403・宮本武蔵「二天の巻」「栄達の門(5)(6)」


朗読「403二天の巻59.mp3」11 MB、長さ: 約 11分 29秒

やがて、閣老かくろう一名いちめいであろう、赭顔しゃがん白髪しらがるからに凡庸ぼんようでない老武士ろうぶしが、
武蔵むさしどのでわすか。長々ながながたせして、無礼ぶれいおゆるしを」
と、あっさりそれへすわった。ふとあおぐと、川越かわごえ城主じょうしゅである酒井忠勝さかいただかつであった。けれどここでは江戸城えどじょういち吏事りじぎないので、侍者一名じしゃいちめいそばにつれただけで、至極格式しごくかくしきとらわれていないふうである。
「おしにって」
と、武蔵むさしが――これは先方せんぽう威儀作いぎつくろうといなとにかかわらず――長者ちょうじゃたいするいんぎんなれいって、ひたと、平伏ひれふしながら、
作州牢人さくしゅうろうにん新免氏しんめんしぞく宮本無二斎みやもとむにさいがせがれ武蔵むさしもうしまするもの将軍家御内意しょうぐんけごないいおもむきに、御城門先ごじょうもんさきまでまかりでましてござります」
忠勝ただかつは、えたふたえあごを、ちいさく何度なんどうなずかせて、
大儀たいぎ大儀たいぎでおざった」
と、けた。
そしてややいいしぶった面持おももちに、どくそうなちながら、
ときに――かねて沢庵和尚たくあんおしょう安房あわ殿どのなどから、御推挙ごすいきょあった其許そこもと仕官しかん……。昨夜さくやいたって、いかなる御都合変ごつごうかわりにや、にわかにお見合みあわせというお沙汰さたじゃ。――われらにもちとしかねるので、御事情ごじじょうのほど、また御再考ごさいこうもあらばと――じついまいままで、御前みまえにおいて再評議さいひょうぎもあったのじゃ。しかし折角せっかくのことではあったが、このたびは、やはり御縁ごえんのないこととなりおわった」
といって、忠勝ただかつなぐさめることばもないように――また、
毀誉褒貶きよほうへん――浮世うきよのありふれごと前途ぜんとのおにさえられなよ。人事じんじすべて、眼前がんぜんただけでは、なに幸不幸こうふこうとももうされぬで」
――武蔵むさしは、平伏へいふくのまま、
「……はっ」
と、なおひれしていた。
忠勝ただかつ言葉ことばは、むしろみみあたたかきこえた。同時どうじむねそこから、わきずる感激かんげきをひたした。
反省はんせいはあっても、かれとて人間にんげんである。もし無事ぶじ任命にんめいがあったら、このまま幕府ばくふ一吏事いちりじとなって、かえって大禄たいろく栄衣えいいが、けん道業どうごうを、若木わかぎらしてしまうかもしれない。
「お沙汰さたおもむき相分あいわかりました。ありがたくぞんじまする」
自然しぜんそういったのである。不面目ふめんぼくなどという毛頭もうとうなかった。皮肉ひにくもない。かれとしては、将軍以上しょうぐんいじょうのものから、一師範役以上いちしはんやくいじょうのもっとおおきなにんを――そのときかみのことばをもって、むねさずけられていた。
神妙しんみょうな――と忠勝ただかつはそのていをながめって、
余事よじであるが、けば、其許そこもとには武辺ぶへんあわぬ風雅ふうがのたしなみもあるそうな。なんぞ、将軍家しょうぐんけへおにかけたいとおもう。……俗人ぞくじんどもの中傷ちゅうしょう陰口かげぐちには、こたえるようもないが、かかるおり毀誉褒貶きよほうへんえて、たしなむ芸術げいじゅつに、おのれの心操しんそう無言むごんのこしておくことは、すこしもしつかえなかろうし、高士こうしこたえとわしはおもうが」
「…………」
武蔵むさしが、かれのことばをこころいているうちに、忠勝ただかつは、
後刻ごこくまでに」
と、せきった。
忠勝ただかつ言葉ことばのうちには、毀誉褒貶きよほうへんとか、俗人ぞくじんたちの中傷ちゅうしょうとか陰口かげぐちとかいうことが、幾度いくどか、意味いみありげに繰返くりかえされていた。――それにこたえるようはないが、潔白けっぱく武士ぶし心操しんそうしめしておけ! あんにそういったように武蔵むさしにはかれた。
「そうだ、自分じぶん面目めんぼくは、どろそうと、自分じぶん推挙すいきょたまわったひとたちの面目めんぼくをけがしては……」
武蔵むさしは、広間ひろま一隅いちぐうにある純白じゅんぱく六曲ろっきょく屏風びょうぶをとめた。やがてこの伝奏屋敷てんそうやしきたまりの小侍こざむらいび、酒井さかいどののおおせにまかせて一筆余技いっぴつよぎをのこしてまいりたいゆえ、もっともすみと、ふるしゅと、少量しょうりょうあお顔料えのぐとをおげねがいたいといった。

