400・宮本武蔵「二天の巻」「逃げ水の記(8)(9)」


朗読「400二天の巻56.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 40秒

はち

「――ア。先生せんせい
伊織いおり馬上ばじょうひと足元あしもとまで、のめるようにまろんでき、そしてもう一度いちど
先生せんせいっ。せん……先生せんせい
へ、しがみつきながらさけんだのであった。――だがふと、ゆめではないかとうたがうようなをして、武蔵むさしかお見上みあげ――また、うまのわきにじょうをついてっている夢想権之助むそうごんのすけ姿すがたまわした。
「どうした?」
と、馬上ばじょうからおろしていう武蔵むさしかおは、つきのせいか、いたくやつれてえる。だがそのこえは、かれがこの日頃ひごろこころかわきぬいていたのやさしいこえ間違まちがいなかった。
「――こんなところを、どうしてひとりであるいていたのだい」
それはつぎにいった権之助ごんのすけのことばである。権之助ごんのすけは、すぐ伊織いおりあたまうえて、自分じぶんむねへかかえせた。
もしまえいていなかったら、伊織いおりはここでいたかもれなかったが、かれほおつきにてらてらかわいていた。
先生せんせいのいる秩父ちちぶこうとおもって……」
いいかけてふと、伊織いおりは、武蔵むさしっているこまくら毛並けなみつめ、
「オヤ。このうまは……おいらのってうまだ」
権之助ごんのすけは、わらって、
「おまえのか」
「ああ」
だれのからぬが、入間川いるまがわちかくに、うろついていたので、おからだのつかれている武蔵様むさしさまへ、てんあたえと、ひろっておすすめもうしたのだ」
「アア、かみさまが、先生せんせいむかえに、わざとそっちへがしたんだね」
「だが、おまえのうまというのもおかしいではないか。このくらは、千石以上せんごくいじょうさむらいのものだが」
北条様ほうじょうさまうまやうまだもの」
武蔵むさしりて、
伊織いおり、ではそちは今日きょうまで、安房あわどののおやしきにお世話せわになっていたのか」
「はい。沢庵たくあんさまにれられて――沢庵たくあんさまがいろといったんです」
草庵そうあんはどうなっている」
むらひとたちがすっかりなおしてくれました」
「では、これからもどっても、雨露あめつゆだけはしのげるな」
「……先生せんせい
「うむ。なんじゃな」
せた……どうしてそんなにせたんですか」
牢舎ろうやなかで、坐禅ざぜんをしていたからの」
「その牢舎ろうやを、どうしてたんですか」
あとで、権之助ごんのすけから、ゆるゆるくがよい。ひとくちにいえば、てん御加護ごかごがあったか、にわかにきのう無罪むざいをいいわたされて、秩父ちちぶ獄舎ごくやからはなされたのじゃ」
権之助ごんのすけが、すぐいいした。
伊織いおり、もう心配しんぱいすな。きのう川越かわごえ酒井家さかいけから、急使きゅうして、ひらあやまりにあやまり、むじつのおうたがいがれたわけだ」
「じゃあきっと、沢庵たくあんさまが、将軍様しょうぐんさまたのんだのかもれないよ。沢庵たくあんさまはおしろがったきり、まだ北条様ほうじょうさまのおやしきへかえらないから」
伊織いおりにわかにお喋舌しゃべりになった。
それから、城太郎じょうたろう出会であったことや、その城太郎じょうたろうが、じつおや薦僧こもそうちてったことや、また、北条家ほうじょうけ玄関げんかんさきへ、度々たびたびすぎばばがおとずれて、あくならべたことなどを――あるあるはなしつづけていたが、そのおばばでおもしたらしく、
「あ。それからね、先生せんせい、まだたいへんなことがあるよ」
と、懐中ふところさぐって、佐々木小次郎ささきこじろう手紙てがみした。

きゅう

「なに、小次郎こじろうからの書状しょじょう? ……」
あだものとはいえ、えたるものはなつかしい。まして、たがいに砥石といしとなってみがっているあだである。
武蔵むさしはむしろ、心待こころまちしていた消息しょうそくでもにしたように、
「どこでったか」
と、その宛名書あてながきながら伊織いおりたずねた。
野火止のびどめ宿しゅくで」
と、伊織いおりこたえ、
「――あの、こわいおばばも、一緒いっしょにいましたよ」
「おばばとは、本位田ほんいでんのあのとしよりか」
豊前ぶぜんくんだって」
「ほ……?」
細川家ほそかわけのおさむらいたちと一緒いっしょでね……くわしいことはそのなかいてあるでしょう。――先生せんせいも、油断ゆだんしちゃだめですよ。しっかりしてください」
武蔵むさし書面しょめん懐中ふところ仕舞しまう。そして伊織いおりだまってうなずいてやる。だが、伊織いおりはそれにやすんぜず、
小次郎こじろうってひとも、つよいんでしょ。先生せんせいなにうらみをうけているの? ……」
と、それからそれへとわずがたりに、きょうの始末しまつを、喋舌しゃべりつづけた。
やがて何十日なんじゅうにちぶりで、草庵そうあんにたどりいた。早速さっそくしいのが、食物しょくもつ。――けていたが、権之助ごんのすけたきぎみずをあつめるあいだに、伊織いおりは、むら百姓家ひゃくしょうやはしってゆく。
ができる。かこむ。
あかあかとえるいちをかこんで、ひさしぶりにたがいの無事ぶじ見合みあたのしさは、波瀾はらんまれてみなければめない人生じんせい悦楽えつらくだった。
「あら?」
伊織いおりは、袖口そでぐちにかくれているうでだの、襟元えりもとなどに、まだ傷口きずぐちれているあざいくつもあるのをつけて、
先生せんせい、どうしたんです。身体からだじゅうに……そんなに」
傷々いたいたしげに、まゆをしかめて、武蔵むさしはだおくのぞこうとすると、
なんでもない」
武蔵むさしは、はなしらして、
うまにも、なにかやったか」
「ええ、飼糧かいばをやりました」
「あのこまを、明日あした北条ほうじょうどののおやしきへ、かえしてなければいけないぞ」
「はい。けたら、ってまいります」

伊織いおり寝坊ねぼうしなかった。赤城下あかぎしたやしきで、新蔵しんぞう心配しんぱいしているにちがいないと、あくあさは、さききて戸外おもてへとびした。
そして、朝飯前あさめしまえ一鞭ひとむちと――こまにまたがるなりすと、ちょうど武蔵野むさしの真東まひがしから、のっとおおきな日輪にちりんくさうみはなれかけていた。
「ああ!」
伊織いおりは、こまめて、おどろきのをすえていたが、きゅうこまかえして、草庵そうあんそとから、
先生せんせい先生せんせいはやきてごらんなさい。いつかみたいな――秩父ちちぶみねからおがんだときみたいな――それはそれはおおきなおさまが、きょうは、くさなかから、地面じめんころがってるようにのぼっていますよ。権之助ごんのすけさんも、きておがんだがいいよ」
「おう」
と、武蔵むさしがどこかでいう。武蔵むさしはもうきて、小鳥ことりこえなかをあるいていた。ってます、と元気げんきよくけてゆく馬蹄ひづめおとに、武蔵むさしもりからて、まばゆいくさうみ見送みおくっていると、伊織いおりかげは、一羽いちわからすが、太陽たいよう火焔かえんっただなかってくように、またたくに、ちいさくなり、くろてんになり、やがてえきってけてしまった。