40・宮本武蔵「水の巻」「陽なた陽かげ(3)(4)」


朗読「40水の巻4.mp3」15 MB、長さ: 約10分40秒

 それまで、沈湎ちんめんひたいづえついていた清十郎せいじゅうろうが、どうをとりなおしたか、唐突とうとつに、
朱実あけみ一杯ひとつゆこう」
 はいけると、
「ええ、頂戴ちょうだい
 わるびれもせず、うけて、
「はい」
 と、すぐかえす。
「つよいの、そちは」
 清十郎せいじゅうろうもまた、すぐあけて、
「も一杯ひとつ
「ありがと」
 朱実あけみは、したかないのである。さかずきちいさいとえて、ほかのおおきなものしても、あッけないくらいなものだった。
 からだつきでは、十六じゅうろくしち小娘こむすめとしかえないし、まだおとこくちびるによごされていないくちびると、鹿しかみたいに羞恥はにかみがちなひとみをもっているくせに、いったい、このおんなのどこへ、さけはいってしまうのだろうか。
「だめですよ、このは、おさけならいくらませたってわないんですから。三味線しゃみせんたせておくにかぎるんです」
 おこうがいうと、
「おもしろい」
 清十郎せいじゅうろうは、躍起やっきぐ。
 すこしくもゆきがおかしいぞと懸念けねんして、藤次とうじが、
「どうなすったので。――若先生今夜わかせんせいこんやは、ちとぎまする」
「かまわぬ」
 ただではない、あんのじょう、
藤次とうじ、わしは今夜こんやは、かえれぬかもれぬぞ」
 と、ことわってみつづける。
「ええ、おとまりなさいませ幾日いくにちでも。――ネ、朱実あけみ
 と、おこうは、調子ちょうしづける。
 藤次とうじくばせをして、おこうをそっとほか部屋へやらっしてった。――こまったことになったぞとひそごえささやくのである。あの執心しゅうしんぶりではでも、朱実あけみになんとか得心とくしんさせなければおさまるまいが、本人ほんにんよりは母親ははおやであるおまえのかんがえのほうが肝腎かんじんかねのところはどのくらいだと、真面目まじめになってかけうのだった。
「さ? ……」
 と、おこうくらなかで、厚化粧あつげしょうほおへ、ゆびをついてかんがむ。
なんとかせい」
 藤次とうじは、ひざをつめせ、
「わるくないはなしじゃないか、兵法家へいほうかだが、いま吉岡家よしおかけには、かねはうんとある。先代せんだい拳法先生けんぽうせんせいが、なんといっても、永年ながねん室町将軍むろまちしょうぐん御師範ごしはんだった関係かんけいで、弟子でしかずも、まず天下第一てんかだいいちだろう。しかも清十郎様せいじゅうろうさまはまだ無妻むさいだし、どうころんだって、すえわるいはなしではないぞ」
わたしは、いいとおもいますが」
「おまえさえよければ、それで文句もんくのありようはない。じゃあ今夜こんやは、二人ふたりとまるがいいか」
 あかりのない部屋へやである。藤次とうじ臆面おくめんもなくおこうかたをかけた。するとふすまのしまっているつぎでがたんと物音ものおとがした。
「あ。ほかにも、きゃくがいたのか」
 おこうは、だまってうなずいた。そして藤次とうじみみへ、湿しめっぽいくちびるをつけた。
あとで……」
 男女ふたりは、さりげなく、そこをた、清十郎せいじゅうろうはもういつぶれてよこになっている。部屋へやをわけて、藤次とうじた。――つつもねむらずにおとずれをっていたのであろう。しかし、皮肉ひにくなことだった。よるけても、おくおくで、ひっそりとしずまったりだし、二人ふたり部屋へやへは、きぬずれのおともしなかった。
 ばかなかおつきで、藤次とうじはおそくした。清十郎せいじゅうろうはもうさききて川沿かわぞいの部屋へやでまたんでいる。――いているおこう朱実あけみ今朝けさは、けろりとえていて、
「じゃあ、れてってくださる? きっと」
 と、なに約束やくそくしている。
 四条しじょう河原かわらに、阿国歌舞伎おくにかぶきがかかっている、その評判ひょうばんをもちだしているのだった。
「うむ、まいろう。さけ折詰おりのしたくをしておけ」
「じゃあ、風呂ふろもわかさなければ」
「うれしい」
 朱実あけみとおこうと、今朝けさは、この母娘おやこばかりがはしゃいでいた。

