていたからである。
「とんでもない御無礼ごぶれいを」
なんとおいたしましょうやら」
なにとぞ、御寛大ごかんだいに……」
などとくちそろえながら、伊織いおりをそこにひきえて、佐兵衛さへえはじみせわかしゅうたちは、あらゆる謝罪しゃざいことばをならべたが――巌流がんりゅうみみがないように、見向みむきもせず、仲間ちゅうげんしぼらせた手拭てぬぐいで、かおなどいて平然へいぜんとしていた。
わかしゅうたちに、りょうをねじげられて、かおをこすりつけられている伊織いおりは、そのわずかなあいだも、くるしがって、
はなせっ。はなしてくれっ」
と、もがきさけび、
げはしないよっ。げるもんかっ。おらだって、さむらいのだ。覚悟かくごでしたこと、げなんかするか! ……」
と、いった。
かみをなで、衣紋えもんまでなおしてから、巌流がんりゅうはこっちをて、
「――はなしてやれ」
おだやかにいった。
むしろ意外いがいにして、
「……えっ?」
と、佐兵衛さへえたちが、その寛大かんだいおもてあおって、
はなしても、よろしゅうございましょうか」
「だが」
と、そこへくぎちこむように、巌流がんりゅうはいいした。
「どんなことをいたしても、びればゆるされるものとかんがえさせては、かえって、この少年しょうねん将来しょうらいのためにならぬ」
「へい」
もとより、るにらぬわっぱのしたこと。巌流がんりゅうくださぬが、そちたちがこのままにもいたしがたいとおもうなら糾明きゅうめいとして、そこの湯柄杓ゆびしゃくかまをいっぱいあたまからかぶせてやれ。――いのちにはかかわるまい」
「……ア。その湯柄杓ゆびしゃくで」
「それとも、このまま、はなしてよいと、其方そちどもがおもうなら、それでもよし……」
「…………」
さすがに佐兵衛さへえわかしゅうたちも、顔見合かおみあわせてためらっていたが、
「どうしてこのままにまされましょう。自体じたい日頃ひごろからよくない餓鬼がき。お手討てうちとなってもせんないところを、それくらいなお仕置しおき御勘弁ごかんべんねがえるものなら有難ありがた仕合しあわせ。……野郎やろうだれのせいでもないぞ。おれたちうらむなよ」
口々くちぐちにいう。
あばくるうにちがいない。そこの素縄すなわってい。両手りょうてしばれ、ひざしばれ――などと大仰おおぎょうにさわぎだすと、伊織いおりは、それらのはらって、
なにするんだいッ」
と、いった。
そして地面じめんすわなおし、
覚悟かくごしてしたことだからげないといってるじゃないか。おらはそのさむらいに、をかけてやるわけがあるからかけてやったんだ。その返報へんぽうに、おらにもをかぶせるなら、かぶせてごらん。町人ちょうにんならあやまるだろうが、おらはあやますじもないぞ。さむらいが、そればかしのことに、きなんかするものか」
「いったな!」
佐兵衛さへえは、うでまくって、大釜おおかま熱湯ねっとう柄杓ひしゃくいっぱいんで、伊織いおりあたまうえ徐々じょじょってた。
(……むウ!)
