429・宮本武蔵「円明の巻」「港(1)(2)」


朗読「429円明の巻24.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 55秒

みなと

いち

(――おらは、ちがったのかな?)
伊織いおりはときどき、そんな恐怖きょうふおそわれた。水溜みずたまりをると、自分じぶんかおうつして、
かおはわかる)
と、いくらかこころやすめた。
きのうからあるいている。――どうあるいているのか、見当けんとうもつかない。
あの断層だんそうそこがってからずっとのことなのだ。
いっ」
発作的ほっさてきに、いきなりそらむかって、呶鳴どなったり、
畜生ちくしょうッ」
と、にらんで、その気力きりょくけると、ひじげて、なみだいたりした。
「――おじさアん」
権之助ごんのすけんでみる。
やはりこのにはもういないのだとおもう。はかられてころされたのだとかんがえる。あの附近ふきんらばっていた権之助ごんのすけ遺品いひんてから、伊織いおりはそうおもいこんでしまった。
「……おじさアん。おじさーん」
多感たかん少年しょうねんのたましいは、むだとりながらも、ばずにいられなかった。きのうからあるきつづけているあしのつかれもらない。そのあしにも、みみへんへも、にもがついている。着物きものけている。しかし、なにかえりみようとしない。
「どこだろ?」
ときどき、われにかえときは、から空腹くうふくうったえられるときだった。なにかはべていたが、なにべてたか、よくおぼえてないのである。
おとといの晩泊ばんとまった金剛寺こんごうじへなり、あるいは、そのまえ柳生やぎゅうしょうなりをおもせば、あゆ目的めあてもつくわけだが、伊織いおりあたまには、断層以前だんそういぜん記憶きおくは、まだなにもよみがえってないらしい。
ばくとして、
きている――)
かんじ、きゅうひとりぼッちになったの、きるみちを、さぐあるいているかたちだった。
バタバタとにじのようにさえぎったものがある。雉子きじだった。山藤やまふじかおりがする。伊織いおりすわりこんで、
何処どこだろ?)
もいちど、かんがえた。
ふとかれすがるものをつけた。大日様だいにちさま微笑ほほえみである。大日様だいにちさまは、くも彼方かなたにも、みねにもたににも、何処どこにでもいるものとかれにはおもわれたので、山芝やましばうえにぺたんとすわると、
(わたしのさきおしえてください――)
と、あわせた。
をつぶっていた。
そしてしばらくして、かおげると、やまやまのあいだに、とおうみえた。ッすらと、あおもやのようにえた。
「……んち」
さっきからかれ背後うしろって怪訝いぶかしげにながめていた婦人ふじんがある。むすめははであろう、二人ふたりともかる旅装たびよそおいはしているが身綺麗みぎれいにして、おとこともれていない様子ようす近国きんこく良家りょうけものの、神詣かみもうでか仏参ぶっさんか。徒然つれづれはるたびか。そんなふうにうけられる。
「……なに?」
伊織いおりは、振向ふりむいて、御寮人ごりょうにんむすめかおをじっとた。まだどこか、なのだった。
むすめは、はは――
「どうしたんでしょう?」
と、ささやいている。
御寮人ごりょうにんは、くびをかしげていたが、伊織いおりのそばへってて、かおに、まゆをひそめながら、
いたくないのかえ」
と、いた。
伊織いおりが、かおよこにふると、御寮人ごりょうにんむすめのほうをかえりみて、
わかることは、わかるらしいよ」

どっちからたのかえ。
うまれは何処どこ
なんというのか。
そして一体いったい、こんなところすわって、なにおがんでいるのか――などと御寮人ごりょうにんとそのむすめたずねられて、伊織いおりはようやく、われとわがもどし、平常へいじょうかれにもちかくなった容子ようすで、
「はい、紀見きみとうげで、れのものころされました。そしておらは、やまからがって、昨日きのうからどっちへこうかとまよってしまい、おもして大日様だいにちざまおがんでたら彼方むこううみえてた――」
はじめは、不気味ぶきみがっていたむすめのほうも、伊織いおりはなしくと、かえってははらしい御寮人以上ごりょうにんいじょうに、同情どうじょうをよせ、
「まあ、可哀かわいそうな。おっさん、さかいまでれてってやりましょうよ。もしかしたら、ちょうど年頃としごろだし、おみせ使つかってやってもいいじゃありませんか」
「それはいいけれど、このるかしらね」
るだろ。……ねえ?」
伊織いおりが、うんというと、
「じゃあおで。そのかわりこのお荷物にもつってくれるかえ」
「……うん」
まだどこか、肌馴はだなれないがするとみえ、れになってあるいても当分とうぶんのうち伊織いおりなにをいわれてもただ、とのみしかいわなかった。
だが、それもながいあいだではない。やまり、むらみちきると、やがて岸和田きしわだまちへついた。さっき、伊織いおりやまからうみは、和泉いずみうらであったのだ。人間にんげんおお町中まちなかあるくうち、伊織いおりは、母娘おやこれにもれて、
「おばさん、おばさん何処どこだえ」
さかいだよ」
さかいって、このへん
「いいえ、大坂おおさかちかく」
大坂おおさかはどのへん
岸和田きしわだから、ふねってかえるんですよ」
「え。ふねに?」
これは伊織いおりって、おもいがけないよろこびらしかった。そのよろこびにいで、わずがたりにかれ喋舌しゃべるには――江戸えどから大和やまとまであいだかわ渡船わたしいくたびもったが、うみふねにはまだったことがない。おらのうまれた下総しもうさにはうみはあるけれどふねにはったことがない。――それにれるんならほんとにうれしいなあ。と他愛たあいもなくいいつづける。
伊織いおりや」
と、むすめはもうおぼえて、
「おばさん、おばさんって、ぶのは、おかしいから、おかあさんのことは、御寮人ごりょうにんさまとおび。わたしのことは、おじょうさんとぶんですよ。――いまからくせをつけておかないといけないからね」
「うん」
と、うなずくと、
……もおかしいよ。なんていう返辞へんじはありませんよ。はいとっしゃい。これからは」
「はい」
「そうそう、おまえなかなかだね。おみせ辛抱しんぼうしてよくはたらけば、手代てだい取立とりたててげますよ」
「おばさんは……あ、そうじゃない、御寮人ごりょうにんさまのいえは、いったい何屋なにやなの」
さかい廻船問屋かいせんどんやさ」
廻船問屋かいせんどんやって」
「おまえには、わかるまいが、ふねをたくさんって、中国ちゅうごく四国しこく九州きゅうしゅうのお大名方だいみょうがた御用ごようをしたり、荷物にもつんで、港々みなとみなとったりする……商人あきんどなのさ」
「なアんだ。――商人あきんどか」
伊織いおりきゅうに、御寮人ごりょうにんさまやお嬢様じょうさまを、したるようにつぶやいた。