朗読「40水の巻4.mp3」15 MB、長さ: 約10分40秒
三
それまで、沈湎と額づえついていた清十郎が、どう気をとり直したか、唐突に、
「朱実、一杯ゆこう」
杯を向けると、
「ええ、頂戴」
悪びれもせず、うけて、
「はい」
と、すぐ返す。
「つよいの、そちは」
清十郎もまた、すぐあけて、
「も一杯」
「ありがと」
朱実は、下へ置かないのである。杯が小さいと見えて、ほかの大きな杯で酌しても、あッけないくらいなものだった。
体つきでは、十六、七の小娘としか見えないし、まだ男の唇によごされていない唇と、鹿みたいに羞恥みがちな眸をもっているくせに、いったい、この女のどこへ、酒が入ってしまうのだろうか。
「だめですよ、この娘は、お酒ならいくら飲ませたって酔わないんですから。三味線を持たせておくに限るんです」
お甲がいうと、
「おもしろい」
清十郎は、躍起に酌ぐ。
すこし雲ゆきがおかしいぞと懸念して、藤次が、
「どうなすったので。――若先生今夜は、ちと飲け過ぎまする」
「かまわぬ」
凡ではない、案のじょう、
「藤次、わしは今夜は、帰れぬかも知れぬぞ」
と、断って飲みつづける。
「ええ、お泊りなさいませ幾日でも。――ネ、朱実」
と、お甲は、調子づける。
藤次は眼くばせをして、お甲をそっと他の部屋へ拉して行った。――困ったことになったぞと密め声で囁くのである。あの執心ぶりでは是が非でも、朱実になんとか得心させなければ納まるまいが、本人よりは母親であるおまえの考えのほうが肝腎、金のところはどのくらいだと、真面目になってかけ合うのだった。
「さ? ……」
と、お甲は暗い中で、厚化粧の頬へ、指をついて考え込む。
「何とかせい」
藤次は、膝をつめ寄せ、
「わるくない話じゃないか、兵法家だが、今の吉岡家には、金はうんとある。先代の拳法先生が、何といっても、永年、室町将軍の御師範だった関係で、弟子の数も、まず天下第一だろう。しかも清十郎様はまだ無妻だし、どう転んだって、行く末わるい話ではないぞ」
「私は、いいと思いますが」
「おまえさえよければ、それで文句のありようはない。じゃあ今夜は、二人で泊るがいいか」
灯りのない部屋である。藤次は臆面もなくお甲の肩へ手をかけた。すると襖のしまっている次の間でがたんと物音がした。
「あ。ほかにも、客がいたのか」
お甲は、黙ってうなずいた。そして藤次の耳へ、湿っぽい唇をつけた。
「後で……」
男女は、さりげなく、そこを出た、清十郎はもう酔いつぶれて横になっている。部屋をわけて、藤次も寝た。――寝つつも眠らずに訪れを待っていたのであろう。しかし、皮肉なことだった。夜が明けても、奥は奥で、ひっそりと寝しずまった限りだし、二人の部屋へは、衣ずれの音もしなかった。
ばかな目を見た顔つきで、藤次はおそく起き出した。清十郎はもう先に起きて川沿いの部屋でまた飲んでいる。――取り巻いているお甲も朱実も今朝は、けろりと冴えていて、
「じゃあ、連れて行ってくださる? きっと」
と、何か約束している。
四条の河原に、阿国歌舞伎がかかっている、その評判をもちだしているのだった。
「うむ、参ろう。酒や折詰のしたくをしておけ」
「じゃあ、風呂もわかさなければ」
「うれしい」
朱実とお甲と、今朝は、この母娘ばかりがはしゃいでいた。
四
出雲巫子の阿国の踊りは、近ごろ、町のうわさを風靡していた。
それを真似て、女歌舞伎というものの、模倣者が、四条の河原に、何軒も掛床をならべ、華奢風流を争って、各々が、大原木踊りとか、ねんぶつ舞とか、やっこ踊りとか、独創と特色を持とうとしている。
佐渡島右近、村山左近、北野小太夫、幾島丹後守、杉山主殿などとまるで男のような芸名をつけた遊女あがりの者が、男扮装で、貴人の邸へも、出入りするのを見かけられるのも、近ごろの現象だった。
「まだか、支度は」
もう陽は午刻をすぎている。
清十郎は、お甲と朱実が、その女歌舞伎を見にゆくために、念入りなお化粧をしている間に、体がだるくなって、また、浮かない気色になった。
藤次も、ゆうべのことが、いつまでも頭にこびりついていて、彼独特な調子も出ないのである。
「女を連れてまいるもよいが、出際になって、髪がどうの、帯がなんの、あれが、実に男にとっては、小焦れッたいものでござる」
「やめたくなった……」
川を見る。
三条小橋の下で、女が布を晒していた。橋の上を、騎馬の人が通ってゆく。清十郎は、道場の稽古を想い出した。木太刀の音や槍の柄のひびきが耳についてくる。大勢の弟子が、きょうは自分のすがたが見えないのを何といっているだろう。弟の伝七郎もまた舌うちしているに違いない。
「藤次、帰ろうか」
「今になって、左様なことを仰っしゃっては」
「でも……」
「お甲と朱実をあんなに欣しがらせておいて、怒りますぞ。早くせいと、急がせて参りましょう」
藤次は出て行った。
鏡や衣裳の散らかっている部屋をのぞいて、
「あれ? 何処じゃろ」
次の部屋――そこにもいない。
布団綿のにおいが陰気に閉まっている陽あたりの悪い一間がある。何気なく、そこも、がらりと開けていた。
いきなり藤次はその顔へ、
「誰だッ」と、怒鳴られて面食らった。
思わずひと足退いて、うす暗い――表の客座敷とは較べものにならない湿々した古畳のうえを見た。やくざな性を遺憾なく身装にあらわした二十二、三歳の牢人者(註・牢ハ淋シムノ意、牢愁ナドノ語アリ。当時ノ古書ミナ牢人ノ文字ヲ用ウレド、後ノ浪人ト同意味ナリ)――が、大刀のつばを腹の上に飛び出させたまま、大の字なりに寝ころんで、汚い足の裏をこっちに向けているのである。
「ア……。これは粗相、お客でござったか」
藤次がいうと、
「客ではないッ」と天井へ向って、その男は、寝たまま怒鳴る。
ぷーんと、酒のにおいが、その体からうごいてくる。誰か知らぬが、触らないにかぎると、
「いや、失礼」
立ち去ろうとすると、
「やいっ」
むッくり起きて呼び返した。
「――後を閉めてゆけ」
「ほ」
気をのまれて、藤次が、いわれた通りにしてゆくと、風呂場の次の小間で、朱実の髪をなでつけていたお甲がどこの御寮人かとばかり、こってり盛装したすがたをすぐその後から見せて、
「あなた、何を怒ってるんですよ」
と、これまた、子どもでも叱りつけるような口調でいう。
朱実が、うしろから、
「又八さんも行かない?」
「どこへ」
「阿国歌舞伎へ」
「べッ」
本位田又八は、唾でも吐くように、唇をゆがめてお甲へいった。
「どこに、女房のしりに尾きまとう客の、そのまたしりに尾いて行く亭主があるかっ」