44・宮本武蔵「水の巻」「優曇華(4)(5)」


朗読「44水の巻8.mp3」14 MB、長さ: 約10分24秒

「――んでい」
清十郎せいじゅうろうかわいたくちびるから言葉ことばである。
挨拶あいさつをうけてやろうというのだった。道場どうじょうから一段高いちだんたか師範しはんこしをかけ、木剣ぼっけんつえって、清十郎せいじゅうろうはいった。
「は」
さん四人よにんこたえて、すぐ道場どうじょうよこから草履ぞうり穿き、にわづたいに、書院しょいんふちはしろうとするのを、祇園藤次ぎおんとうじ植田うえだなどの古参こさんが、そのきおたもとをつかまえて、
て、はやまるな」
それからのささやきは、すこしはなれてている清十郎せいじゅうろうみみにはきこえなかった。吉岡家よしおかけ家人かじん縁者えんじゃ古参こさん中心ちゅうしんとして、ひとかたまりになりきれないほどなあたまかずが、幾組いくくみにもわかれて、ひたいをよせあつめ、なにか、異論いろん主張しゅちょうと、評議ひょうぎ紛々ふんぷんたるものがあった。
――が、相談そうだんはすぐまったらしい。吉岡家よしおかけおもい、清十郎せいじゅうろう実力じつりょくをよく大勢おおぜいものかんがえとして、おくっている無名むめい牢人ろうにんして、ここで無条件むじょうけん清十郎せいじゅうろうむかわせることは、なんとしても不得策ふとくさくである。すでに、幾名いくめいかの死者ししゃ怪我人けがにんしているうえに、万一清十郎まんいちせいじゅうろうまでがやぶれたら吉岡家よしおかけ重大事じゅうだいじであって、危険極きけんきわまるというのが、そのひとたちの危惧きぐであった。
清十郎せいじゅうろうおとうと伝七郎でんしちろうがいるならば、そういう心配しんぱいはまずないものと人々ひとびとおもう。ところが生憎あいにくとその伝七郎でんしちろうまでが、きょうは早朝そうちょうからいないのだ、先代拳法せんだいけんぽう天分てんぶんは、あによりはこのおとうとのほうに多分たぶんによいしつがあると人々ひとびとているのだが、責任せきにんのない次男坊じなんぼう立場たちばにあるので、いたって暢気者のんきものだ。きょうも友達ともだち伊勢いせくとかいって、かえげずにいえているのだった。
「ちょっと、おみみを」
藤次とうじはやがて、清十郎せいじゅうろうのそばへって、なにささやいていた。――清十郎せいじゅうろうおもてがたはずかしめをうけたようによごれた。
「――だまちに?」
「…………」
っと、藤次とうじをもって、清十郎せいじゅうろうおさえた。
「……そんな卑怯ひきょうなことをしては、清十郎せいじゅうろうたぬ。たかのれた田舎武芸者いなかぶげいしゃに、おそれをなして、多勢おおぜいったと世間せけんにいわれては」
「ま……」
藤次とうじは、いて毅然きぜんよそお清十郎せいじゅうろうのことばへしかぶせて、
吾々われわれにまかせてください。吾々われわれに」
「そちたちは、この清十郎せいじゅうろうが、おくにいる武蔵むさしとやらという人間にんげんに、けるものとおもうているのか」
「そういうわけではありませぬが、って、名誉めいよてきではなし、若先生わかせんせいくだすには、勿体もったいない、と一同いちどうもうすのでござる。――なに外聞がいぶんにかかわるほどなことでもありますまい。……とにかくかしてかえしては、それこそ、御当家ごとうけはじを、世間せけんきちらされるようなものですからな」
そんなことをいっているあいだに、道場どうじょうちている人間にんげんは、半数以上はんすういじょうっていた。――にわへ、おくへ、また玄関げんかんから迂回うかいして裏門うらもんのほうへと、つようにおともなくやみまぎれてゆくのであった。
「あ。……もう猶予ゆうよはなりません、若先生わかせんせい
藤次とうじは、そこのを、ふっとしてしまった。――そして下緒さげおいてたもとをからげた。
清十郎せいじゅうろうこしかけたままながめていた。ほっとした気持きもちがどこかでしないでもない。しかし、けっして愉快ゆかいではなかった、自分じぶんちから軽視けいしされた結果けっかにほかならないのだ。ちち死後しごおこたって修業しゅぎょうのあとをかえりみて、清十郎せいじゅうろうくら気持きもちだった。
――あれほどな門下もんか家人かじんが、どこへひそんでしまったか、道場どうじょうには、もう彼一人かれひとりしかのこっていなかった。そして、井戸いどそこ物音ものおとのないくらさとつめたさが、やしきのうちをめた。
――じっとしていられないものが、清十郎せいじゅうろうこしたせた。まどからのぞいてみると、あかりいろしているのは、武蔵むさしというきゃくたせてある一室いっしつだけで、そのほかに何物なにものえなかった。

