389・宮本武蔵「二天の巻」「柘榴の傷み(1)(2)」


朗読「389二天の巻45.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 25秒

柘榴ざくろいた

いち

その沢庵たくあん伊織いおりをしりにれていた。赤城坂あかぎざか北条ほうじょう安房守あわのかみもんへはいってく。玄関げんかんわきのかえでがいつぞやとはまごうほど紅葉こうようしている。
「おすか」
小僧こぞううと、
「は。おちを」と、おくけこむ。
たのは子息しそく新蔵しんぞうだった。ちち登城とじょうして不在ふざいですがまずおがりくださいとしょうじるのであった。
御城中ごじょうちゅうとな。ちょうどよい」
沢庵たくあんはそういって、すぐ自分じぶんもこれから御城内ごじょうないまいるが、この伊織いおりを、当分とうぶんここにめておいてくれまいかとたのんだ。
「おやすいこと」
と、新蔵しんぞうはちらとてわらう。伊織いおりとはらないなかでもないからである。――そして御坊ごぼう御登城ごとじょうとあるならば、駕籠かごめいじましょうとをくばる。
たのみたいの」
駕籠かご用意よういのできるあいだ、沢庵たくあん紅葉もみじしたって、こずえあおいでいたが、おもしたように、
「そう、江戸えど奉行職ぶぎょうしょくは、なんといわれたの」
まちのですか」
「されば、町奉行まちぶぎょうという職制しょくせいが、あらたにもうけられておるが」
ほり式部少輔しきぶしょうゆうさまでした」
駕籠かごる。輿こしぬりかごであった。いたずらをするなよと、伊織いおりへいって、沢庵たくあんはそれへをまかせる。ゆらゆらと紅葉もみじかげを、それはのどかに門外もんがいった。
伊織いおりはもうそこにいない。うまやをのぞきんでいる。うまや二棟ふたむねあった。栗毛くりげ白眉はくび月毛つきげ、いいうまがたくさんいてどれもよくえている。伊織いおりは、してはたらかせもしないうまを、どうしてこんなにおおっておくのかと、武士さむらいいえ経済けいざいがふしぎにおもわれた。
「そうだ、いくさとき使つかうんだな」
ようやくひとり解釈かいしゃくして、よくよくうまかおていると、うまかおでも、武家ぶけ飼馬かいうま野放のばなしの野馬のまとはかおちがっていた。
うまちいさいときからのともだちだった。伊織いおりうまきだった。ていてもきないのである。
――すると玄関げんかんほうで、新蔵しんぞうおおきなこえがした。伊織いおりは、自分じぶんしかられたのかとおもってふりかえったが、ると玄関げんかんまえに、今門いまもんからはいってたらしいほそっこい老婆ろうばが、つえをたてて、きかないかおを、じっと、式台しきだいちはだかっている北条新蔵ほうじょうしんぞうっているのだった。
居留守いるすをつかうとは何事なにごとをほざくか。そちのような見知みしらぬいぼれに、ちち居留守いるすをつかうようはない。いないからいないというたのだ」
老婆ろうば態度たいど新蔵しんぞうをむっとさせたらしかった。その語気ごきにまた、老婆ろうばとしがいもないいかりをりたてて、
「おさわったか。安房あわどのをちちといわれたところをれば、おぬしが当家とうけ御子息ごしそくじゃろが、先頃さきごろからこのばばが、いったい何度なんどこのもんをくぐっておるかごぞんじかの。――五度ごど六度ろくどではおざらぬぞよ。そのたびごとに留守るすじゃ。居留守いるすおもうもむりではあるまいが」
何度なんどたずねたかしらぬが、ちちはひとにうのをこのまぬほうだ。わぬというのに、無理むりるほうがわるい」
「ひとにうのはこのまぬと。片腹かたはらいたいおおごとじゃの。ではなぜ、おぬしのちち人中ひとなかんでおざるのじゃ」
すぎばばはまた、いつものきはじめて、きょうこそはわぬうちはかえりそうもないかおつきなのであった。

