406・宮本武蔵「円明の巻」「春告鳥(1)(2)」


朗読「406円明の巻1.mp3」8 MB、長さ: 約 8分 55秒

宮本武蔵みやもとむさし
円明えんみょうまき
吉川英治よしかわえいじ

春告鳥はるつげどり

いち

ここは、うぐいす名所めいしょ
柳生やぎゅうしろのある柳生谷やぎゅうだに――
武者溜むしゃだまりの白壁しらかべに、二月にがつがほかりとして、槍梅やりうめかげ一枝ひとえだしずかなになっている。
南枝なんし梅花うめさそっても、片言かたこと初音はつねこえは、まだまれにしかかれないが、野路のみち山路やまみちゆきけるとともに、めっきりしてくるのが、いま天下てんかあまね武者修行むしゃしゅぎょうしょうするきゃくで、
――たのもう。たのもう。
おとずれだの、
――大祖たいそ石舟斎せきしゅうさい先生せんせい一手いって
だの。また、
――てまえこそはなんなにがしながむ、なんだれそれ。
だのといって、れい石垣坂いしがきざかまっているもん無益むえきたたものが、まことくびすせっしてるのである。
「どなたの御添書ごてんしょでおしになろうと、宗祖しゅうそ老年ろうねんゆえ、一切いっさい、おにかかりませぬ」
と、ここの番士ばんしは、十年一日じゅうねんいちじつのごとくおな言葉ことばで、そういうきゃく謝辞しゃじしている。
なかには、
芸道げいどうには、貴賤きせんも、名人めいじん初心しょしんも、みちにおいては、ないはずでござろうに」
などと小理窟こりくつこねて、憤々ふんぷんとしてかえ武芸者ぶげいしゃもあるが、なんらん、石舟斎せきしゅうさいはすでに去年きょねんひとになっていた。
江戸表えどおもてにある長子ちょうし但馬守たじまのかみ宗矩むねのりが、この四月中旬しがつちゅうじゅんにならなければ公儀こうぎからいとまをとって帰国きこくできない事情じじょうにあるため――まだはっせずにめてあるのだった。
こころなしか、そうおもって、吉野朝以前よしのちょういぜんからというここのふる砦型とりでがたしろあおぐと、四山よんざんはるせまってているにかかわらず、どことなくしいんとして冷寂れいじゃくかんがある。
「おつうさま」
おくまる中庭なかにわって、ひとりの小僧こぞうが、いま彼方此方あちこちむねまわしていた。
「――おつうさま。どこにおででございますな」
すると、ひとつの障子しょうじがあいた。しつなかめられていたこうけむりが、彼女かのじょともそとながれた。百日ひゃくにちぎてもなお、わないでいるせいか、なしはなのようにしろうれいをかおたたえている。
持仏堂じぶつどうでございます」
「お。またそれへ」
御用ごようですか」
兵庫ひょうごさまが、ちょっと、しいともうされまする」
「はい」
えんづたいに、また、橋廊下はしろうかえたりして、そこからとお兵庫ひょうご部屋へやたずねてゆく。――兵庫ひょうごえんこしかけていたが、
「オオ。おつうどの、てくれたか、わしのかわりになって、ちょっと挨拶あいさつてもらいたいが」
「どなたか……お客間きゃくまに?」
先刻さっきからとおって、木村助九郎きむらすけくろう挨拶あいさつておるが、あの長談義ながだんぎには閉口へいこうなのだ。ことに、坊主ぼうず兵法へいほう議論ぎろんなどはまいるからな」
「ではいつもの、宝蔵院様ほうぞういんさまでいらっしゃいますか」

