393・宮本武蔵「二天の巻」「夢土(6)(7)」


朗読「393二天の巻49.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 37秒

ろく

かれ脱出ぬけだして小屋こや沢庵たくあんっていた。又八またはちみみたぶをちながら、沢庵たくあん小者こものたちのているところのぞき、
きんか。だれきんか」
と、をたたいた。
小屋こや仲間ちゅうげんしてて、不審いぶかしげに沢庵たくあんのすがたをていたが、いつも秀忠将軍ひでただしょうぐんそばについて、将軍家しょうぐんけとも閣老かくろうとも、臆面おくめんなくことばをわしているぼうさんかと、やがてちたかおつきで、
「へい、なにか」
なにかじゃないよ」
「へ……?」
味噌小屋みそごや漬物小屋つけものごやかしらないが、そこをおけ」
「その小屋こやにはいま御不審ごふしん井戸掘いどほりを押込おしこめてございますが、なんぞおしになるものでも」
ぼけていてはいけない。そのにんは、まどやぶって脱出だっしゅつしているではないか。わしがつかまえててあげたのだ。虫籠むしかごへきりぎりすをれるようなわけにはまいらぬから、をおけというのだよ」
「あ。そいつが」
小屋こや仲間ちゅうげんおどろいて、とまばん職方目付しょくかためつけおこしにった。
目付めつけさむらいはあわててて、怠慢たいまんのかどをあやまりぬいた。閣老かくろうなどのおみみはいらぬようにと、それも、沢庵たくあん繰返くりかえしてたのむのだった。
沢庵たくあんはただうなずいてみせ、けられた小屋こやなか又八またはちきとばした。そして自分じぶんともにはいり、なかからめてしまったので、目付めつけ小屋仲間こやちゅうげんも、
(どうしたものか?)
かおあわせ、りも出来できず、そとたたずんでいた。
すると沢庵たくあんがまた、あいだからかおだけして、
「おぬしらのつかう剃刀かみそりがあるじゃろう。すまんがよくいで、剃刀かみそりいっちょう、ここへしておくれんか」
と、いう。
なににするのかとうたがったが、このぼうさんにそんなことをたずねていいものかわるいものかの判断はんだんもつきかねるのである。ともあれ剃刀かみそりいでってわたすと、
「よしよし」
と、それを受取うけとって、沢庵たくあんなかから、もう用事ようじはないからやすめという。めいじるような言葉ことばであるから、それにそむいてはよくあるまいと、目付めつけ小屋こや仲間ちゅうげんも、めいめいの寝小屋ねごや退がった。
なかくらい。
だが、やぶれたまどから星明ほしあかりはかすかにす。沢庵たくあんは、まきたばこしをおろし、又八またはちむしろのうえにくびれている。いつまでも無言むごんであった。剃刀かみそりは、沢庵たくあんにあるのか、そこらのうえいてあるのか、になりながらも、又八またはちにはあたらない。
又八またはち
「…………」
えんじゅしたったらなにたか?」
「…………」
「わしならしてみせるところじゃがのう。だが鉄砲てっぽうではないぞ。からをだ。くうなる夢土むどからなか実相じっそうをだ」
「……はい」
「はい、というたところで、おぬしにはその実相じっそうなにわかっておるまいが。――まだゆめごこちにちがいない。どうせおぬしは嬰児あかごのようなおひとよし。んでふくめるようにおしえてやるほかはあるまいなあ。……これ、おぬしは今年ことし幾歳いくつになる」
二十八にじゅうはちになりました」
武蔵むさし同年どうねんじゃなあ」
そういわれると又八またはちは、両手りょうてかおにやって、しゅくしゅくとした。

