390・宮本武蔵「二天の巻」「柘榴の傷み(3)夢土(1)」


朗読「390二天の巻46.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 56秒

さん

新蔵しんぞうしんじている。武蔵むさしをである。ちち沢庵たくあん将軍しょうぐん師範しはん推薦すいせんしたことも、もちろんいいことをなされたとよろこんでいる。
で――ばばのいいぐさを、むしをこらえていていても、おのずからかおいろがかわっていたはずであるが、くちつばをこしらえて喋舌しゃべりだすと、おすぎ相手あいてかおいろなどははいらず、
「じゃにって、安房あわどのに、おいさめしてお沙汰止さたやみをはかるのは、天下てんかためだとおもいまする。そなたさまもの、くれぐれ武蔵むさしうまくちにはのせられぬがようござるぞよ」
と、なお饒舌じょうぜつのとめどがない。
新蔵しんぞうは、もういているのが、不快ふかいになって、うるさいっ、と大喝だいかつしてやろうとおもったが、それではまた、かえってねばすかもれないとおそれて、
「わかった」
と、不快ふかいつばをのみころしていたてた。
はなしおもむき、よくわかった。ちちへもそのよしつたえておくであろう」
「くれぐれもの」
と、ねんして、ばばはようやく目的もくてきたっしたように、藁草履わらぞうりのしりをって、ひたひたともんそときかけた。
すると、どこかで、
「くそばば」
と、いったものがある。
あしめて、
「なんじゃと」
ねめまわして、そこらをさがすと、樹陰こかげえた伊織いおりかおが、ヒーンと、うま真似まねしていてせながら、
「これでもらえ」
と、かたものほうりつけた。
「アいた
ばばは、むねおさえながら、ちたものた。そこらにいくつもちている柘榴ざくろひとつがくだけていた。
「こいつ」
ばばは、べつにひとひろって、をふりげた。伊織いおりは、あくをたたきながらげこんだ。うまやのあるかどまで、ばばはいかけてったが、そこからよこをのぞいたとたんに、今度こんどはやわらかいものかおへいっぱいにつかってつぶれた。
うまふんだった。ばばは、ベッベッとつばをした。かおについているものをゆびおとすと、ぼろぼろとなみだともにながれてた。かかるにあうというのも、たびそらなればこそ、わがのためなればこそ。――そうおもうといのをふるわせて口惜くちおしくおもうのであった。
「…………」
伊織いおりは、とおくにげて、物陰ものかげからかおしていた。悄然しょうぜんとばばがいている姿すがたると、かれきゅうにしょんぼりして、おおきなつみおかしたようにこわくなった。
ばばのまえって、あやまりたくなった。けれど伊織いおりむねには、武蔵むさし悪口あっこうをさんざんいわれたいきどおりがまだそれくらいでえていなかった。けれどやはり老婆としよりいている姿すがたかれかなしかった。伊織いおりは、複雑ふくざつもちにとらわれて、ゆびつめんでいた。
たかがけのうえの部屋へやで、新蔵しんぞうんでいる。伊織いおりすくわれたように、がけづたいにけてった。
「おい、夕方ゆうがたあか富士山ふじさんえるからてみい」
「あ。富士山ふじさん
それでなにもかも伊織いおりわすれてしまった。新蔵しんぞうもまた、わすてたかおしていた。もとよりきょうのことをちちみみつたえようなどとは、いているうちからおもいもしないことではあった。

