410・宮本武蔵「円明の巻」「奔牛(4)(5)」


朗読「410円明の巻5.mp3」8 MB、長さ: 約 9分 07秒

よん

もう般若野はんにゃのちかかった。
――ける心地ここちもないおつうであった。まるところらない奔牛ほんぎゅういきおいであった。
どうなることか?
と、往来おうらいものも、後振あとふいて、おつうかわりにこえっていたが、そのとき彼方かなたつじから、むね文筥ふばこけた何家どこかの下郎げろうが、うしまえあるいてた。
「――あぶないっ」
と、だれ注意ちゅういしたが、その下郎げろうはなおすぐあるいていた。当然盲目的とうぜんもうもくてきすすんで奔牛ほんぎゅうはなづらと、下郎げろうからだとは、おそろしいいきおいでつかったようにえた。
「ア。うしつのかれた」
「あほう!」
同情どうじょうあまり、ていたものは、かえってその下郎げろうのぼんやりをののしった。
だが、奔牛ほんぎゅうつのけられたとおもったのは、路傍みちばたひとたちの錯覚さっかくだった。ばん――となにおとがしたのは、下郎げろう平掌ひらてが、途端とたんうし横面よこつらをつよくりつけたのだった。
よほどな強打きょうだであったとみえ、うしふとのどくびをよこげて、ぐるりと半廻はんまわりほどまわったが、猛然もうぜんと、つのなおしたとおもうと、まえにもしたいきおいで、また、した。
――けれど今度こんどは、十尺じゅっしゃくともすすまぬうちに、奔牛ほんぎゅうあしは、ぴたとまってしまった。そしてくちからおびただしい唾液だえきいきらして、おおきなからだに、あえぎのなみたせておとなしくなっていた。
「お女中じょちゅう。はやくりたがよい……」
下郎げろうは、うしうしろからいった。
このおどろくべきはたらきにおどろいた往来おうらいものたちは、すぐわらわらとあつまってた。そしてみな下郎げろう足元あしもとをみはった。――その片足かたあし奔牛ほんぎゅう手綱たづなんでいたからであった。
「……?」
何家どこ下僕しもべだろうか。武家ぶけ仲間ちゅうげんのようでもなし、町家ちょうか下男しもべともみえない。
まわりにたかったものは、そんなことをすぐかんがえているかおつきだった。――そしてはまた、下郎げろうあしと、んでいる手綱たづなて、
「えらいちからじゃな」
単純たんじゅんしたいていた。
つうは、うしからりて、下郎げろうまえに、あたまげていたが、まだわれにかえれない容子ようすだった。それにまわりのひとだかりにもちぢめてしまい、そのかおにも姿すがたにも、容易ようい落着おちつきがもどってなかった。
「こんな素直すなおうしが、どうしてあばれたものか」
下郎げろうはすぐうし手綱たづなってみちばたのくくしつけた。そして、はじめて合点がてんのいったかおをして、
「おう、しり大怪我おおけがをしておるわ。かたななぐったような大傷おおきず。……道理どうりで、これでは」
うししりながめて、かれがそうつぶやいているであった。あたりのひとだかりをしかって、はらいながら、
「や。そちはいつも、胤舜いんしゅん御坊ごぼうともをしてみえる、宝蔵院ほうぞういん草履取ぞうりとりではないか」
と、そこへったさむらいがある。
いそいでけつけてたものとみえ、その言葉ことば息喘いきぎれにはずんでいた。柳生やぎゅうしろ木村助九郎きむらすけくろうなのである。

宝蔵院ほうぞういん草履取ぞうりとりは、
「よいところでおにかかりました」
と、むねけていた革文筥かわふばこはずし、自分じぶんは、院主いんじゅのお使つかいで、この書面しょめんを、柳生やぎゅうまでおとどけにゆく途中とちゅうであるが、おさしつかえなければ、ここで御披見ごひけんくだされまいかとて、それを手渡てわたした。
「わしへか」
助九郎すけくろうは、ねんして、手紙てがみひらいた。きのうった胤舜いんしゅんからのもので――んでみると、

つきにいるさむらいどものことについて、昨日申きのうもうげたは、そのあとよく取糺とりただしてみると、藤堂家とうどうけさむらいではなく、浮浪ふろう冬籠ふゆごもりしていたものらしい。どうか拙僧せっそう前言ぜんげん誤聞ごぶんとして、取消とりけしていただきたい。ねんのために、りあえずみぎまで。

といったような文意ぶんいであった。
助九郎すけくろうは、たもとおさめて、
「ご苦労くろう書面しょめんおもむきは、当方とうほうでも取調とりしらべたところ誤聞ごぶん相分あいわかって安心あんしんしておるほどに、おあんじないように――と、げてくれい」
「では、みちばたで失礼しつれいでございましたが、てまえはこれで」
わかれかけると、
「あ。て」
助九郎すけくろうめて、やや言葉ことばあらためていった。
「おぬし、いつごろから、宝蔵院ほうぞういん下郎げろうみこんだか」
「つい近頃ちかごろの、新参しんざんでございます」
は」
寅蔵とらぞうといいまする」
「はてな?」
じっとすえて――
将軍家御師範しょうぐんけごしはん小野治郎右衛門先生おのじろうえもんせんせい高弟こうてい浜田はまだ寅之助とらのすけどのとはちがうかの?」
「えっ」
「それがしは、はじめての御見ぎょけんだが、おしろのうちに、薄々うすうすかおったものがあって、胤舜御坊いんしゅんごぼう草履取ぞうりとりは、小野治郎右衛門おのじろうえもん高弟こうてい浜田寅之助はまだとらのすけじゃが? ――どうもそうらしいが? ――とうわさをしていたのをちらとうけたまわったが」
「……は」
「おひとちがいか」
「……じつは」
浜田寅之助はまだとらのすけは、かおしてさし俯向うつむいた。
「ちと……念願ねんがんすじがござりまして、宝蔵院ほうぞういん下郎げろうみましたなれど、師家しか面目めんぼく、また、自分じぶんはじ。……どうか御内分ごないぶんに」
「いやなに、さらさら御事情ごじじょううかがおうなどとはぞんじもらぬこと。……ただ日頃ひごろ、もしやとおもっていたので」
くおおよびとぞんじまするが、仔細しさいあって、治郎右衛門じろうえもん道場どうじょうててやまかくれました。その原因げんいんは、この寅之助とらのすけつつかにあったことゆえ、自分じぶんおとし、たきぎみずにのうても、宝蔵院ほうぞういんでひと修行しゅぎょうせんものと、身許みもとをかくしてんだわけ。――おはずかしゅうぞんじます」
佐々木小次郎ささきこじろうとやらのために、小野先生おのせんせいやぶれたということは、その小次郎こじろう吹聴ふいちょうしつつ、豊前ぶぜんくだってまいったので、かくれもない天下てんかうわさとなっておるが、さては……師家しか汚名おめいそそがんための御決心ごけっしんとみえる」
「いずれ。……いずれまた」
こころから赤面せきめんえぬように、草履取ぞうりとり寅蔵とらぞうは、そういうと、にわかわかれて、ってしまった。