396・宮本武蔵「二天の巻」「花ちり・花開く(5)逃げ水の記(1)」


朗読「396二天の巻52.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 25秒

はらそと往来おうらいに、ぼつぼつひとまって、とおくからながめていた。
「なんでしょう」
「お処刑しおきさ」
「ア。百叩ひゃくたたきですか」
いたいだろうな」
いたいでしょうね」
「まだひゃくには、半分はんぶんもあるよ」
勘定かんじょうしていたんですか」
「……ア。もう悲鳴ひめいげなくなってしまった」
ぼうをかかえて、刑吏けいりがやってた。そのぼうくさたたいて、
っちゃいかんっ」
往来おうらいものは、あるした。振顧ふりかえってみると、百叩ひゃくたたきもおわったらしく、なぐやく小者こものは、のようになった割竹わりたけほうりだして、ひじあせをこすっていた。
「ご苦労くろうでござった」

御大儀ごたいぎで」
沢庵たくあんと、おもなる役人やくにんとは、まさしく礼儀れいぎわしって、わかれた。
役人小者やくにんこものたちは、どやどやと奉行所ぶぎょうしょ門内もんないにはいり、沢庵たくあんはなおしばらく、男女ふたり俯伏うつぶしているむしろのそばにたたずんでいたが、黙然もくねんと――なにもいわずに、はらをよぎって、彼方かなたってしまった。
「…………」
「…………」
時雨雲しぐれぐもから、うすいくさにこぼれた。
ひとると、うずらがまたく。
「…………」
「…………」
朱実あけみも、又八道心またはちどうしんも、いつまでもじっとうごかなかった。けれどまったく気絶きぜつしてしまったわけではない。からだじゅうはみたいにいたんでいるし、また、天地てんちはずかしくてかおがらないのであった。
「……オ。みずが」
朱実あけみさきつぶやいた。
自分じぶんたちのむしろまえに、ちいさい手桶ておけ竹柄杓たけびしゃくえてある。この手桶ておけは、むちちすえる奉行所ぶぎょうしょにも、ひときくなさけはあるのだぞというように、無言むごんすがたってそこにあった。
がぶっ……
かぶりつくように朱実あけみさきにそれをのんだ。又八またはちへすすめたのはそのあとからであった。
「……みませんか」
又八道心またはちどうしんは、やっとばした。ごくごくとみずのどとおってゆく――。役人やくにんもいない、沢庵たくあんもいない、かれはまだわれにかえりきらない面持おももちだった。
又八またはちさん……おまえぼうさんになったのかえ」
「……いいのかしら?」
なにが」
「お処刑しおきはこれでいいんだろうか。わたしたちはまだられていない」
くびなんかられてたまるものかね。床几しょうぎけたお役人やくにんが、ふたりへわたしたじゃないか」
なんといって?」
江戸表えどおもてから追放ついほうもうしつけると。冥途あのよ追放ついほうでなくってよかったね」
「あっ。……じゃあ生命いのちは」
頓狂とんきょうこえした。よほどうれしかったにちがいない。又八道心またはちどうしんってあるした。朱実あけみのほうをもしなかった。
朱実あけみは、かみへやって、みだきあげていた。えりなおし、おびをしめなおした。そうしているあいだに、又八道心またはちどうしん姿すがたはもうくさ彼方かなたちいさくなっていた。
「……意気地いくじなし」
彼女かのじょくちげてつぶやいた。割竹わりたけいたみがうずくたびに、彼女かのじょはよけいなかつよくなろうとした。そのそこには、数奇すうき運命うんめいにねじけて性格せいかくが、ようやくとして、妖冶ようやはなをもちかけていた。

みず

いち

もうこの屋敷やしきあずけられてから数日すうじつ
伊織いおりは、悪戯いたずらきた。
沢庵たくあんさんはどうしたのだろ?」
そうたずねるかれのことばのうらには、沢庵たくあんかえりよりは、武蔵むさしあんじるうれいがこもっていた。
北条新蔵ほうじょうしんぞうは、その気持きもちを、いじらしくおもって、
父上ちちうえもまだお退城さがりにならぬから、ずっと、御城内ごじょうないにおとまりとみえる。――そのうちにおかえりはきまっておるから、また、うまやうまとでもあそんでいるがよい」
「じゃあ、あのうまりてもいい?」
「いいとも」
伊織いおりは、うまやんでった。かれは、うまえらんでっぱりす。きのうも、おとといも、そのうまにはっていたが、新蔵しんぞうにはだまってってったのである。――けれど今日きょうゆるされたので大威張おおいばりであった。
うままたがると、伊織いおり疾風はやてみたいに裏門うらもんからした。きのうもおとといも、かれさきはきまっていた。
屋敷町やしきまち――畑道はたけみち――おか――もりや、晩秋ばんしゅう風物ふうぶつるまにこまのうしろになってく。――そしてやがて、ぎんいろにひか武蔵野むさしのすすきうみまえひろがってくる。
伊織いおりこまてて、
「あのやま彼方むこうに――」
と、のすがたをおもう。
秩父ちちぶ連峰れんぽうが、てによこたわっていた。牢舎ろうやなかとらわれているおもうと、伊織いおりほおれてくる。
なみだほおを、かぜつめたくでる。あきけたことは、あたりの草陰くさかげ烏瓜からすうりだの草紅葉くさもみじをみてもれる――。やがて、やま彼方むこうは、しもにもなろうに――とかんがえられたりする。
「そうだ! ってよう」
伊織いおりは、おもうとすぐ、うまのしりへむちくわえた。
こまは、尾花おばななみんで、またたくまに半里はんみちけた。
「いや、てよ。ひょっとしたら草庵そうあんにおかえりになってるかもしれないぞ」
そのかぎって、なんとなくそんながしたのである。伊織いおりは、草庵そうあんってみた。屋根やねかべも、こわれたところはみななおっていた。けれどなかひとはなかった。
「おいらの先生せんせいらないかあっ……」
刈入かりいれをしている人影ひとかげへどなってみた。附近ふきん百姓ひゃくしょうたちはみなかれのすがたをると、かなしげにくびった。
うまなら一日いちにちけるだろう」
どうしてもかれは、秩父ちちぶまでの遠乗とおのりを決心けっしんしなければならなかった。きさえすれば、武蔵むさしえるとおもい、一途いちずにまた、ばした。
いつぞや城太郎じょうたろういつめられておぼえのある野火止のびどめ立場たてばまでた。ところが部落ぶらく入口いりぐちには、乗馬のりうま荷駄にだや、長持ながもち駕籠かごでいっぱいだった。みちふさいで五十名ごじゅうめいさむらいが、昼食ちゅうしょくをしている様子ようすなのである。
「ア。とおれないや」
往来止おうらいどめではないが、とおるにはくらからりて、こまかなければならないのである。伊織いおりは、面倒めんどうおもってみちかえした。みち不便ふべんはない武蔵野むさしのはらであるし――
すると、めしべかけていた仲間ちゅうげんどもが、かれこまいかけてて、
「オイ、どん栗坊主ぐりぼうずて」
と、んだ。
さん四名よんめいつづいてってるのであった。伊織いおりは、こまくびをめぐらして、
「なんだと?」
と、おこってみせた。
小粒こつぶであるが、っているこまくらも、堂々どうどうたるものだった。