どものころだれでもく。くのは、うたをうたうもおなじだ。それが大人おとなになるときまってみなけなくなる。生半可なまはんか智恵ちえさまたげるからである。
武蔵むさしも、幼少ようしょうときは、よくいた。環境かんきょうさみしかったかれは、とくきだった。
だがそのも、十三じゅうさんから二十歳はたちぎまでのあいだは、ほとんどわすれていた。――そのあと諸国しょこく修行中しゅぎょうちゅうおおくは宿泊しゅくはくする寺院じいんで、とき貴顕きけん邸宅ていたくで――しばしば、とこじく壁画へきがせっする機会きかいおおくなり、かないまでも、また、興味きょうみつようになった。
いつだったか。
本阿弥ほんあみ光悦こうえついえ梁楷りょうかい栗鼠りす落栗おちぐり――その粗朴そぼくなうちに王者おうじゃ気品きひんと、すみふかさを、いつまでもわすれなかったりしたこともある。
多分たぶん、あのころからであったろう。かれがふたたびをひらきしたのは。
北宋ほくそう南宋なんそう稀品きひん。また、東山ひがしやま殿どのあたりからの名匠めいしょう邦画ほうが。それから現代画げんだいがとしておこなわれている山楽さんらくだの友松ゆうしょうだの狩野家かのうけ人々ひとびと作品さくひんなど、おりあるごとに、武蔵むさしてきた。
自然しぜん、そのなかかれ不好ぶすきがあった。梁楷りょうかい豪健ごうけん筆触ひっしょくは、けんからても巨人きょじんちからをうけるし、海北かいほう友松ゆうしょう武人ぶじんであるだけに、晩年ばんねん節操せっそうも、そのものもとするにるとおもった。
また、洛外らくがいたき本坊ほんぼうにいるという隠操いんそう雅人がじん松花堂昭乗しょうかどうしょうじょう淡味たんみ即興風そっきょうふうのものにもこころをひかれた。沢庵たくあんともふか友達ともだちであるといて、さらにしたわしいもちをそのっていた。――けれど自分じぶんあゆまんとするみちとは――すえひとつきところうまでも、とおいべつなひとのようながするのでもあった。
で、ときには。
ひとにはしめさぬものとして、ひそかに自分じぶんでもいてみたりした。だがかれも、いつのにかやはりけない大人おとなになっていた。はたらいて、しょうはたらかないのだ。うまこうとばかりして、しん流露りゅうろというものがあらわせない。
いやになって、もうした。――だがまたふと、なにかに感興かんきょうをよびおこされて、人知ひとしれずいてみる。
梁楷りょうかいし、友松ゆうしょうならい、ときには松花堂しょうかどうふうをまねたりして――。しかし、彫刻ちょうこく三人さんにんにもしめしたが、はまだかつて、ひとせたためしはない。
「……よし!」
それをいまかれは、いてしまった。しかも六曲半双ろっきょくはんそうへ、一気いっきに。
試合しあいあと――ほっといきづくようにむねをあげて、しずかに、筆洗ひっせんふでさきしずめると、きあげたわがいっもせず、伝奏屋敷てんそうやしきひかえの広間ひろまから、さっさと退出たいしゅつしてしまった。
「――もん
武蔵むさしは、そこの豪壮ごうそうもんまたいで、ふとかえった。
はいるが栄達えいたつもんか。
るが栄光えいこうもんかと。

ひとはなく、まだれている屏風びょうぶのみがのこされてあった。
いちめんに武蔵野之図むさしののずいてあった。おおきな旭日あさひだけを、わが丹心たんしん誇示こじするように、それだけにしゅってあって、あと墨一色すみいっしょくあきだった。
酒井忠勝さかいただかつは、そのまえすわったまま、黙然もくねんうでんでいることしばし、
「ああ、とらいっした」
と、ひとうめいた。