379・宮本武蔵「二天の巻」「八重垣紅葉(7)(8)」


朗読「379二天の巻35.mp3」11 MB、長さ: 約 11分 58秒

なな

(――だれか?)
 と、うたがった。おもわざるうしろの味方みかたであった。だがたしかめているいとまなどもとよりない。
 武蔵むさしは、うしろを、安心あんしんした。
 梅軒ばいけんむかって、一方いっぽうに、こころをあつめることができた。
 だが、かれには、すでに小刀一本しょうとういっぽんしかなかった。大剣だいけんは、梅軒ばいけんくさりに、られていた。
 せまろうとすれば、梅軒ばいけんは、すぐかんじて、うしろへぶ。
 梅軒ばいけんにとって、なによりも大切たいせつなのは、てき自己じことの距離きょりだった。かま分銅ふんどうと、二分にぶんされたくさりながさが、かれ武器ぶきながさである。
 武蔵むさしにすれば、その距離きょりより一尺遠いっしゃくとおくてもよい。あるいは、一尺近いっしゃくちかくはいってもよいのである。――だが、梅軒ばいけんはそうさせない。
 武蔵むさしは、かれ秘術ひじゅつに、まったくしたいた。難攻不落なんこうふらくしろあたって、めあぐねたようなつかれをかんじるのである。――だが、武蔵むさしかれ秘妙ひみょうわざが、なにっておこるかを、たたかいのあいだに観破みやぶった。それは二刀流にとうりゅう原理げんりおなじだからであった。
 くさり一本いっぽんであるが、分銅ふんどう右剣うけんであり、かま左剣さけんである。そしてそのふたつのものを、かれ一如いちにょ使つかいこなしているのだった。
た! 八重垣流やえがきりゅうっ」
 武蔵むさしは、そうさけんだ。そのこえはもう、自分じぶん勝利しょうり信念しんねんしていた。――んで分銅ふんどうから五尺ごしゃくうしろへ退がりながら、右手みぎてちかえていた小剣しょうけんを、てきほうりつけたのである。
 梅軒ばいけんからだは、かれって、まえおどって姿勢しせいにあった。――んで小剣しょうけんたいして、梅軒ばいけんはそれをはら何物なにものもなかった。
 おもわず――あッと、じったのである。
 小剣しょうけんは、れて彼方かなたった。――しかし、梅軒ばいけん分銅鎖ふんどうくさりは、かれが、急角度きゅうかくどじかわしたため、彼自身かれじしんからだに、ぶんと一巻ひとまからみついた。
「ちっ」
 悲壮ひそうなさけびが、梅軒ばいけんくちかられたかいなかの咄嗟とっさに、武蔵むさしは、
「おうっ」
 と、鉄球てっきゅうのように、梅軒ばいけんからだむかって、自分じぶん五体ごたいをぶつけていた。
 梅軒ばいけんは、かたなのつかをつかみかけたが、武蔵むさしが、その小手こてなぐった。かれはなしたかたなのつかはもう武蔵むさしにぎられていた。
(――しいっ)
 こころのうちにそうねんじながら、武蔵むさしは、梅軒ばいけん大刀だいとうをもって、梅軒ばいけん真二まっぷたつにげていた。つばからしち八分はちぶどころから気味ぎみふかりつけたので、生木なまきらいのように、かたなのうから肋骨あばら何枚なんまいかまでとおってった。
「……ああ」
 だれうしろで、武蔵むさしのその呼吸こきゅうを、うけぐように嘆声たんせいでいったものがある。
「からたけり。――はじめてました」
「……?」
 武蔵むさしは、かえった。
 四尺よんしゃくほどな丸棒まるぼうつえをついて、一人ひとりわか田舎者いなかものっている。むっくりえたかたり、丸々まるまるとしたかおに、上気じょうきしたあせをたたえ、しろせながらわらっているのである。
「やっ……?」
「わたくしです。――しばらくでござりました」
木曾きその、夢想権之助むそうごんのすけどのではないか」
意外いがいでございましょう」
意外いがいだ」
三峰権現みつみねごんげんのおひきあわせだとわたしおもいます。また、わたくしに導母どうぼじょうさずけてくれたははみちびきもあるでしょう」
「……では、母御ははごは」
くなりました」
 茫然ぼうぜんたるまま、とりとめもなく、かたりかけたが、
「そうだ。伊織いおりが?」
 と、武蔵むさしはすぐ、かれ姿すがたさがした。すると、権之助ごんのすけは、
「おあんじなさいますな。てまえがすくって、あそこへのぼらせておきました」
 と、そらゆびさした。
 伊織いおりは、うえから、不審ふしんそうに二人ふたりをじっとまもっていたが、そのとき杉林すぎばやしおくで、ワン、ワン! と猛犬もうけんえたけびが、こだましてたので、
「おや?」
 と、らした。

