412・宮本武蔵「円明の巻」「麻の胚子(3)(4)」


朗読「412円明の巻7.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 20秒

さん

「そうだ……」
と、つぶやいて、助九郎すけくろうはおつうのすがたをるとともに、そばものへいった。
「せめて宇治うじあたりまで、うしおくってしんぜよう。ちょうど、ゆうべは丑之助うしのすけも、御城内ごじょうない薪倉まきぐらとまっているはず――」
と、びにやった。
「それはよいところおもいつかれた」
人々ひとびともいって、わかれのことばわしたが、しばらくおつうめて、中門ちゅうもんのほとりにたせておいた。
だが、やがてもどってさむらいのことばには、
丑之助うしのすけは、見当みあたりません。小者こものくと、ゆうべのうち、あの闇夜やみよを、つきえて荒木村あらきむらかえったということでございます」
「……えっ。ゆうべのうちかえってしまったと」
助九郎すけくろうは、あきれたこえはなった。
きのうの事情じじょういたものは、だれもみな、丑之助うしのすけ剛胆ごうたんさに、おどろかないものはなかった。
「では、こまけ」
助九郎すけくろうのいいつけに、小侍こざむらい一人ひとりはすぐうまやんでった。
「いいえ、おんなで、おくらなどいただいては、勿体もったいない」
と、おつう辞退じたいしたが、兵庫ひょうごいてすすめるので、
「では、おことばにあまえて」
と、小侍こざむらいいてきた一頭いっとう月毛つきげのうえにあずけた。
こまは、おつうせて、中門ちゅうもんから大手おおてのゆるいさかはじめた。もちろん、宇治うじまでは、一名いちめい小侍こざむらいが、口輪くちわってこまいてく。
つうは、こまから、人々ひとびと姿すがた振向ふりむいて、れいかえした。そのかおに、がけからびているうめ横枝よこえださわった。三輪さんりんにおってった。
「……おさらば」
と、こえにはさなかったが、兵庫ひょうごはいっていた。さか途中とちゅうったうめのにおいが、そのあたりまでかすかにうごいてた。兵庫ひょうごはたまらないさびしさと――同時どうじにそのくるしい気持きもちとは反対はんたい彼女かのじょさいわいとをいのっていた。
――ているうちに、彼女かのじょのすがたは、城下じょうかみちちいさくなってった。兵庫ひょうごはいつまでもっていたので、かれのみをそこにいて、あたりのものはみなってしまった。
武蔵むさしとやらはうらやましい)
さびしいむねうちで、われともあらつぶやいていた。――すると、かれのうしろに、いつのにか、ゆうべ荒木村あらきむらかえったという丑之助うしのすけっていた。
「――兵庫様ひょうごさま
「オ……。わっぱか」
「はい」
「ゆうべ、かえったのか」
「おっかあが、あんじますで」
つきとおって?」
「はあ。あそこをえずにゃむらかれねえで」
こわくなかったか」
「なんにも……」
今朝けさは」
「けさも」
牢人ろうにんどもにつからずにたか」
「おかしいのだよ、兵庫様ひょうごさま山住居やまずまいしていた牢人ろうにんどもは、きのう悪戯わるさをした女子おなごが、あと柳生様やぎゅうさまのおしろにいるお女中じょちゅうわかって、きっとこのあとでは、柳生衆やぎゅうしゅうしかけてるとさわいで、よるのうちに、みんな山越やまごえして何処どこへかってしまったとさ」
「ははは、そうか。……して、わっぱ。おまえは今朝けさなにしにたな?」
「おらかい」
と、丑之助うしのすけはやや羞恥はにかんで――
「きのう木村様きむらさまが、おらっちのやま自然薯じねんじょめてくれたで、けさはやく、おっかあにも手伝てつだってもらって、山芋やまいもってってたんさ」
と、いった。

よん

「そうか――」
兵庫ひょうごはじめて、さびしさをかおからはらった。おつううしなった瞬間しゅんかん空虚うつろを、この純朴じゅんぼくやま少年しょうねんわすたのである。
「ではきょうは、美味うまいとろろじるえるというものだな」
兵庫様ひょうごさまきなら、またいくらでもってるが」
「はははは。そう気遣きづかうにはおよばん」
「きょうは、おつうさまは」
いまがた江戸えどった」
「え。江戸えどへ。……じゃあ、きのうたのんでおいたこと、兵庫様ひょうごさまにも木村様きむらさまにも、はなしておいてくれなかったかなあ」
なにたのんだのか」
「おしろ仲間ちゅうげん使つかってもらいたいことを」
仲間奉公ちゅうげんぼうこうをするには、まだちいさい。おおきくなったら召使めしつかってやる。どうして奉公ほうこうしたいのか」
剣道けんどうならいたいんだ」
「ふム……」
おしえてください。おしえてください。おっかあきているうちに、上手じょうずになってせなければ……」
ならいたいというが、そちはもうだれかにまなんでおるだろう」
相手あいてにしたり、けものなぐってみたり、ひとりで木刀ぼくとうってたりしているだけだ」
「それでいい」
「でも」
「そのうちに、たずねてい。わしのいるところへ」
「いるところって何処どこ
多分たぶん名古屋なごやむことになるだろう」
名古屋なごや尾張おわり名古屋なごやか。おっかあきているうちは、そんなとおくへはけない」
おっかあ、ということばをらすたびに、丑之助うしのすけにはなみだえる。
兵庫ひょうごも、なにがなし、ひしとむねにこたえ、率然そつぜんと、いった。
い」
「……?」
道場どうじょうとおれ。兵法家へいほうかとして一人前いちにんまえになれるたちか、なれないたちか、てつかわす」
「えっ?」
丑之助うしのすけは、ゆめかと、うたがうようなかおをした。このおしろにある道場どうじょうふる大屋根おおやねは、かれおさないたましいが、生涯しょうがい憧憬あこがれをもってつねあおいでいる希望きぼう殿堂でんどうなのだ。
――そこへとおれ、という。しかも柳生家やぎゅうけ門下もんかでも家臣かしんでもない一族いちぞくひとから。
丑之助うしのすけは、うれしさに、ただむねふくらんでくちもきけなかった。兵庫ひょうごはもうさきっている。丑之助うしのすけはちょこちょこいかけた。
あしあらえ」
「はい」
雨水あまみずめてあるいけで、丑之助うしのすけあしあらった。つめについているつちまでをつけてこすりおとした。――そしてうまれてはじめてむ、道場どうじょうというもののゆかった。
ゆかかがみのようだった。自分じぶん姿すがたうつるかとおもわれる。――四面しめんたくましい板張いたばり頑健がんけん棟木むなぎかれ威圧いあつをうけてすくんだ。
木剣ぼっけんて」
兵庫ひょうごこえまでが、ここにはいるとちがうようながした。正面脇しょうめんわき侍溜さむらいだまりに、木剣ぼっけんのかかっているかべえる。そこへって、丑之助うしのすけ一筋ひとすじ黒樫くろがしえらんだ。
兵庫ひょうごる。
兵庫ひょうごはそれを、垂直すいちょくげて、ゆかなかた。
「……よいか」
丑之助うしのすけは、った木剣ぼっけんを、うで平行へいこうげて、
「はいっ」
と、いった。