夢土むど

いち

秀忠将軍ひでただしょうぐんはまだ三十さんじゅうをすこしたばかりであった。ちち大御所おおごしょ一代いちだい覇業はぎょうをまず九分くぶどおりまでは仕上しあげたというすがたでいまいを駿府城すんぷじょうやしなっている。ここまではちちがした、あとはおまえがやるのだと、将軍しょうぐんしょく秀忠ひでただ三十さんじゅうそこそこでちちからまかせられたのである。
ちち業績ぎょうせき一代いちだいつうじての戦争せんそうであった。学問がくもん修養しゅうよう家庭生活かていせいかつ婚姻こんいんも、戦争せんそうなかでなかったことはない。その戦争せんそうはさらに乾坤けんこんいってきつぎ大戦争だいせんそう大坂方おおさかがたとのあいだにはらんではいるが、しかしそれはもうなが戦争せんそう終局的しゅうきょくてきなもので、その一戦いっせんながなが日本にほん春秋時代しゅんじゅうじだいも、ほんとの平和へいわかえるだろうと、一般いっぱん人心じんしんているのである。
応仁おうにん乱以後らんいご長期ちょうき戦乱せんらんつづきである。世人せじん平和へいわ招来しょうらいかわきぬいている。武家ぶけはとにかく庶民百姓しょみんひゃくしょうは、豊臣とよとみでも徳川とくがわでもよい、ほんとの平和へいわ建設けんせつされるものならば、というのがいつわらないおおくの気持きもちであったにちがいない。
家康いえやす秀忠ひでただしょくをゆずるとき
(そちのなすことはなにか)
と、諮問しもんしたそうである。
秀忠ひでただはすぐ、
建設けんせつにあるとおもいます)
と、こたえたので、家康いえやすおおいにやすんじたということが側近そっきんからつたえられていた。
秀忠ひでただ信条しんじょうは、そのままいま江戸えどにあらわれている。大御所おおごしょみとめていることでもあるし、かれ江戸建設えどけんせつおもいきって大規模だいきぼ急速きゅうそくだった。
それにはんして、太閤たいこう遺孤秀頼いこひでよりようする大坂城おおさかじょうでは、戦争せんそう戦争せんそう再軍備さいぐんびにせわしかった。将星しょうせいはみな謀議ぼうぎ黒幕くろまくにひそみ、教書きょうしょ密使みっしから諸州しょしゅうはしり、際限さいげんもなく牢人ろうにん游将ゆうしょうかかれて、硝弾しょうだんやりをみがき、ほりふかめてそなえにおこたりないのであった。
いまにも、また、合戦かっせんが)
と、恟々きょうきょうたるものは、大坂城おおさかじょう中心ちゅうしんとする五畿内ごきない住民じゅうみんつうじての空気くうきであり、また、
(これからは、ほっとできよう)
と、いうのが江戸城えどじょうめぐ一般市民いっぱんしみん心理しんりであった。
必然ひつぜん――
庶民しょみんのながれは続々ぞくぞくと、不安ふあん上方かみがたから建設けんせつ江戸えどうつした。
それはまた一般いっぱんが、豊臣とよとみ中心ちゅうしんすてて、徳川とくがわ治下ちかしたってくるような人気にんきのようにもえた。
事実じじつ乱国らんこくにつかれた庶民しょみんは、豊臣方とよとみがたって、なお戦乱せんらんがつづくよりも、ここで徳川家とくがわけ終局しゅうきょくおさめてくれたほうがよいといのるようにもなっていた。
そういう世相せそうは、関東上方かんとうかみがたのいずれに子孫しそんたくすかといま去就きょしゅうなかばにある各藩かくはん大名だいみょうやその臣下しんかにもうつって、日一日ひいちにちと、江戸城えどじょう中心ちゅうしんとする町割まちわり河川かせん土木どぼく城普請しろぶしんには、あたらしい時代じだいちから味方みかたした。
きょうも秀忠ひでただは、野支度のじたくで、旧城きゅうじょう本丸ほんまるから新城しんじょう工事場こうじばのほうへ吹上ふきあげおかづたいにて、作事場さくじば一巡いちじゅんし、みみむねにひびいて高鳴たかな建設けんせつ騒音そうおんなかときをわすれていた。
侍側じそくには、土井どい本多ほんだ酒井さかいなどの閣臣かくしん近習衆きんじゅうしゅうをはじめ、僧侶そうりょなどの姿すがたえ、秀忠ひでただはやや小高こだかところ床几しょうぎび、そこに一休ひとやすみしていた。
すると大工だいくたちのはたらいていた紅葉山もみじやましたのあたりで、
野郎やろうっ」
野郎やろうっ」
野郎やろうっ、てっ」
と、はや跫音あしおとがみだれた。まわるひとりの井戸掘いどほ人足にんそくって、しち八人はちにん大工だいくたちが、喧騒けんそうなか喧騒けんそうしてけてった。