421・宮本武蔵「円明の巻」「古今逍遥(1)(2)」


朗読「421円明の巻16.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 11秒

古今逍遥ここんしょうよう

いち

光悦こうえつとよばれた老尼ろうに息子むすこは、かみにつつんだ菓子かしを、たもとから取出とりだして、伊織いおりたせ、
のこもの失礼しつれいだが、よかったらべておくれ」
と、いった。
伊織いおりは、せたまま、どうしていいか、からないかおつきで、
「おじさん、これ、もらっといてもいいの」
権之助ごんのすけにたずねた。
「いただいておけ」
と、権之助ごんのすけが、伊織いおりにかわって、れいをのべると、老尼ろうにはまた、
「おことばの様子ようすでは、御兄弟ごきょうだいでもないようじゃの。関東かんとうのおかたらしいが、たびみちを、どこまでおしなされるのか」
てないみちを、てなくたびしておりまする。おさっしのとおり、ふたりは肉親にくしんではござりませぬが、けんみちにおいては、としはちがいまするが兄弟きょうだい弟子でしなかでござります」
けんをおならいなされますか」
「はい」
「それは一方ひとかたならぬ御修行ごしゅぎょうのおかたは、どなたかの」
宮本武蔵みやもとむさしっしゃいます」
「え。……武蔵むさしどの?」
「ごぞんじですか」
こたえをわすれて、老尼ろうには、
「ほう……」
と、ただをみはり、なにおもなかにいる様子ようす武蔵むさしらぬなかひととはおもわれなかった。
するとこの老尼ろうに息子むすこも、なつかしいひとでもいたかのようにってて、
武蔵むさしどのはいま、どこにおられますな。そののご様子ようすは……」
などと、いろいろたずねだし、権之助ごんのすけがそれについて、かぎりの消息しょうそくはなしてかせると、いちいちははなる老尼ろうにかおあわせて、うなずくのであった。
そこで、権之助ごんのすけから今度こんどは、
「――して、貴方様あなたさまは」
と、たずねると、
もうしおくれました」
びて、
「わたくしはきょう本阿弥ほんあみつじ光悦こうえつというもの。また、これははは妙秀みょうしゅうでして、武蔵むさしどのとはろく七年前しちねんまえに、ふとおしたしくしていただいたこともあり、なにかにつけ、日頃ひごろ、おうわさもうげているものですから」
光悦こうえつは、そのころおもばなしふたみっいつまんではなした。
光悦こうえつは、く、かたなうえにおいて権之助ごんのすけっている。また、武蔵むさしとの交渉こうしょうは、その武蔵むさしから草庵そうあんべりでいたこともある。おもいがけぬところで、おもいがけぬひとうものかな。――と権之助ごんのすけおどろいた。
そのおどろきのうちには、京都きょうとでもしかるべきいえがらの母堂ぼどうといわれる妙秀尼みょうしゅうにやまた、本阿弥光悦ほんあみこうえつともあるひと母子おやこが、なんでこの山里やまざとひとわぬ伽藍がらんなどにて、しかもてら雑人ぞうにんすらおこたっているやま朽葉くちばなどを、竹箒たけぼうきって、こんなくらくなるまで掃除そうじしているのだろうか?
その不審ふしんも、無意識むいしきのなかに、手伝てつだっていたにちがいない。
――いつかおぼろつきが、多宝塔たほうとう水煙すいえんのあたりにさしのぼっていた。きずりのひとでも人恋ひとこいしい夜頃よごろではあるし、権之助ごんのすけは、てな心地ここちになって、
「おふたかたには、このうえやま崖道がけみちを、終日ひねもす、お掃除そうじなされていた御様子ごようす。どなたか、御縁ごえんをひくおかたでもあるのですか。それとも御遊山ごゆさんのつれづれにでも……?」
と、たずねてみた。