でもうごかないという俗言ぞくげんがある。ばばのつらがまえはそれであった。
老婆としよりおもってくびる――という共通きょうつうのひがみが、おすぎにもある。いやひといちばいつよいほうだ。それゆえに、くびられまいとする緊張きんちょうが、でもうごかないかおこしらえてしまうのである。
わか新蔵しんぞうには、およそ苦手にがて応対おうたいであった。ヘタをいえば揚足あげあしる。いっかつ二喝にかつではおどろかない。時々ときどき皮肉ひにくせてせせらわらう。
無礼者ぶれいものっ。
と、つかおとでもかせてやりたくなるが、短気たんきけだとおもうし、またそんなことをしても効果こうかがあるかどうかも、このばばにはうたがわしいとおもわれた。
「――ちち留守るすだが、まあ、それへこしかけてはどうだな。わしでわかはなしなら、わしがいておこうではないか」
むしおさえていってみると、これは新蔵しんぞう予期よきしていた以上いじょうがあって、
大川おおかわほとりから、牛込うしごめまであるいてるのも、容易よういではないがの。じつあしもくたびれているところ、おことばにあまえてけようか」
すぐ式台しきだいはしこしをおろして、あしをさすりしたが、したはくたびれる気色けしきもなく、
「これ、お息子むすこよ。――いまのように、物柔ものやわらかにいわれると、このばばも、つい大声おおごえしたことが、面目めんぼくのうなるが、それでは用向ようむきをはなすほどに、安房あわどのがおかえりなされたら、ようつたえてたもれよ」
承知しょうちした。して、ちちみみれたいとか、注意ちゅういしたいとかいうた用件ようけんとは」
「ほかでもない。作州牢人さくしゅうろうにん宮本武蔵みやもとむさしがことじゃ」
「ム。武蔵むさしがどうしたか」
「あれは十七歳じゅうななさいおりせきはらいくさて、徳川家とくがわけゆみいた人間にんげんじゃ。しかも郷里きょうりには、数々かずかず悪業あくぎょうをのこし、むらでは一人ひとりとして、武蔵むさしをよういうものはない。それに幾多いくたひところして、このばばにもかたきねらわれて、諸国しょこくまわっているわる素姓すじょう浮浪人ふろうにん
「ま、て、ばば
「いいえいの、まあ、いても。そればかりではない。わしがせがれ許嫁いいなずけのおつう、それをまあなずけたりしての、ともだちの女房にょうぼうともきまった女子おなごをば誘拐かどわかして……」
「ちょっと、ちょっと」
新蔵しんぞうは、おさえて、
「いったい、ばばの目的もくてきなんじゃ。武蔵むさし悪口わるくちをそうしていいあるくことか」
「あほらしい。天下てんかのおためおもうてじゃ」
武蔵むさし讒訴ざんそすることが、なんで天下てんかのおためになるか」
「ならいでか」
ばばはひらなおって、
「――けば、当家とうけ北条安房ほうじょうあわどのと、沢庵坊たくあんぼう推挙すいきょで、どうあの口巧くちうま武蔵むさし取入とりいったやら、ちかいうちに、将軍家しょうぐんけ御指南役ごしなんやくのひとりにくわえられるといううわさじゃが」
だれいたか、まだ御内定ごないていのことを」
小野おの道場どうじょうったものから、たしかにいておる」
「だから、どうだともうすのか」
「――武蔵むさしという人間にんげんは、いまもいうたとおりなふだつきもの、そのようなさむらいを、将軍家しょうぐんけのおそばすさえいまわしいのに、御指南役ごしなんやくなどとは、もってのほかとこのばばもうすのじゃ。将軍家しょうぐんけ師範しはんといえば、天下てんか。おおまあ、武蔵むさしなどとはおもうてもけがらわしい。ぶるいがますわいの。……このは、それを安房あわどのへ、おいさめにたわけじゃ。わかったかの、お息子むすこどの」