376・宮本武蔵「二天の巻」「八重垣紅葉(1)(2)」


朗読「376二天の巻32.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 32秒

八重垣紅葉やえがきもみじ

いち

 まだ、きりふかい――。
 ちいさい残月ざんげつも、たにからたかはなれている。
 大岳おおだけねむっていた。
 淙々そうそう、どうどう、たださわがしいのは、小猿沢こさるさわそこみずである。
 そこの谷川橋たにがわばしに、黒々くろぐろと、きりにつつまれた人影ひとかげがかたまっていた。
藤次とうじ
 と、低声こごえぶ。
 梅軒ばいけんこえである。
 おな低声こごえで、れのなかから、藤次とうじこたえる。
火縄ひなわらすな」
 と、いう注意ちゅうい梅軒ばいけんがする。
 法衣ころもをからげた山法師やまほうしそのままなそうが、手槍てやりって二人ふたりもこの殺伐さつばつれのなかじっている。
 あとは地侍じさむらいや、ならずものであろう。服装ふくそう雑多ざっただが、足拵あしごしらえは、どれをても、軽捷けいしょうれたよそおいである。
「これだけか」
「そうです」
何名なんめい?」
 おたがいに、頭数あたまかずう。だれかぞえても、自分じぶんくわえて、十三名じゅうさんめいむ。
「よしっ……」
 梅軒ばいけんはいって、行動こうどうする手筈てはずをもういちどそこで銘々めいめいに、繰返くりかえした。銘々めいめいは、だまってうなずいた。――そして、ではけとばかり、谷川橋たにがわばしから一筋道ひとすじみちあたりをして、くもなかへ、えてしまった。

これヨリ三十一町さんじゅういっちょう
奥之院道おくのいんどう

 谷川橋たにがわばし断崖きりぎしきわにあるみちしるべいし文字もじが、しろ残月ざんげつに、かすかにまれて、そのあとはただ、たに水音みずおとかぜだった。
 ひとると、そのあいだひそんでいたものが、やがて樹々きぎこずえわたってさわぎだした。
 これからおくいんまで、無数むすうかけるさるれだった。
 さるは、がけうえから、小石こいしころがし、つるぐさにすがり、みちまでた。
 はしけまわる。はしうらへかくれむ。谷間たにまぶ。
 きりは、そのかげを、まわすように、さるたわむれた。――もしここに一人ひとり神仙しんせんりて、かれらに、仙語せんごをもって、
なんじら、せいをうけて、なんぞこの狭隘きょうあい山谷さんこくに、くも児戯じぎするや。くもすでにつ、くもせよ。くこと西方三千里せいほうさんぜんり廬山ろざん峨眉峰がびほうゆびさし、あし長江ちょうこうすすぎ、大世界だいせかいう。生命真せいめいしんぶべし。われらとともきたらずや)
 とでもびかけたら、くもはみなさるとなり、さるはみなくもって、漠々ばくばく昇天しょうてんってくかもしれない。
 ――そんな幻想げんそうさえもよおすほど、さるは、あそんでいた。残月ざんげつひかりに、そのさるかたちきりうつって、ふたつずつにえた。
 わんッ!
 わん、わん、わんッ!
 とつ――いぬこえだった。
 いぬこえは、こだまして、たにとおくひびいた。
 とたんに、さながらあきすえ黄櫨はぜかぜ見舞みまわれたように、さるは、一瞬いっしゅんかげをひそめてしまった。――そしてそこへ、かなりたか跫音あしおとをひびかせて、宝蔵番ほうぞうばんのために梅軒ばいけんっている黒犬くろいぬなわってんでた。
「くろっ、くろ!」
 あとからってたのは、おこうであった。
 梅軒ばいけんたちが、大岳おおだけったのでそれをって、なわったものとみえる。

 彼女かのじょはやっと、黒犬くろきずってなわはしをつかまえた。黒犬くろはつかまると、彼女かのじょおおきなからだしつけてからみついた。
畜生ちくしょう
 彼女かのじょは、いぬきでない。退けながら、なわった。
 そして、
「おかえり!」
 と、元来もときほうもどそうとすると、黒犬くろはまた、みみまでくちいて、
 ――うわんッ
 と、はじめた。
 なわはつかまえたが、彼女かのじょちからではうごかなかった。無理むりれば、おおかみのような甲高かんだかこえして、えつづける。
「なぜこんなものを、れてたんだろう。宝蔵ほうぞう犬小屋いぬごやつないでおけばいいに」
 と、彼女かのじょかんおこった。
 こんなことをしているあいだに、もし別当べっとう観音院かんのんいん今朝立けさたはずの――武蔵むさしはやくもかかったら、不審ふしんおもわれるにちがいない。このいぬが、このみちに、うろうろしているだけでも、機敏きびんかれ気遣きづかわれるおそれは十分じゅうぶんにある。
「ちいッ、しようがないね」
 おこうは、あました。
 黒犬くろえやまないのである。
仕方しかたがない――おで。そのかわり、おくいんったら、えるんじゃないよ」
 やむなく彼女かのじょいぬいて、いやいぬかれて――さきのぼった人々ひとびとみちあとからあえいでった。
 それきり黒犬くろえるこだまはしてなかった。黒犬くろ嬉々ききと、飼主かいぬしにおいをってったのだろう。

 一夜中いちやちゅう、うごきやまずにうごいていたきりが、谷間たにまへ、あつぼったいゆきのように落着おちついて、武甲ぶこう山々やまやまや、妙法みょうほうや、白石しらいしや、雲取くもとりすがたんでると、おく院道いんどうしらわたって、チチ、チチ、チチ……と小鳥ことりこえみみあらう。
先生せんせい、どうしてだろ?」
なにが」
あかるくなったのに、お日様ひさまえないもの」
「おまえのている方角ほうがくは、西にしではないか」
「あ、そうか」
 伊織いおりは、そのかわりに、つきつけた。みね彼方かなたちかけているうすつきを。
伊織いおり
「はい」
「このやまには、おまえの親友しんゆうがたくさんいるな」
「どこにですか」
「それ。あそこにも――」
 武蔵むさしが、ゆびさした谷間たにまをのぞくと、親猿おやざるなかにして、子猿こざるが、かたまっていた。
「いたろう。はははは」
なんだあ……。だけど先生せんせい……さるうらやましいなあ」
「なぜ」
おやがいるもの」
「…………」
 みち胸突むなつきである。武蔵むさしだまってさきのぼってく。――すこのぼるとまたやや平地へいちになってた。
「あの、いつか、先生せんせいあずけといた、かわ巾着きんちゃく――おっさんのお遺物かたみの――あれを先生せんせいはまだっていてくれますか」
おとしはせぬ」
なかを、くださいましたか」
ない」
「あのなかに、お神札まもりほかに、いたものもはいっているんですから、こんてください」
「ウむ」
「あれをっていた時分じぶんは、わたしにはまだ、むずかしいめなかったけれど、いまならもうめるかもしれません」
なにかのとき、おまえ自身じしんで、けてみるとよい」
 一歩一歩いっぽいっぽよるしらんでる。
 武蔵むさしは、みちくさながらんだ。自分じぶんんでさき何者なにもの足痕あしあとか、その草露くさつゆはおびただしくよごれていた。