 出雲巫子いずもみこ阿国おくにおどりは、ちかごろ、まちのうわさを風靡ふうびしていた。
 それを真似まねて、女歌舞伎おんなかぶきというものの、模倣者もほうしゃが、四条しじょう河原かわらに、何軒なんけん掛床かけゆかをならべ、華奢風流きゃしゃふうりゅうあらそって、各々おのおのが、大原木踊おはらぎおどりとか、ねんぶつまいとか、おどりとか、独創どくそう特色とくしょくとうとしている。
 佐渡島右近さどがしまうこん村山左近むらやまさこん北野小太夫きたのこだゆう幾島丹後守いくしまたんごのかみ杉山すぎやま主殿とのもなどとまるでおとこのような芸名げいめいをつけた遊女ゆうじょあがりのものが、男扮装おとこいでたちで、貴人きじんやしきへも、出入でいりするのをかけられるのも、ちかごろの現象げんしょうだった。
「まだか、支度したくは」
 もう午刻ひるをすぎている。
 清十郎せいじゅうろうは、おこう朱実あけみが、その女歌舞伎おんなかぶきにゆくために、念入ねんいりなお化粧めかしをしているあいだに、からだがだるくなって、また、かない気色けしきになった。
 藤次とうじも、ゆうべのことが、いつまでもあたまにこびりついていて、彼独特かれどくとく調子ちょうしないのである。
おんなれてまいるもよいが、出際でぎわになって、かみがどうの、おびがなんの、あれが、じつおとこにとっては、小焦こじれッたいものでござる」
「やめたくなった……」
 かわる。
 三条小橋さんじょうこばししたで、おんなぬのさらしていた。はしうえを、騎馬きばひととおってゆく。清十郎せいじゅうろうは、道場どうじょう稽古けいこおもした。木太刀きだちおとやりのひびきがみみについてくる。大勢おおぜい弟子でしが、きょうは自分じぶんのすがたがえないのをなんといっているだろう。おとうと伝七郎でんしちろうもまたしたうちしているにちがいない。
藤次とうじかえろうか」
いまになって、左様さようなことをっしゃっては」
「でも……」
「おこう朱実あけみをあんなにうれしがらせておいて、おこりますぞ。はやくせいと、いそがせてまいりましょう」
 藤次とうじった。
 かがみ衣裳いしょうらかっている部屋へやをのぞいて、
「あれ? 何処どこじゃろ」
 つぎ部屋へや――そこにもいない。
 布団ふとん綿わたのにおいが陰気いんきまっているあたりのわる一間ひとまがある。何気なにげなく、そこも、がらりとけていた。
 いきなり藤次とうじはそのかおへ、
だれだッ」と、怒鳴どなられて面食めんくらった。
 おもわずひとあし退いて、うすぐらい――おもて客座敷きゃくざしきとはくらべものにならない湿々じめじめした古畳ふるだたみのうえをた。しょう遺憾いかんなく身装みなりにあらわした二十二にじゅうに三歳さんさい牢人者ろうにんものちゅうろうそそぎシムノ牢愁ろうしゅうナドノかたるアリ。当時とうじ古書こしょミナ牢人ろうにん文字もじもちウレド、あと浪人ろうにん同意味どういみナリ)――が、大刀だいとうのつばをはらうえさせたまま、だいなりにころんで、きたなあしうらをこっちにけているのである。
「ア……。これは粗相そそう、おきゃくでござったか」
 藤次とうじがいうと、
きゃくではないッ」と天井てんじょうむかって、そのおとこは、たまま怒鳴どなる。
 ぷーんと、さけのにおいが、そのからだからうごいてくる。だれらぬが、さわらないにかぎると、
「いや、失礼しつれい
 ろうとすると、
「やいっ」
 むッくりきてかえした。
「――あとめてゆけ」
「ほ」
 をのまれて、藤次とうじが、いわれたとおりにしてゆくと、風呂場ふろばつぎ小間こまで、朱実あけみかみをなでつけていたおこうがどこの御寮人ごりょうにんかとばかり、こってり盛装せいそうしたすがたをすぐそのあとからせて、
「あなた、なにおこってるんですよ」
 と、これまた、どもでもしかりつけるような口調くちょうでいう。
 朱実あけみが、うしろから、
又八またはちさんもかない?」
「どこへ」
阿国おくに歌舞伎かぶきへ」
「べッ」
 本位田又八ほんいでんまたはちは、つばでもくように、くちをゆがめておこうへいった。
「どこに、女房にょうぼうのしりにきまとうきゃくの、そのまたしりにいて亭主ていしゅがあるかっ」