394・宮本武蔵「二天の巻」「花ちり・花開く(1)(2)」


朗読「394二天の巻50.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 03秒

はなちり・花開はなひら

いち

閣老部屋かくろうべやはひとつの密室みっしつでもある。ここの政議せいぎれないために、幾側いくかわにもへだてのえんめぐっている。
先頃さきごろから、沢庵たくあん北条ほうじょう安房守あわのかみとは、度々たびたび、そのせきくわわって、終日ひねもす何事なにごとらしていることがおおかった。秀忠ひでただ裁可さいかるために一同いちどう秀忠ひでただまえたり、また、おくとそこのあいだを、状筥じょうばこかよかずしきりであった。
木曾きそからの使者ししゃがもどりました」
と、そのおもてから閣老部屋かくろうべや報告ほうこくがはいった。
閣老かくろうたちは、
かにこう」
と、ちかねていたぶりでその使者ししゃを、べつな部屋へやとおした。
使者ししゃ信州しんしゅう松本藩まつもとはん家来けらいなのである。数日前すうじつまえ閣老部屋かくろうべやから早打はやうちって、木曾奈良井きそならい宿じゅく百草問屋もぐさどんや大蔵だいぞうというものを召捕めしとれというめいんでいた。――で、すぐまわしてみたところ、奈良井ならい大蔵一家だいぞういっかは、とうに宿場しゅくば老舗しにせをたたんで、上方かみがたほう引移ひきうつり、そのさきものがない。
家宅捜索かたくそうさくをした結果けっか町家ちょうかにあるまじき武器弾薬ぶきだんやくや、大坂方おおさかがたととりわした書状しょじょうなどの始末しまつのこったもの多少たしょうあったので、それはあとから証拠品しょうこひんとして小荷駄こにだみ、やがて御城中ごじょうちゅうもたらすことになっているが、りあえずみぎのおらせまでを早馬はやうまをもっておこたえにまいりました――というのであった。
おそかったか」
閣老かくろうたちは、舌打したうちした。った大網おおあみ雑魚ざこもかからなかったときかんじとひとつである。
つぎ
これは閣老かくろうなか酒井侯さかいこうへ、酒井家さかいけしんが、川越かわごえからての報告ほうこくである。
「おいいつけにりまして、即日宮本武蔵そくじつみやもとむさしなる牢人ろうにんは、秩父ちちぶ牢舎ろうしゃよりはなちました。おりから、むかえにえた夢想むそう権之助ごんのすけなるものに、ねんごろに、誤解ごかいよしもうして、引渡ひきわたしましてござります」
このことはすぐ、酒井忠勝さかいただかつから、沢庵たくあんみみつたえられた。
沢庵たくあんは、
御念入ごねんいりに」
と、かろくしゃした。
自分じぶん領地内りょうちないのまちがいごとなので、忠勝ただかつはかえって、
武蔵むさしとやらにも、しゅうおもわぬように」
と、かえした。
沢庵たくあんむねってたことは、こうして江戸城えどじょう逗留とうりゅうなかに、ひとひとかたがついてった。手近てぢかな、芝口しばぐち質屋しちや――大蔵だいぞうんでいた奈良井屋ならいやあとにはもちろん町奉行まちぶぎょうがすぐって、家財秘密書類かざいひみつしょるいなどのこらず没収ぼっしゅうし、なにらずに留守居るすいをしていた朱実あけみ奉行所ぶぎょうしょいま保護ほごされている。
一夜いちや沢庵たくあんは、秀忠ひでただしつちかづいて、秀忠ひでただに、
「こうなりました」
と、一切いっさい始末しまつげた。
そして、
天下てんかにはまだ無数むすう奈良井ならい大蔵だいぞうがいることを、ゆめおわすれあってはなりません」
といった。
秀忠ひでただは、うむ、とつよくうなずいた。このひとにはものがわかるとおもうので沢庵たくあんはなお言葉ことばをついで、
「その無数むすうのものを、いちいちとらえて詮議立せんぎだていたしていたら、詮議せんぎれて、大御所おおごしょ跡目あとめをうけて二代将軍にだいしょうぐんたるの御事業ごじぎょうついになすいとまもございませぬぞ」
秀忠ひでただは、そう小心しょうしんではない。沢庵たくあん一言ひとこと百言ひゃくげんみくだいて、自己じこ反省はんせいとしているので、
手軽てがるに、処置しょちしておけ。このたびは、御坊ごぼう進言しんげんること、御坊ごぼう処置しょちにまかすであろう」
と、いった。