はち

 をかざして、伊織いおりが、うえから、猛犬もうけんえている方角ほうがくをさがすと、ずっとおくの――杉林すぎばやしからさわへかかる途中とちゅうに、わずかな平地へいちがあって、そこに一匹いっぴき黒犬くろいぬかげにとまる。
 黒犬くろいぬは、つながれていた。
 そしてそばにいる、おんなたもとみついている。
 おんな必死ひっしで、げようとしているが黒犬くろいぬはなさない。
 しかし、たもとって、おんなまろぶように草原そうげんした。
 梅軒ばいけん加勢かせいて、さっき伊織いおり杉林すぎばやしなかまわした法師ほうしが、あたまからして、やりつえに、よろめきながら、おんなさきあるいていたが、おんなたちまち、傷負ておい坊主ぼうずいこして、ふもとほうへ、りてった。
 ――わ、わ、わんッ
 先刻さっきから血腥ちなまぐさかぜが、黒犬くろいぬ限界げんかいちかたかぶりにさせたのかもしれない。こだまこえをよび、こえこだまをよび、陰々いんいんと、そのえたけびは、まなかった。
 ――とおもううち、ついに、猛犬もうけんはそのなわって、くろまりみたいに、おんなげたほうんでったが、その途中とちゅうに、よろめきよろめきあるいていた傷負ておい法師ほうしは、自分じぶんみついてたとおもったか、いきなりやりりあげて、いぬかおをぶんなぐった。
 穂先ほさきなぐられたので、黒犬くろいぬかおすこれた。
 ――きゃんッ!
 いぬよこれて杉林すぎばやしけこんだ。それきり、えるこえもせず、かげえなくなってしまった。
先生せんせい
 伊織いおりは、うえからげた。
おんなげてったよ。――おんなが」
りてい、伊織いおり
杉林すぎばやしむこうを、まだもう一人ひとり傷負ておい坊主ぼうずげてく。いかけないでもいいんですか」
「もうよい」
 ――伊織いおりがそこをりてったころには、武蔵むさしは、夢想権之助むそうごんのすけくちから、あらましの次第しだいいていた。
おんなげてったといいますから――きっと今申いまもうした、おこうにちがいありません」
 権之助ごんのすけはゆうべ、彼女かのじょ茶店ちゃみせ腰掛こしかけねむっており、天佑てんゆうといおうか、はしなくも、かれらのきょうのたくごとを、すっかりいてしまったので、すぐ、そうさっしたのであった。
 武蔵むさしふかしゃして、
「――では、最初さいしょ物陰ものかげから鉄砲てっぽうったものを、ころしたのも、其許そこもとでござったか」
「いや、わたしではありません。――このじょうです」
 権之助ごんのすけは、諧謔かいぎゃくじえて、わらいながら、
かれらがとうとはかっても、余人よじんならぬ貴方あなたのこと、たいがいのことは拝見はいけんしておるところですが、鉄砲てっぽうものがあったので、夜明よあまえに、ここへ先廻さきまわりしていて、鉄砲てっぽうったおとこうしろにひそみ、ねらいすましたところをうしろから、このつえころしました」
 ――それから二人ふたりして、一応いちおうそこらの死骸しがいあらためてみると、つえころされているもの七名ななめい武蔵むさしったもの五名ごめいつえのほうがおおかった。
は、こちらにないにせよ、ここは神域しんいき不問ふもんではすまされまい。神領じんりょう代官だいかんへ、自訴じそいたそうとおもう。――そのあとのこともいたし、こちらのこともかたりたし、ではあるが、落着おちついたうえとして、一先ひとま観音院かんのんいんまでもどろう」
 だが。――その観音院かんのんいんまでもどらぬうちに、神領代官じんりょうだいかん役人やくにんたちが、谷川橋たにがわばしたむろしていたので、武蔵一人むさしひとり、それへ自訴じそした。役人やくにんたちは多少たしょう意外いがいていだったが、即座そくざに、
なわて」
 と部下ぶかめいじた。
(――なわを?)
 武蔵むさしは、予期よきしなかったことにおどろいた。自訴じそしたものに、無法むほうだとおもう。神妙しんみょう仕方しかたを、ぼうむくわれたがした。
あるけッ」
 すでに、囚人しゅうじんあつかいである。武蔵むさしいかったが、わなかった。役人やくにんたちの身支度みじたくからして物々ものものしかったが、くほどに途々みちみちたむろしていた捕手とりておびただしさにおどろいた。
 門前町もんぜんまちまでるうちに、百人以上ひゃくにんいじょうにもなって、縄付なわつきの武蔵むさしひとりを十重二十重とえはたえ警固けいごしてくのだった。