なな

きたいだけかしておけといわぬばかりに、沢庵たくあんだまってしまった。そして又八またはち嗚咽おえつがようやくしずまるとまたくちひらいた。
おそろしいとはおもわぬか。えんじゅはおろかもの墓標ぼひょうになるところじゃった。おぬしは自分じぶん自分じぶん墓穴はかあなっていた。もうくびまでんでいたのだぞよ」
「――たっ、たすけてください。沢庵たくあんさまっ」
又八またはちは、いきなり沢庵たくあんすねに、しがみついてさけんだ。
が……やっとめました。わたしは、奈良井ならい大蔵だいぞうだまされたんです」
「いや、まだほんとに、がさめてはおるまい。奈良井ならい大蔵だいぞうは、おぬしをだましたわけではない。慾張よくばりで、おひとよしで、ちいさくて、そのくせなみものではできぬ大胆だいたんなこともしかねない、天下一てんかいちおろものつけたので、上手じょうずにそれを使つかおうとしたのだ」
「わ、わかりました。自分じぶん馬鹿ばかが」
「いったいおぬしは、あの奈良井ならい大蔵だいぞうを、何者なにものおもうてたのまれたか」
わかりません。それはいまになっても、わからないなぞです」
「あれもせきはら敗北者はいぼくしゃ一人ひとり石田いしだ治部じぶとは刎頸ふんけいともだった大谷おおたに刑部ぎょうぶ家中かちゅうで、溝口信濃みぞぐちしなのという人間にんげんじゃ」
「げっ、では、おたずもの残党ざんとうでしたか」
「さもなくて、秀忠将軍ひでただしょうぐん御寿命ごじゅみょううかがうわけはあるまいが。いまさら、おどろくおぬしの頭脳あたまがわしにはわからんのう」
「いえ、わたしにいったのは、ただ徳川家とくがわけうらみがある。徳川家とくがわけになるより、豊臣とよとみになったほうが、万民ばんみんのためになる。だから自分じぶんうらみばかりでなく、世上せじょうのためだというようなはなしで……」
「そういうおり、なぜおぬしは、その人間にんげんそこそこまで、じっとかんがえてみないのか。ばくいて、ばくとのみこんでしまう。そして自分じぶん墓穴はかあなでも勇気ゆうきをふるいす。こわいのう。おぬしの勇気ゆうきは」
「ああ、どうしよう」
「どうしようとは」
沢庵たくあんさま」
はなせ。――いくらわしにしがみついてももうにあわぬ」
「で、でも、まだ将軍様しょうぐんさまへ、鉄砲てっぽうけたわけではありませんからどうか、たすけてください。うまかわって、きっと、きっと……」
「いいや、鉄砲てっぽうけにもの途中とちゅう故障こしょうおこったため、わなかったというまでのことだ。大蔵だいぞうにまるめられ、彼奴きゃつおそろしいさくをうけて、あの城太郎じょうたろうが、秩父ちちぶから無事ぶじ江戸えどへもどっていたら、そののうちにもえんじゅしたに、鉄砲てっぽうまれてあったかもれぬのだ」
「え? 城太郎じょうたろうというのは。……もしや」
「いいや、そんなことは、どうでもよい。ともあれおぬしがいだいた大逆たいぎゃく罪科とがは、ほう勿論もちろん神仏しんぶつもゆるしたまわぬところだ。たすかろうなどとはかんがえるなよ」
「では、では、どうしても」
「あたりまえだ」
「お慈悲じひですッ」
しがみついてえる又八またはちを、沢庵たくあんがりざま蹴放けはなして、
「ばかっ」
小屋こや屋根やねぶような大喝だいかついてめつけた。
すがれないほとけ慚愧ざんきしてもすくいのしてくれないこわほとけ
うらめしげに又八またはちはそのていたが、がくと、観念かんねんこうべれて、さらにさめざめとおそれていた。
沢庵たくあんは、まきのうえの剃刀かみそりって、そのあたまへそっとれた。
又八またはち……。どうせぬなら、容相かたちだけでも、釈尊しゃくそん御弟子みでしになってけ。せめてものよしみ、引導いんどうだけはさずけてしんぜる。をふさいで、しずかにひざをくむがよい。しょうも、そのまぶた一皮ひとかわ、そうくほどこわいものではないはずじゃ。――善童子ぜんどうじ善童子ぜんどうじなげくまい。によいようにわしがしてやる」