424・宮本武蔵「円明の巻」「紐(3)(4)」


朗読「424円明の巻19.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 55秒

さん

あわてるでない」
伊織いおりへそういって、そのやさしさとは、別人べつじんのように、権之助ごんのすけは、
「くそっ!」
すさまじい敵意てきいいて、はし左右さゆうへ、ぎらぎらをくばりながら、
「さては、昨夜さくや山伏やまぶし詭計きけいだったか。あさましくもまた、卑劣ひれつぞくめら。ひと見損みそこのうて、可惜あたら一命いちめいをむだにするな」
――かれ伊織いおりを、左右さゆうからはさんでいるやり持手もちては、そのをこめて、ねらいすましたまま、あぶない朽木橋くちきばしうえへは、一歩いっぽないし、先刻さっきからくちもきかないのである。
絶体絶命ぜったいぜつめいうごきのつかない谷間たにまそら朽木橋くちきばしかれた権之助ごんのすけが、怒髪天どはつてんいて、死地しちからさけぶすがたを、山伏やまぶし一方いっぽうがけからややかにながめて、
ぞくとはなに
と、するどくとがめた。
ほどれたなんじらの路銀ろぎんなどにをくるる徒輩とはいおもうか。さようなあさでは、敵地てきち隠密おんみつ資格しかくはないぞ」
「なにっ、隠密おんみつだと」
関東者かんとうものっ」
山伏やまぶしは、大喝だいかつして、
たにへ、そのぼうてろ。つぎこし大小だいしょうてろ。そして両手りょうてうしろへまわし、おとなしく縄目なわめにかかってわれわれの住居じゅうきょまでついてい」
「――ああ」
権之助ごんのすけおおきないきをついて、とたんに闘志とうし大半たいはんうしなったように、
て、てっ。いま一言ひとことはじめてけた。――なにかの間違まちがごとだろう。わしは関東かんとうからもの相違そういないが、けっして、隠密おんみつなどではない。夢想流むそうりゅう一杖いちじょう一道いちどうとして、諸国しょこく修行しゅぎょうしあるく夢想権之助むそうごんのすけというもの
「いうな、くどくどとそんないいけ。どこに、自分じぶん隠密おんみつなりとのってある隠密おんみつがあろうか」
「いや、まったく」
みみさん。このになって」
「では、あくまでも」
「ひッくくったうえで、くことはく」
えきもない殺生せっしょうしたくない。もう一言申ひとこともうせ。なんでわしが隠密おんみつか、その理由りゆうを」
あやしげなるおとこ童子一名どうじいちめいつれて、江戸城えどじょう軍学家北条ぐんがくかほうじょう安房あわ密命みつめいをうけて上方かみがた潜行せんこうす――と、関東かんとう味方みかたものから通牒つうちょうのあったことだ。しかもここへまえ柳生やぎゅう兵庫ひょうご家臣かしんものとも、しのびやかにしめあわせてたことまで見届みとどけてある」
「すべて、から間違まちがいだ」
有無うむはいわさん。さきってから、いくらでももうせ」
さきとは?」
けばわかる」
「わしの意志いしだ。かなかったら……?」
――すると。
はし左右さゆうふさいでいた旅商人たびあきんど杉蔵すぎぞう源助げんすけしょうするふたりが、やり穂先ほさきへ、キラとって、
ころすまでだっ」
と、にじりった。
なにを」
いうとすぐ、権之助ごんのすけは、そばへかかえよせていた伊織いおりなかを、平手ひらてでどんといた。わずかにやっと、あしせてわたれるだけのはばしかない二本にほん丸木まるきから、伊織いおりをのめらしたので、
「――アッ」
こえもろとも、二丈にじょうもある断層だんそうそこへ、自分じぶんからんだように、ちてった。
咄嗟とっさに、また、
「わうっ」
えた権之助ごんのすけは、かざげたじょうからかぜおこして、一方いっぽうやりへ、われとわが五体ごたいを、たたきつけるように、びかかってった。

