433・宮本武蔵「円明の巻」「熱湯(2)(3)」


朗読「433円明の巻28.mp3」8 MB、長さ: 約 9分 00秒

あせをふきふき、佐兵衛さへえふねからもどってて、
「おたせいたしました。どうのおせきはまだかたづきませぬので、もうしばらくおちねがいますが、みよしにおすわりのくみは、どうかふねへおうつくださいまし」
と、れた。
みよしくみは、軽輩けいはい若侍わかざむらいたちであった。各々おのおのや、身支度みじたくまわして、
「では、おさきに」
巌流先生がんりゅうせんせい。おさきへ」
ぞろぞろと、一群ひとむれは店口みせぐちからってく。
巌流佐々木小次郎がんりゅうささきこじろうと、そのほかろく七名しちめいあとのこっていた。
佐渡さどどのが、まだおえなさらぬの」
「もうッつけ、かれようが」
のこったくみは、みな年配ねんぱいで、服装ふくそうからても、はんしかるべき要職ようしょくにあるものばかりらしい。
この細川家家中ほそかわけかちゅう一行いっこうは、先月せんげつ陸路りくろ小倉こくらからって、京都きょうとはいり、三条車町さんじょうくるまちょう旧藩邸きゅうはんてい逗留とうりゅうして、そこで病歿びょうぼつされた故幽斎公こゆうさいこう三年さんねんいとなみやら、生前幽斎公せいぜんゆうさいこうしたしかった公卿くげたちや知己ちきへのあいさつやら、また、故人こじん文庫ぶんこ遺物いぶつ整理せいりなど悉皆しっかいすまして、きのう淀川船よどがわぶねり、きょうは海路かいろたびへ、はじめてのよるおくろうという旅程りょていにある人々ひとびとであった。
今思いまおもあわせると、この晩春ばんしゅんごろ、高野こうやくだ九度山くどやま立寄たちよってった長岡佐渡ながおかさど主従しゅじゅうは、その八月はちがついとなみの準備じゅんびのため、あれから京都きょうとまわって、その経歴けいれきかおふる関係かんけいからも、一切いっさい奉行ぶぎょうつとわし、今日きょうまで同地どうちとどまっていたものであろう。
「――西陽にしびがさしこんでまいりました。皆様みなさま巌流様がんりゅうさまにも、どうぞ、まちっとおくのほうでおやすみくださいまし」
佐兵衛さへえは、帳場ちょうばかえっても、のべつつかって愛想あいそをいっていた。巌流がんりゅう西陽にしびにしながら、
「ひどいはえ
と、おうぎはらいながら、
くちばかりかわく、最前さいぜんあつ麦湯むぎゆを、もう一碗ひとわん所望しょもうしたいが」
と、いう。
「はいはい。あつでは、なおなおおあつうございましょう。唯今ただいまつめたい井水せいすいませまする」
「いや、道中どうちゅうみず一切飲いっさいのまぬことにしておる。結構けっこうだ」
「これよ――」
と、佐兵衛さへえすわったままくびばして、湯沸ゆわかのほうをのぞき、
「そこにいるのは、じゃないか。なにをしている。巌流様がんりゅうさまへ、おをさしあげい。各々おのおのさまにも」
と、どなった。
それなり佐兵衛さへえはまた、おくじょうやらなにやらにいそがしげに俯向うつむけていたが、返辞へんじのなかったのにづいて、もう一度呶鳴いちどどなるつもりでかおげると――伊織いおりぼんいつむっツの茶碗ちゃわんをのせて、をそれにそそいで、おずおずと大土間おおどま一方いっぽうからはいって様子ようす
で――佐兵衛さへえはまた、それには無関心むかんしんになって、おくじょういていた。
「おを」
と、伊織いおりは、ひとりの武家ぶけまえでお辞儀じぎをし、じゅんに、
「どうぞ」
と、またお辞儀じぎをしてった。
「いや、わしはいらぬ」
という武家ぶけもあって、かれささげているぼんには、まだふたツの茶碗ちゃわんあつ麦湯むぎゆたたえてのこっていた。
「おくださいまし」
伊織いおりは、最後さいごに、巌流がんりゅうのまえにって、ぼんけた。巌流がんりゅうはまだづかず、何気なにげなくをのばしかけた。

さん

――はッと、巌流がんりゅうをひいた。
れかけた熱湯ねっとう茶碗ちゃわんあつかったためにではない。
が、そこまでゆかないに、ぼんささげている伊織いおりと、かれとが、かちっと、火華ひばなはっしたように、出会であったのであった。
「あっ。そちは――」
巌流がんりゅうくちが、こうおどろきをらすと、伊織いおりはそれとは反対はんたいに、んでいたくちびるをややゆるめて、
「おじさん。この前会まえあったのは、武蔵野むさしのはらでしたっけね」
にっとわらってせたのである。――おさない、まだ小粒こつぶせて。
その、小癪こしゃく不敵ふてきさに、
なに!」
巌流がんりゅうが、おもわず、大人おとなげもないこえされて、なにか、つぎのことばでもこうとしたらしくえたせつな、
おぼえているかっ!」
と、ささげていたぼんを――それにせてある茶碗ちゃわん熱湯ねっとうともに――がらっと、巌流がんりゅうかおがけてほうりつけた。
「――あっ」
巌流がんりゅうは、こしかけたまま、かおをかわし、途端とたんに、伊織いおりうでくびをっつかんでから――
「ア! ……」
片目かためをつぶりながら、憤然ふんぜんと、った。
茶碗ちゃわんぼんも、うしろへんで、土間どま隅柱すみばしらあたって一箇いっこくだけたが、こぼれた熱湯ねっとうのしぶきが、かおむねはかまにまでかかったのであった。
「ちイッ」
「このわっぱめが」
ときならぬ二人ふたりのさけびと、茶碗ちゃわんくだけたひびきとが、ひとつになって、居合いあわ人々ひとびとみみおどろかしたとき伊織いおりからだは、巌流がんりゅう脚下あしもとへ、たたきつけられた小猫こねこのように、もんどりってげられていた。
がろうとすると、
「うぬ」
と、巌流がんりゅうは、伊織いおりを、手間てまなくふみつけて、
みせものっ」
と、どなった。
片目かためをおさえながらである。
「このわっぱは、当家とうけ小僧こぞうか。どもとはいえ、ゆるがたいやつ。――番頭ばんとうっ、ひっとらえろ」
仰天ぎょうてんした佐兵衛さへえが、りておさえるいとまもなかった。巌流がんりゅうあししたいつくばっていた伊織いおりは、
「なにを」
どういたか――いつもその佐兵衛さへえから禁物きんもつにされているかたなはらって、したから巌流がんりゅうひじねらげた。
巌流がんりゅうは、またも、
「あ、こやつ」
と、まりのように、伊織いおりからだ大土間おおどま蹴転けころがして、一歩いっぽ、うしろへ退いた。
佐兵衛さへえが、そこへ、
阿呆あほうッ」
絶叫ぜっきょうして、びついてたのと、伊織いおりきたのと、同時どうじであったが、伊織いおりは、きょうせるもののように、
「なにをッ」
と、なおいいつづけ、佐兵衛さへえが、自分じぶんからだにふれると、りほどいて、
「ざまアろ! ばかっ」
巌流がんりゅうおもてへ、そうののしったかとおもうと、ぱっと戸外おもてむかってしてった。
――だが。
軒先のきさきから二間にけんけると、伊織いおりはすぐまえへのめってたおれていた。巌流がんりゅう土間どまなかから、天秤てんびんって、そのあしもとへげつけたからであった。