380・宮本武蔵「二天の巻」「下り荷駄(1)(2)」


朗読「380二天の巻36.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 33秒

くだ荷駄にだ

いち

くな、くな」
 権之助ごんのすけは、そのごえを、おさえつけるように、伊織いおりかおを、懐中ふところきしめた。
かいでもいい。――おとこじゃないか、おとこのくせに」
 なだめすかすと、
おとこだから……おとこだから、くんだい。……先生せんせいつかまってった。――先生せんせいしばられてった」
 と、権之助ごんのすけ懐中ふところけ、なおおおきなくちをあいて、そらむかっていた。
つかまったのじゃない。武蔵むさしどのから、自訴じそなされたのだ」
 と、いってみたが、権之助ごんのすけこころのうちでは不安ふあんだった。
 谷川橋たにがわばしまで出向でむいていた役人やくにんれが、なにしろ、物々ものものしく殺気立さっきだっていたし、そのほか十名じゅうめい二十名にじゅうめいずつの捕手とりてが、幾組いくくみたむろしていたろうか。
神妙しんみょうに、自訴じそしてものを、あんなにしないでも)
 と、おもうしまた、うたがわれもする。
「さ、こう」
 伊織いおりると、
いやっ」
 伊織いおりは、くびって、まだいていたいように、谷川橋たにがわばしからうごかないのである。
「はやくい」
いやだ。いやだ。――先生せんせいを、んでてくれなければいやだ」
武蔵むさしどのは、すぐおかえりになるにきまっている。――なければ、いてってしまうぞ」
 ――でもなお、伊織いおりうごかなかったが、そのとき先刻さっき猛犬もうけん黒犬くろが、あの杉林すぎばやしのあたりの生血いきちすすいたようなかおして、いきおいよくそこをけてったので、
「あっ、おじさん!」
 と、権之助ごんのすけのそばへんでった。
 権之助ごんのすけは、この少年しょうねんが、かつては、曠野こうや一軒屋いっけんやにただひとりでみ、ちち死骸しがいほうむるのに、ひとりでてないため、その亡骸なきがら自分じぶんかたないでふたつにろうとしたくらい、不敵ふてきなたましいの持主もちぬしとはらないので、
「くたびれたのだろ」
 と、なぐさめた。
 そして、
こわかったろう。むりもない。――ぶってやろうか」
 と、背中せなかけた。
 伊織いおりは、きやんで、
「ああ」
 と、あまえながら、かれ背中せなかきついた。
 まつりは、ゆうべで仕舞しまいだった。あれほどな人出ひとでが、いたように下山げざんして、三峰権現みつみねごんげん境内けいだいも、門前町もんぜんまちのあたりも、ひっそりしていた。
 群衆ぐんしゅうのこしてったたけかわ紙屑かみくずが、ただちいさい旋風つむじかれていた。権之助ごんのすけは、ゆうべ床几しょうぎりて犬茶屋いぬぢゃや土間どまなかを、そっとのぞきながらとおった。
 すると、背中せなか伊織いおりが、
「おじさん。――さっきやまにいたおんなのひとが、このいえにいたぜ」
「いるはずだ」
 権之助ごんのすけは、ちどまって、
武蔵むさしどのがしばられるくらいなら、あのおんなさきつかまってかなければうそだ」
 といった。
 たったいまいえかえってたおこうは、かえるとすぐ、有合ありあかね持物もちものにつけ、たびはし身拵みごしらえにあわただしかったが、ふと、かどった権之助ごんのすけかげに、
畜生ちくしょう
 と、いえなかからいてつぶやいた。

 伊織いおりぶったまま、軒下のきしたった権之助ごんのすけは、おこう憎怨ぞうおんにみちたへ、
支度じたくかね」
 と、わらかえした。
 おくにいたおこうは、っと、ってて、
おおきなお世話せわというものだよ。――それよりも、おい、若蔵わかぞう
「ホ。なんだ」
「よくも今朝けさは、わたしたちうらいて、武蔵むさしへよけいな助太刀すけだちをおしだね。そして、わたしの亭主ていしゅ藤次とうじころしたね」
自業自得じごうじとく。しかたがないというものだろう」
おぼえておいで」
「どうする」
 権之助ごんのすけが、いうと、背中せなかから伊織いおりまでが、
悪者わるものっ」
 と、ののしった。
「…………」
 おこうはついとおくへはいってしまって、そこからせせらわらった。
「わたしが悪者わるものなら、おまえたちは、平等坊びょうどうぼう宝蔵破ほうぞうやぶりをした大盗おおぬすじゃないか。いえ、その大盗おおぬす手下てしたじゃないか」
なに
 背中せなか伊織いおりろして、権之助ごんのすけ土間どまへはいってた。
盗賊とうぞくだと」
白々しらじらしい」
「もう一度いちどもうしてみろ」
「わかるよ、いまに」
「いえっ」
 むずと彼女かのじょうでをつかむと、おこうはいきなりかくしていた匕首あいくちいて、権之助ごんのすけきかけてた。
 れいじょうひだりっていたが、それも使つかうにおよばず、匕首あいくちをもぎって、おこう軒先のきさきへつきとばした。
やましゅうっ、てくださいっ。宝蔵破ほうぞうやぶりの仲間なかまがっ――」
 なん先刻せんこくからそういうのか、とにかくそうさけびながら、おこう往来おうらいまろした。
 権之助ごんのすけは、くわっとして、もぎった匕首あいくちを、そのむかって、げつけた。――匕首あいくち彼女かのじょはいつらぬいた。きゃッと、あけになって、まえたおれた。
 ――すると、何処どこもぐっていたのか、猛犬もうけんくろは、一声ひとこえおおきくえながら、彼女かのじょからだへとびかかった。そして傷口きずぐちからながれるをすすっては、陰々いんいんと、くもむかってえた。
「あっ、あのいぬ
 伊織いおりはおどろいた。それは、異常いじょうそうをあらわしていたからである。
 だが、いぬどころではない。この山上さんじょう人間にんげんは、今朝けさからみな、それにちかいろをもって、何事なにごとか、さわいでいたのである。
 よるひるも、ひと神楽かぐらばやしに熱鬧ねっとうしていたまつり混雑こんざつじょうじて、ゆうべの深夜しんやから今朝けさまでのあいだに、総務所そうむしょ平等坊びょうどうぼう宝蔵ほうぞうが、何者なにものかのために、やぶられていたというのである。
 勿論もちろん外部がいぶ仕業しわざであることは明瞭めいりょうで、宝蔵ほうぞうのうちの古刀ことうとかかがみとかには異状いじょうはなかったが、多年たねんたくわえられてあった砂金さきんだの海鼠なまこがたものだの、貨幣かへいとなっているものだのをあわせておよそ何貫目なんかんめというかねが一度いちどうしなわれてしまったのだという。
 たんなるうわさではないらしい。この山上さんじょうに、さっきも、あれほど役人やくにん捕吏ほり来合きあわせていたということも、おもあわせば、原因げんいんはそのほうにあったかもしれないのである。
 いや、もっと顕然けんぜんたる証拠しょうこには、おこうが、往来おうらいげたわずか一声ひとこえで、もうわらわらとった附近ふきん住民じゅうみんが、
「ここだ。このなかだ」
宝蔵破ほうぞうやぶりの徒党ととうげこんでいる」
 と、遠巻とおまきにして、得物えものったり、いしひろって、いえのうちへげこんだりしはじめた。それをても、山上さんじょう住民じゅうみん興奮こうふんが、ただならぬものであることがわかる。