よん

やりやりはたらきを十分じゅうぶんしめすには、秒間びょうかんときと、尺地しゃくち距離きょりとがる。
かまえてはいたが――
また、せつなをはずさず、繰手くりてばしはしたが。
「しえっッ――」
と、のどでわめいたのみで、完全かんぜんに、杉蔵すぎぞうくういてしまった。そして途端とたんに、からだぐるみ自分じぶんへぶつかって権之助ごんのすけと、かさなったまま、
――どさっ
がけしりもちついた。
ころがりったせつな、権之助ごんのすけじょう左手ひだりてにあった。杉蔵すぎぞうきようとするときかれ右手みぎてこぶしは、杉蔵すぎぞうかおなかを、一撃いちげきへこました。
ぐわっ
面部めんぶのどこからかをふいて、ぐきをいてせたかおは、実際じっさいへこんだようにえた。権之助ごんのすけは、そのかおみつけ、一跳躍いっちょうやくして、高原こうげん平地へいちった。
そして、かみ逆立さかだてて、
いっ」
と、じょうを、つぎものそなえたが、死者ししゃ運命うんめい打開だかいしたとおもったその瞬間しゅんかんこそ、じつは、かれっていたほんとの死地しちだったのであった。
そこらのくさむらから二筋三筋ふたすじみすじ――ひゅっと、むしのようなひもが、くさでてんでたのである。一筋ひとすじひもさきには、かたなつばいつけてあった。また一筋ひとすじひもには、さやぐるみの脇差わきざしがしばりつけてあった。分銅ふんどうかわりにもちいたのであろう。いきおいよくはしってたそれは、権之助ごんのすけ足元あしもとだの、くびのあたりへからみついた。
仲間なかま杉蔵すぎぞう不覚ふかくったとて、すぐ断層だんそうはしわたって源助げんすけ山伏やまぶしのほうへけて、咄嗟とっさかまえていたじょうとその手元てもとへも、一筋ひとすじ、くるくるっと、つるのようにきついた。
「あッ」
蜘蛛くもいとからのがれようとする昆虫こんちゅうのように、権之助ごんのすけ全身ぜんしんは、本能的ほんのうてきあばれたが、わらっとたかって六名ろくめい人間にんげんは、完全かんぜんかれのもがく姿すがたを、おおかくしてしまった。
手取てど足取あしどりである。――その人々ひとびとかれからだからはなれて、
「さすがに手強てごわい」
と、ひとあせったときには、もう、権之助ごんのすけまりのようにくくられて、どうでもしろというように大地だいちまかせられていた。
その両手りょうてどうとを幾重いくえにもいたいましめのひもは、この近郷きんごうで――いや近頃ちかごろはかなり遠国おんごくまでれて丈夫じょうぶ木綿もめん平打紐ひらうちひもで、九度山くどやまひもとも、真田さなだひもともよばれ、製品せいひん販路はんろひろげてある売子うりこも、何処どこってもかけるほどびろくされているひもだった。
いまくさむらから不意ふいって、権之助ごんのすけ陥穽かんせいおとして顔見かおみあわせている、ろく七名しちめいも、すべてその紐売ひもうりの旅商人拵たびあきんどごしらえのものばかりで、ただひとり山伏やまぶし扮装いでたちおとこのみが、ちがっているだけだった。
うまはないか、うまは」
山伏やまぶしはすぐこうくばって、
九度山くどやままで、ててあるくのも、途中とちゅうがわずらわしい。うまくくりつけて、むしろでもっかぶせてくとしては?」
はかると、
「それがいい」
「このさき天見村あまみむらまでけば」
と、一同異議いちどういぎなく、権之助ごんのすけて、くろにかたまって、くもくさ彼方かなたへ、いそいでってしまった。
――だがそのあと
そこから、つめたいかぜのふきがるたびにひとこえが、この高原こうげんそらをながれていた。断層だんそうたにちこんだ伊織いおりのさけびであることはいうまでもない。