障子しょうじのうちの燈火ともしびは、時々ときどきしずかなまたたきをしていた。
えんした廊下ろうかとなり書院しょいんなど、そのほのかな灯影ひかげのゆれている一室いっしつほかは、すべてくらかった。徐々じょじょと、無数むすうが、ひきのようにそのやみまわっていた。
いきをころし、やいばせて、
「…………」
じっと、燈火あかりのさすなかはいを、身体からだじゅうでます。
(はてな?)
藤次とうじは、ためらった。
ほか門人もんじんたちも、うたがった。
――宮本武蔵みやもとむさしとやら、まえこそみやこいたこともない人間にんげんだが、とにかくあれほどつかううで持主もちぬしである。それが、しいんとしているのはどういうものだろう、多少たしょうなり兵法へいほうこころをおく人間にんげんならば、いくら上手じょうずしのろうが、これだけのてき室外しつがいせまってるのをづかずにいるはずはない。いま兵法者へいほうものわたろうというものが、そんなこころがまえであったら、つきひとツずつ生命いのちがあってもらないことになる。
――(ているな)
一応いちおうは、そうかんがえられた。
かなりなが時間じかんであったから、ちしびれをらして、居眠いねむっているのではあるまいかと。
だが、おもいのほか相手あいて曲者くせものとすると、あるいは、こっちの空気くうきはやさっしながら、襷股立たすきももだちのこしらえまで十分じゅうぶんにしておいて、わざと燈心とうしん丁字ちょうじらずに、らば――とりをひそめているのかもわからない。
(そうらしい……いや、そうだ)
どのからだこわばってしまう。自分じぶん殺気さっきでまず自分じぶんさきたれているのだ。だれさきにならないかと味方みかたのほうへもくばるのである。ゴクリとのどほねったりする。
宮本みやもとうじ
ふすまとなりから、藤次とうじ気転きてんでこうこえをかけた。
「――おたせいたしました。ちょっと、おかお拝借はいしゃくねがいたいが」
相変あいかわらずしいんとしたものである。いよいよてきには用意よういがある。藤次とうじはそうかんがえて、
かるな!)
と、眼合図めあいず左右さゆうものげておいて、どんと、ふすまこしった。
途端とたんに、なかおどりこむはずの人影ひとかげが、無意識むいしきにみな退いた。――ふすま一枚いちまいあしはずしてしきいから二尺にしゃくほどまたをひらいている。それッと、だれ叱咤しったした。四方しほう建具たてぐがぐわらぐわらと一度いちどりをててあばれた。
「やっ?」
「いないぞっ」
「いないじゃないか」
きゅうつよがったこえれている燈火あかりなかおこった。ついいまがた、ここへ燭台しょくだい門人もんじんはこんでときはまだきちんとすわっていたというその敷物しきものはある、火桶ひおけはある、またまないままえているちゃもあるのだ。
がした」
一人ひとりえんにわつたえる。
にわくらがりや床下ゆかしたから、むらむらって人影ひとかげみなみ、見張人みはりにん不注意ふちゅういののしった。
見張みはりをいいつかっていた門人もんじんたちは、くちそろえて、そんなはずはないという。いちどかわや姿すがたたが、すぐ部屋へやへもどったきり、武蔵むさしだんじてこの部屋へやていないといって不審いぶかる。
かぜではあるまいし……」
その抗弁こうべん嘲殺ちょうさつしていると、
「あっ、ここだ」
戸棚とだなくびっこんだものが、がれているゆかあなゆびさした。
燈火あかりがついてからといえば、まだそうとおくへははしっていないぞ」
え、追打おいうちに」
てき弱身じゃくしんはかってきゅうふるいだした武者むしゃぶるいが、小門こもん裏門うらもんをどっとして、そとらかった。
するとぐ――いたッとさけこえがながれた。表門おもてもん袖塀そでべいかげからはじかれたようにひとつのかげが、往来おうらいよこぎってむこうの小路こみちかくれたのを、こえともに、だれた。