「なんの。なんの」
光悦こうえつこうべっていう。
「このおごそかな聖地せいちで、まぐれなどと、勿体もったいない」
相手あいて権之助ごんのすけが、なにらずにいったにせよ、その曲解きょっかいはなはおそれるもののように、かれは、徒然つれづれはらごなしにほうきなどっていたのではないことを弁明べんめいつとめて、
「あなたは、この金剛寺こんごうじへは、はじめてのおもうでか。そしてこの御山みやま歴史れきしについて、山僧さんそうからなにもまだおきになっていないのか」
権之助ごんのすけは、ありのまま、
――しかり。
そんなことの無智むちは、べつに武辺者ぶへんしゃ自己じこ恥辱ちじょくともかんがえずこたえると、光悦こうえつは、
「では、烏滸おこ沙汰さたですが、わたし山僧さんそうにかわってきかじりの請売うけうりをすこしご案内あんないいたしましょうか」
と、四辺あたりまわし、
「よいあんばいに、おぼろつきがさしのぼってましたから、ここにったままでも絵図えずをさすように、このうえいんのおはか御影堂みえいどう観月亭かんげつてい。――また彼方かなた求聞持堂ぐもんじどう護摩堂ごまどう大師堂だいしどう食堂じきどう丹生高野にうこうや神社じんじゃ宝塔ほうとう楼門ろうもんなど、ほぼ一望いちぼうにすることができましょう」
ひとわたりゆびをさして、光悦こうえつともに、寂土じゃくどおぼろひたったていくのであった。
――御覧ごろうぜよ。あのまつあのいし一木一草いちぼくいっそうといえどみな、どこかにこのくにたみくさとひとしく、不屈ふくつ志操しそう伝統でんとう優雅ゆうが姿すがたにもち、またなにかをひとかたらんとしているではありませんか。光悦こうえつは、草木くさきせいかわって、草木くさきがいわんとすることを述懐じゅっかいしてみたいとおもうのでございます。
それは。
元弘げんこう建武けんむころから正平年間しょうへいねんかんにわたるなが乱世らんせいにかけてこの御山みやまが、ときには、大塔宮護良だいとうのみやもりなが親王しんのう戦勝祈願せんしょうきがんをこめらるる大炉たいろとなり帷幕いばく密議所みつぎじょとなり、またときには、楠正成くすのきまさしげたちの忠誠ちゅうせいまもるところとなるかとおもえば、きょう六波羅ろくはら賊軍ぞくぐんが、大挙たいきょしてせる目標もくひょうとなったり、くだって足利氏あしかがし暴奪ぼうだつなしおわった乱麻らんま時代じだいとなってはしのげるもおそおおいことながら、後村上天皇ごむらかみてんのうは、男山御脱出以来おとこやまごだっしゅついらい軍馬ぐんばあいだ彼方此方あちこち御輦みくるま漂泊さすらいられて、やがてこの金剛寺こんごうじ行宮あんぐう年久としひさしく、山僧さんそう生活せいかつ同様どうよう御不自由ごふじゆうをしのんでおあそばした。
なお。それよりまえには。
この御山おやまには、光厳こうごん光明こうみょう崇光すこう三上皇さんじょうこうも、御幸みゆきしていらせられたので、一山いっさんには、守護しゅご武士ぶしたちや、公卿くげたちも、おびただしいかずにのぼり、賊軍ぞくぐん襲来しゅうらいそなえる兵馬兵糧へいばひょうろうしろはもとよりのこと、なが年月ねんげつのうちには、供御くごかしぎにたてまつ朝夕あさゆうのものにも事欠ことかいて、当時とうじさまのあたりに禅恵ぜんえ法印ほういんしるしたものをれば、

坊舎ボウシャ山房皆切払さんぼうみなきりはら
損亡申そんもうもうバカ

と、なげいております。
しかもそのあいだ主上しゅじょうにはてら食堂じきどう政庁せいちょうてられ、寒日かんじつなく、炎日えんじつもおいこいなく、政務せいむをおとりあそばしていたとやら。
光悦こうえつは、そこでふと、こえをのんで、
「このあたり、あの食堂じきどうといい、摩尼院まにいんもうし、みなそうした御遺跡おいせきでないものはございません。このうえにある、いんのおはかというのも、光厳院こうごんいん法皇ほうおう御分骨ごぶんこつをおさだめしてある霊地れいちといいつたえておりますが、足利あしかがこのかた、御垣みかきたおれ、朽葉くちばうずもれ、あまりにれはてておりますので――今日きょうはふと、あさからははといいあわせて、いんのおはかのあたりからそここことなく、お掃除そうじをさせていただいていたわけなのです。――もっとも、それも徒然つれづれであろうといわれれば、それまでのことですが」
と、みをふくんでいった。