404・宮本武蔵「二天の巻」「天音(1)(2)」


朗読「404二天の巻60.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 37秒

天音てんおん

いち

武蔵むさしは、なにおもうところあったのか、そのたつ口御門くちごもんると、牛込うしごめ北条家ほうじょうけにはもどらず、武蔵野むさしの草庵そうあんかえってしまった。
留守るすをしていた権之助ごんのすけは、
「オオ、おもどり」
と、すぐこま口輪くちわりにそとしてる。
いつになく糊目のりめのついた式服しきふくすがたの武蔵むさし美々びびしい螺鈿らでんくらなど――さては今日きょうのうち登城とじょうもすみ、首尾しゅび上々じょうじょうに、就任しゅうにん沙汰さたはきまったものと、権之助ごんのすけはやのみこみして、
「おめでとうござりました。……はや明日あすからでも、御出仕ごしゅっしでござりますか」
武蔵むさしすわると、藺席いむしろのすそにかれすわってをつかえながら、よろこびをべるつもりでぐいった。
武蔵むさしわらって、
「いや、沙汰止さたやみになった」
「えっ……?」
「よろこべ、権之助ごんのすけ今日きょうになって、にわかにお取消とりけしという沙汰さた
「はて。ちぬことで。一体いったいどういうわけでございましょう」
うにおよばん。理由りゆうなどただしてなにになろう。むしろ天意てんいしゃしていい」
「でも」
其方そちまで、わしの栄達えいたつが、江戸城えどじょうもんにばかりあるとおもうか」
「…………」
「――とはいえ、自分じぶん一時いちじ野心やしんいだいた。しかしわしの野望やぼうは、地位ちいろくではない。烏滸おこがましいが、けんこころをもって、政道せいどうはならぬものか、けんさとりをもって、安民あんみんさくたぬものか。――けん人倫じんりんけん仏道ぶつどうけん芸術げいじゅつ――あらゆるものを、一道いちどうかんきたれば――けん真髄しんずいは、政治まつりごと精神こころにも合致がっちする。……それをしんじた。それをやってみたかったゆえに、幕士ばくしとなってやろうとおもった」
何者なにものかの、讒訴ざんそがあったのか、残念ざんねんでござりまする」
「まだいうか。穿きちがえてくれるな。一時いちじは、そんなかんがえもいだいたことはたしかだが、そのあとになって――こと今日きょうは、豁然かつぜんと、おしえられた。わしのかんがえは、ゆめちかい」
「いえ、そんなことはござりませぬ。よい政治まつりごとは、たかけんみちと、その精神こころひとつとてまえもかんがえまする」
「それはあやまりはないが、それは理論りろんで、実際じっさいでない。学者がくしゃ部屋へや真理しんりは、世俗せぞくなか真理しんりとはかならずしも同一どういつでない」
「では、われわれがきわめてこうとする真理しんりは、実際じっさいのためには役立やくだちませんか」
「ばかな」
と、武蔵むさしいかるがごとく、
「このくにのあらんかぎり、さまはどうかわろうと、けんみち――ますらおの精神こころみちが――無用むよう技事わざごとになりおわろうか」
「……は」
「だがふかおもうと、政治まつりごとみちのみがほんではない。文武二道ぶんぶにどう大円明だいえんみょうさかいこそ、無欠むけつ政治せいじがあり、かす大道だいどうけん極致きょくちがあった。――だから、まだちちくさいわしなどのゆめゆめぎず、もっと自身じしんを、文武二天ぶんぶにてん謙譲けんじょうつかえてみがきをかけねばならぬ。――政治まつりごとするまえに、もっともっと、からおしえられてねば……」
そういったあとで、武蔵むさしはにやにやとわらった。おさえきれない自嘲じちょうらすように。
「……そうだ。権之助ごんのすけすずりはないか。すずりがなくば、矢立やたてしてくれい」

なに書面しょめんしたためて、
権之助ごんのすけ大儀たいぎながら、使つかいにってもらいたいが」
牛込うしごめ北条ほうじょうどののおやしきへでございますか」
「そうだ。委細いさい武蔵むさしのこころは書中しょちゅうにある。沢庵たくあんどの、安房あわどのへ、そちからもよろしゅうおつたもうしあげてくれい」
武蔵むさしは、そうげて、
「そうそう、ついでに伊織いおりよりあずかりおるしな、そちのからかれへ、もどしておいてほしい」
取出とりだして、書面しょめんともに、権之助ごんのすけまえへさししたものると、それはいつか伊織いおりから武蔵むさしあずけた――ちち遺物かたみというふる巾着きんちゃくであった。
先生せんせい
権之助ごんのすけは、不審顔ふしんがおに、ひざをすすめ――
「いかなるわけでございますか。あらたまって、伊織いおりからおあずかりのしなまでを、にわかにおかえしあるとは」
だれともはなれて、武蔵むさしはまた、しばらくやまりたい」
やまならばやまへ、まちならばまちなかへ、何処どこまでも、弟子でしとして、伊織いおり手前てまえもおともいたす所存しょぞんにござりますが」
ながくとはいわぬ、りょう三年さんねんあいだ伊織いおりは、そちのたのむ」
「えっ。……ではまったく、隠遁いんとん御意思ごいしで」
「まさか――」
武蔵むさしわらいながら、ひざいて、うしろにをつかえ、
乳臭ちちくさいわしが、いまからなんで――。さきにいった大望たいもうもある。あれやこれ、よくもこれから。まよいもこれから。――だれうたか、こういうのがあった」

なかなかに
人里近ひとざとちかくなりにけり
あまりにやま
おくをたづねて

武蔵むさし口誦くちずさむのを、権之助ごんのすけこうべれていたが、そのまま、使つかいの二品にしな懐中かいちゅうに、
「ともあれ、よるにかかりますゆえいそいでまいります」
「ウム。拝借はいしゃくこま、おうまやへおかえもうしておいてくれい。衣服いふくは、武蔵むさしあかをつけたものゆえ、このまま頂戴ちょうだいいたしおくとな」
「はい」
本来ほんらいたつくちより今日きょうすぐに、安房あわどののおやしきほうもどるべきなれど、このたびのこと、お取止とりやめの御諚ごじょうあるからには、武蔵むさしに、将軍家御不審しょうぐんけごふしんあればこそである。将軍家しょうぐんけ直仕じきしさるる安房あわどのへ、これ以上いじょう御昵懇ごじっこんは、おためにもならぬこととおもうて――わざと草庵そうあんかえってた。……このは、書中しょちゅうにはしたためてないから、其方そち口上こうじょうにて、しからずつたえておいてくれるよう」
承知しょうちいたしました。……とにかく手前てまえも、今宵こよいのうちに、もどってまいりますから」
もう赤々あかあか野末のずえ夕陽ゆうひしずみかけている。権之助ごんのすけは、こま口輪くちわって、みちいそいだ。のためにあたえられた他家たけくらなので、かえしにゆくには、勿論もちろん、そのこまにはらない。――だれてはいないし、いているこまだが、いてあるくのであった。
赤城下あかぎしたいたのは、よる八刻やつごろであった。
――どうしてまだかえってないのか?
と、北条家ほうじょうけではあんじていたところなので、権之助ごんのすけはすぐおくとおされ、書面しょめん沢庵たくあんで、即座そくざふうられた。