奈良なら宝蔵院ほうぞういん柳生やぎゅうしょう柳生家やぎゅうけとは、地理的ちりてき関係かんけいからも、とおくないし、槍法そうほう刀法とうほううえからも、因縁いんねんあさくなかった。
石舟斎せきしゅうさいと、宝蔵院ほうぞういん初代しょだい胤栄いんえいとは、生前親せいぜんしたしいあいだがらであった。
石舟斎せきしゅうさい壮年時代そうねんじだいに、しん悟道ごどうをひらかせてくれた恩人おんじんは、上泉かみいずみ伊勢守いせのかみであったが、その伊勢守いせのかみを、はじめて柳生やぎゅうしょうれて紹介ひきあわせたものは、胤栄いんえいであったのである。
――だがその胤栄いんえいも、いま故人こじんになって、二代にだい胤舜いんしゅんが、師法しほうをうけ、宝蔵院流ほうぞういんりゅうやりなるものは、その後愈々あといよいよ武道興隆ぶどうこうりゅう時潮じちょうって、時代じだい一角いっかくに、ひとつの大淵叢だいえんそうをなしているのだった。
兵庫ひょうごどのが、おえにならぬが、胤舜いんしゅんまいったこと、おつたえくだされたかの」
今日きょうしも、書院しょいん客座きゃくざに、二人ふたり法弟ほうていしたがえて、先刻せんこくからはなしているものが――その宝蔵院ほうぞういん二世にせい権律師ごんのりっし胤舜いんしゅんで、その応接おうせつに、下座げざにあるのが、柳生四高弟やぎゅうよんこうてい一人ひとり木村助九郎きむらすけくろうなのである。
故人こじんとの関係かんけいから、よくここへはおとずれるのである。それも、忌日きにち法事ほうじなどでなく、どうも兵庫ひょうごをつかまえて、兵法へいほうだんじたいのが目的めあてらしいのだ。そしてあわよくば、故人こじん石舟斎せきしゅうさいが、
叔父おじ但馬たじまおよばず、祖父そふのわれにもすぐれたるやつ)
と、なかれてもいたくないほど鍾愛しょうあいして、上泉伊勢守かみいずみいせのかみから自身じしんけた新陰しんかげ相伝そうでん三巻さんかん奥旨おうし一巻いっかん絵目録えもくろくなど、すべてこれを生前せいぜんさずけたとく、故人こじんまご柳生兵庫やぎゅうひょうごたい胤舜いんしゅんみずかほうじるところのやりをもって、一手いって試合しあいのぞんでいるらしいぶりも仄見ほのみえるのである。
それをさとったか、兵庫ひょうごは、かれおとずれにもここ三回さんかい
風邪かぜごこちにて)
とか、
(やむなきしつかえで)
とかいって、けている。
きょうも胤舜いんしゅんは、なかなかかえぶりもなく、やがて兵庫ひょうごが、せきえるのを、なんとなく期待きたいしているらしい。
木村助九郎きむらすけくろうは、さっして、
「はい、最前さいぜん、おつたえしておきましたゆえ、お気分きぶんさえよろしければ、ご挨拶あいさつえましょうが……」
と、なんとつかず、いいにごしていた。
「まだ、お風邪気かぜけかな?」
と、胤舜いんしゅんはいう。
「は、どうも……」
平常へいじょう、およわくおられるか」
御頑健おがんけんたちでおられますが、ひさしく江戸表えどおもてにござって、山国やまぐにふゆされたのは、近年きんねんないことなので、れぬさむさがこたえたのかもれませぬ」
頑健がんけんといえば、兵庫ひょうごどのが、肥後ひご加藤清正公かとうきよまさこうこまれて、高禄こうろくにてへいせられたおり――おまごのために故人こじん石舟斎せきしゅうさいさまが、おもしろい条件じょうけんをつけられたそうですな」
「はて。およんでおりませぬが」
拙僧せっそうも、先師胤栄せんしいんえいからいたのですが、肥後殿ひごどのへここの大祖たいそがいわるるには、まごは、ことのほか短慮者たんりょものゆえ、御奉公ごほうこうあやまっても、三度さんどまで死罪しざいのおゆるしをおふくみおきくださるなら、差出さしだしましょうといわれたそうな。……はははは、そのように、兵庫ひょうごどのは、御短慮ごたんりょえるが、大祖たいそにはよほどお可愛かわいかったものとみえますな」