431・宮本武蔵「円明の巻」「港(5)(6)」


朗読「431円明の巻26.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 44秒

いやだ。そうか。
そうかんがえるは、伊織いおりむねに、武蔵むさしのはなしや、こころみがみちかたらいをしてくれた、武蔵むさし姿すがたや、わかれた権之助ごんのすけのことが、ひしひししたわれていた。
そして、自分じぶんじつあねきながら、まだえぬおつう面影おもかげだのが――
けれど。
そうおもつのもあり、よるもありつつも、少年しょうねん一面いちめんには、この泉州せんしゅうさかいという港場みなとばのもつ絢爛けんらん文化ぶんかだの、異国的いこくてきまちだの、船舶せんぱくいろだの、そこにひとたちの豪奢ごうしゃ生活せいかつだのにも、ただならぬをみはって、
(こんな世界せかいもあるのか)と、こころからおどろいた。
また、憧憬あこがれや、ゆめや、意欲いよくをもいて、いつとはなくおくっていた。
「おいっ、!」
帳場ちょうばで、老番頭ろうばんとう佐兵衛さへえがよんでいた。伊織いおりは、ひろ土間どま納屋蔵なやぐら露地ろじいていた。
!」
返辞へんじをしないので佐兵衛さへえ帳場ちょうばからってて、けやき角材かくざいが、うるしったようにくろくなっている店先みせさきかまちまでて、呶鳴どなりつけた。
新参しんざん丁稚でっちっ。んでるのになぜないのか」
伊織いおりは、振向ふりむいて、
「は。おらか」
「おらというやつがあるかっ。わたくしといえ」
「はあ」
「はあじゃない。へいというのだ。こしをひくく」
「へーい」
「おまえ、みみがないのか」
みみはある」
「なぜ、返辞へんじしない」
「だって、おとぶから、自分じぶんのことじゃないとおもったんだ。おらは――わたくしは、伊織いおりというですから」
伊織いおりなんて、丁稚でっちらしくないから、でいい」
「そうですか」
「こないだも、あれほどわしがきんじておいたのに、また、へんものちだして、こししているな。……そのまきざッぽうのようなかたなを」
「へい」
「そんなものしてはいけないぞ。商家しょうか小僧こぞうが、かたななどすなんて。――ばかっ」
「…………」
「こっちへせ」
「…………」
なにをふくれている」
「これは、おっさんの遺物かたみだから、はなせません」
「こいつめ。よこせというのに」
「わたしは、商人あきんどなんかに、れなくてもいいから」
商人あきんどなんか――だと。これ、商人あきんどがなかったら、なかちはしないぞ。信長公のぶながこうがおえらいの、太閤様たいこうさまがどうだのといっても、もし商人あきんどがなかったら、聚楽じゅらく桃山ももやまも、きずけはしない。異国いこくからいろんなものもはいりはしない。わけてもさかい商人あきんどはな、南蛮なんばん呂宋ルソン福州ふくしゅう厦門アモイおおきなはらあきないをしているのだ」
「わかってます」
「どうわかってる」
「――まちますと綾町あやちょう絹町きぬちょう錦町にしきちょうなどには、おおきな織屋はたやがありますし、高台たかだいには、呂宋屋ろそんやのおしろみたいな別室べっしつがあるし、はまには、納屋衆なやしゅうというお大尽だいじんのやしきやくらがならんでいます。――それをおもうと、おく御寮人ごりょうにんさまやお鶴様つるさまが、自慢じまんたらたらのここのおみせも、ものかずでもありません」
「この野郎やろう
佐兵衛さへえは、土間どまへ、んでりた。伊織いおりほうきてて、した。

ろく

わかしゅうっ。その丁稚でっちをつかまえろ。つかまえてくれっ」
佐兵衛さへえは、のきから呶鳴どなった。
河岸かし荷揚にあげ軽子かるこをさしずしていたみせものたちが、
「あ。こうだな」
りまいて、すぐ伊織いおりとらえ、みせまえきずってた。
におえんやつじゃ。あくはいうし、わしたち小馬鹿こばかにはするし。きょうはうんと、らしてやってくれ」
佐兵衛さへえは、あしいて、帳場ちょうばすわったが、またすぐ、
「それから、しているそのまきざッぽうを、こっちへげておきなさい」
と、いいつけた。
みせわかしゅうたちは、伊織いおりこしからまずかたな取上とりあげた。それからうしくくって、店先みせさき幾山いくやまんである荷梱にごうりひとつへ、飼猿かいざるみたいにくくしつけ、
すこ人様ひとさまわらわれろ」
わらいながら、った。
はじは、伊織いおりがもっともとうとぶところだし、武蔵むさしからも、権之助ごんのすけからもはじれとは、常々聞つねづねきかされていたことである。
――恥曝はじさらしだ。
自分じぶんおもうと、伊織いおりは、少年しょうねんはげしい狂的きょうてきにたかぶらせて、
いてくれっ」
と、さけび、
「もうない」
と、あやまり、それでもゆるされないと、今度こんどあくかわって、
「ばか番頭ばんとう。くそ番頭ばんとう。こんないえなんかにいてやらないから、なわけっ。かたなかえせ」
と、わめいた。
佐兵衛さへえはまた、りてて、
「やかましい」
と、伊織いおりくちへ、ぬのをまるめてしこんだ。伊織いおりが、そのゆびみついたので、佐兵衛さへえはまた、わかものびたてて、
くちしばってしまえ」
と、いった。
もうなにべなかった。
往来おうらいものみなとおる。
わけてこの川尻かわじりと、唐人町とうじんまち河岸かしすじは、便船びんせん旅客りょかくだの、商人あきんど荷駄にだだの、物売ものうおんなだのと、往来おうらいはげしかった。
「……く。く。……くっ」
さるぐつわのくちのなかで、伊織いおりこえをもらしていた。そしてをもがき、くびをふり、やがては、ぽろぽろいている。
そのそばで、んだうまが、とうとうと尿いばりをしていた。尿いばりあわが、伊織いおりのほうにながれてる。
かたなさない、生意気なまいきもいわないから、もういましめだけいてもらいたい、と伊織いおりこころからおもったが、そのうったえもさけべない。
――すると。
もう真夏まなつちか炎天えんてんを、市女笠いちめがさけながら、細竹ほそだけつえに、あさ旅衣たびぎぬ裾短すそみじかにくくりあげて――ふと、荷馬にうまむこがわとおけた女性じょせいがある。
(……あっ。おやっ?)
伊織いおりびつきそうに、そのひとしろ横顔よこがお耀かがやいた。
どきん! とむねって、からだじゅうがあつくなって、もみだれてしまいかけた刹那せつなに、そのひとしろ横顔よこがおは、わきもせず、みせまえぎて、うし姿すがたになってしまった。
「ね、ねえさまだっ。――ねえさまのおつうさんだっ……」
くびばして、伊織いおりは、絶叫ぜっきょうした。いや、かれだけは、絶叫ぜっきょうをもって、そのひと背後はいごびかけたつもりであろうが、こえだれにも、きこえてはいなかった。