と、くちびるをむすんだまま、伊織いおり両眼りょうめをくわっとひらいて、それをっていた。
――すると、何処どこかで、
をふさげ。伊織いおり! をふさいでいないと、がつぶれる!」
と、注意ちゅういするものがあった。

だれか? とこえのほうをいとまもなく伊織いおりは、注意ちゅういされたとおり、をふさいだ。
そして、あたまうえからそそぎかけられる熱湯ねっとうちながら――その意識いしきはらいのけて――いつしか武蔵むさし草庵そうあんで、ひと武蔵むさしからいたはなしの、快川かいせん和尚おしょうのことをふとおもいだしていた。
甲州武士こうしゅうぶしがふかく帰依きえしていた禅僧ぜんそうで、織田徳川おだとくがわ聯合軍れんごうぐんが、峡中きょうちゅう討入うちいって、山門さんもんをかけたとき、その楼上ろうじょうでしずかにほのおからだかせながら、
――心頭しんとう滅却めっきゃくスレバマタスズシ
と、いってんだというひと
をつぶりながら、伊織いおりは、
(なんだ、柄杓ひしゃくいっぱいの熱湯ねっとうぐらい)
と、おもったが、またすぐ、
(あ。そうおもうのが、もういけないんだ)
づいて、あたまのしんからからだじゅうを、しーんときょにして、かたちはあれど、迷妄めいもう悩悶のうもんもない、無我むがかげになろうとした。
だが。駄目だめであった。
伊織いおりには、そうなれない。いっそ伊織いおりが、もうすことしがゆかなかったら、あるいはなれよう。でなくば、もっともっととしをとっていたら、あるいはそこに到達とうたつされよう。かれももう、あまりにものごころがありすぎていた。
――いまか。……いまか。
ひたいからだらりとちるあせ湯玉ゆだまかとおもえた。わずかな一瞬いっしゅんが、百年ひゃくねんのようにながいのだ。伊織いおりは、ひらきたくなった。
――すると、巌流がんりゅうこえが、
「おお。御老台ごろうだいか」
と、うしろでいった。
湯柄杓ゆびしゃくって、伊織いおりあたまうえから、びせかけようとしていた佐兵衛さへえも、まわりのわか衆達しゅうたちも、往来おうらい彼方かなたから、
伊織いおりをふさげ!)
と、注意ちゅういしたもののほうへ――おもわずをやって――そして一瞬いっしゅん伊織いおりへかぶせる熱湯ねっとうを、ためらっていたのだった。
「えらいことがはじまったのう」
御老台ごろうだいばれた人物じんぶつは――みちむこがわからあしをうつしてていた。若党わかとう縫殿介ぬいのすけひとり召連めしつれて、茶地ちゃじあさ小袖こそでに、なつふゆおなものかとおもえるような野袴のばかまをはき、あせだけは、ひといちばい汗性あせしょうらしいかおをした藩老はんろう長岡佐渡ながおかさどであった。
「これは、とんだところを、おにかけてしもうた。はははは、らしめております」
大人おとなげないとおもわれはしまいか。――巌流がんりゅうはん先輩せんぱいにそう自分じぶんですぐ斟酌しんしゃくしたものか、まぎらすようにわらっていった。
佐渡さどは、伊織いおりかおばかりじっとて、
「ふむ。らしめにな。……理由りゆうのあることなら、仕置しおきもよかろう。サササ。やりなさい。佐渡さど見物けんぶつしよう」
熱湯ねっとう柄杓ひしゃくこらえたまま、佐兵衛さへえは、巌流がんりゅうかお横目よこめた。巌流がんりゅうは、相手あいて少年しょうねんであるばかりに、自分じぶん立場たちばが、不利ふりえていることをさとって、
「もうよい。これでわっぱりたであろう。――佐兵衛さへえ湯柄杓ゆびしゃく退け」
すると、伊織いおりは、さっきからくともなくけたまま、空虚うつろつめていたひとかおむかって、
「あっ。おらは、お武家様ぶけさまっていら。お武家様ぶけさまは、下総しもうさ徳願寺とくがんじへ、よくうまって、たことがあるだろ!」
と、すがりつきそうにしてさけんだ。
伊織いおりおぼえていたか」
「アア! ……わすれるもんか。徳願寺とくがんじで、おらにお菓子かしくださった」
今日きょうは、おまえ先生せんせい武蔵むさしとやらはどうしたな。……このごろは、あの先生せんせいそばにはいないのか」
われると、伊織いおり突然とつぜん、シュクとはなをすすって、はなこぶしあいだから、ぽろぽろとなみだをこぼした。