沢庵たくあんは、それについて、したしくれいむねべた。
そのあとで、
野僧やそうも、おもわず月余げつよを、御府内ごふない逗留とうりゅういたしましたが、ちかいうちにしゃくめぐらし、大和やまと柳生やぎゅうって、石舟斎せきしゅうさいどのを病床びょうしょうまい、泉南せんなんから大徳寺だいとくじへもどるつもりにござります」
と、あわせて、わかれのことばも、いっておいた。
秀忠ひでただは、ふと、石舟斎せきしゅうさいいて、おもんだらしく、
柳生やぎゅうじいは、その、どんな容態ようだいかの」
と、たずねた。
「このたびは、但馬たじまどのも、おわかれぞと、覚悟かくごのていにうかがいました」
「では、むずかしいのか」
秀忠ひでただは、おさなころ相国寺しょうこくじ陣中じんちゅうで、ちち家康いえやすのそばにすわって謁見えっけんした、石舟斎せきしゅうさい宗厳むねよしのすがたと、自分じぶん幼時ようじとを、おもかべていた。
つぎに」
と、その沈黙ちんもくうちから、沢庵たくあんがもう一言ひとこといった。
「かねて閣老衆かくろうしゅうにもはかり、おゆるしもているにござりますが、安房あわどのからも野僧やそうからも、御推挙申ごすいきょもうげておきました宮本武蔵みやもとむさし御師範ごしはんへお取立とりたてのこともしておねがもうしておきまする」
「うむ。そのこともきおいてある。かねて、細川家ほそかわけでも嘱目しょくもくいたしていた人物じんぶつとやら、柳生やぎゅう小野おのもあるが、もう一家いっけぐらいは取立とりたておいてもよかろう」
これでなにもかも、沢庵たくあん用事ようじがすんだ心地ここちだった。もなくかれ秀忠ひでただまえ退がった。秀忠ひでただからは、いろいろな心入こころいれの賜物たまものがあった。しかし沢庵たくあんは、その全部ぜんぶ城下じょうか禅寺ぜんでら寄託きたくして、いつものいちじょういちりゅうのすがたでかえった。
けれど、それでもとかく、ひとくちはさがないものであった。沢庵たくあん政治せいじくちばしれるから、あれは野心やしんいだいているとか、あるいは、徳川家とくがわけ籠絡ろうらくされて、大坂方おおさかがた情報じょうほう時折ときおりもたら黒衣こくい隠密おんみつであるとか、いろいろな沙汰さたかげではあった。けれど沢庵自身たくあんじしんには、つちはたらいている庶民しょみん幸不幸こうふこうはいつもこころにあったが、一江戸城いちえどじょう一大坂城いちおおさかじょう盛衰せいすいなどは、眼前がんぜんはなが、ひらいたりったりするほどにしか、かんじられていないのである。
ところで、将軍家しょうぐんけにまた当分とうぶん別辞べつじべ、江戸城えどじょうからまえに、沢庵たくあんは、ひとりのおとこを、弟子でしとしてれてた。
かれは、秀忠ひでただからまかせられた権限けんげんで、退出たいしゅつする間際まぎわあしを、工事場こうじば職方目付しょくかためつけ小屋こやけたのであった。そして、そこの裏手うらて小屋こやけさせた。
やみなかに、きれいにあたままるめたわかぼうさんが、ぽつねんと俯向うつむいてすわっていた。その法衣ころもはこのあいだ沢庵たくあんがここをおとずれた翌日よくじつひとたしてあたえたものである。
「……あ」
わか今道心いまどうしんは、戸口とぐちひかりられると、まぶしげにかおをあげた。それは、本位田ほんいでん又八またはちなのである。
「おいで」
沢庵たくあんは、そとから手招てまねきした。
「…………」
今道心いまどうしんは、がったが、あしくさりかけてしまったようによろめいた。
沢庵たくあんは、そのを、いてやった。
「…………」
いよいよ刑罰けいばつしょされるた――と又八またはち観念かんねんしきったをふさいでいた。あしふしはがくがくふるえた。断刀だんとうむしろのさきにちらついていた。げたあおほおに、ほろほろとなみだがながれた。
あるけるか」
「…………」
なにかいったつもりだが、こえなかった。沢庵たくあんささえられているうでうえで、又八またはちちからなくうなずいたのみであった。