374・宮本武蔵「二天の巻」「魔の眷属(1)(2)」


朗読「374二天の巻30.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 52秒

眷属けんぞく

いち

 いぬは、三峰みつみねのお使つかいであるというので、やまでは、権現様ごんげんさま御眷属ごけんぞくとよんでいる。
 山犬やまいぬのおふだだの、山犬やまいぬ木彫きぼりだの、山犬やまいぬ陶器すえものだの――を参籠者さんろうしゃ下山げざんおりってゆくのもそのためである。
 また、ほんもののおいぬもこのやまには沢山たくさんいた。
 ひとわれ、あがめられてもいるが、この山中さんちゅうにいるので、自然生物しぜんいきものい、まだ山犬やまいぬ本質ほんしつけきれていないような、するどきばったいぬばかりである。
 それらの眷属けんぞく祖先そせんは、千余年前せんよねんまえ大集団だいしゅうだんで、うみ彼方かなたから武蔵野むさしの移住いじゅうして高麗こま民族みんぞく家族かぞくともに、うつってたものと、それより以前いぜんから、秩父ちちぶやまにいた純坂東種じゅんばんどうしゅ山犬やまいぬと、そう二種類にしゅるい結合けつごうされたをもっている猛犬もうけんだということであった。
 それはとにかく。
 ――武蔵むさし姿すがた別当べっとう観音院かんのんいんまえまで尾行つけてきたおとこにも、一匹いっぴきいぬ麻縄あさなわかれている。いまおとこやみ手招てまねきすると、こうしのような黒犬くろいぬともに、やみほうてくんくんとはならしはじめた。
 かれつねれている人間にんげんのにおいが、ちかづいてたせいであろう。
「しッ」
 と、飼主かいぬしは、手綱たづなをちぢめて、しりひとった。
 その飼主かいぬしかおも、狛犬こまいぬおとらない獰猛どうもう容貌ようぼうをそなえていた。かおに、しわりがふかく、五十歳ごじゅっさいがらみにえるが、骨太ほねぶとからだは、もっとわかい、いやわかものにもめずらしいほど精悍せいかんである。五尺ごしゃくそこそこだが、四肢しし節々ふしぶしには、何処どことなく、あたがた弾力だんりょく闘志とうしがこもっていて――いわば、この飼主かいぬしも、れているいぬおなじように、まだ山犬やまいぬしょう多分たぶん脱化だっかしきれない――野獣やじゅうから家畜かちくへの過渡期かときにあるのと同様どうような――山侍やまざむらい一人ひとりだった。
 だが、てらつとめているなので、服装ふくそうはきちんとしていた。胴服どうふくともみえ、かみしもともみえ、羽織はおりともみえるものうえに、腰締こしじめをむすび、麻袴あさばかまをはき、あしには、祭礼穿まつりばきの、あたらしい紙緒かみお草履ぞうりをはいている。
梅軒ばいけんさま」
 そっと、やみなかからっておんなはいった。
 いぬは、そのすそへ、じゃれかかろうとするし――おんなは、そのために、距離きょりしかちかづきかねていた。
「こいつ」
 梅軒ばいけんは、なわはしで、こんどはややつよく、いぬあたまって、
「おこう。……よくつけたな」
「やはり、あいつでしょう」
「うむ。武蔵むさしだ」
「…………」
「…………」
 二人ふたりは、それきりくちつぐむ。くもほしている。神楽殿かぐらでん早拍子はやびょうしが、くろ杉木立すぎこだちおくいまさかんだった。
「どうします」
「どうかせねば」
折角せっかくやまのぼってたのに」
「そうだ、無事ぶじかえしては、勿体もったいない」
 おこうはしきりにをもって梅軒ばいけん決心けっしんをけしかける。梅軒ばいけんはだが容易よういはらがきまらないらしい。ひとみおくでぎらぎらとなに思慮しりょいている。
 こわである。
 しばらくして、
藤次とうじはいるか」
「え。まつりさけって、よいからみせておりますが」
「じゃあ、おこしておけ」
「あなたは」
なにせい、おれは勤務つとめのあるからだだ。――御宝蔵ごほうぞう見廻みまわりや用事ようじまして、あとからくとしよう」
「じゃあ、たくほうへ」
「む。おぬしのみせへ」
 あか庭燎にわびのゆらぐやみへ、二人ふたりかげはまた、わかわかれにえてった。

 山門さんもんると、おこうあしは、小走こばしりになった。
 門前町もんぜんまち三十戸さんじゅっこある。
 おおくは、土産物屋みやげものやと、やす茶屋ぢゃやであった。
 たまたま、煮物にものさけのにおいのなか人声じんせいにぎやかな小屋こやもある。
 彼女かのじょのはいったいえも、そうしたふうの一軒いっけんで、土間どまには腰掛こしかけならべてあり、軒先のきさきには「御休処おんやすみどころ」としてある。
「うちのひとは」
 かえるとすぐ、彼女かのじょは、床几しょうぎ居眠いねむっていた雇人やといにん小女こおんないた。
てるのかい」
 しかられたとおもって、小女こおんなはあわてて、何度なんどもかぶりをった。
「おまえじゃないよ。うちのひとのことをくのだよ」
「あ。お旦那だんななら、ねむってござらっしゃります」
「それ、ごらんな」
 舌打したうちして、
まつりだっていうのに、こんなうすぼんやりしているのは、うちだけだよ、ほんとに」
 おこうは、そういいながら、くら土間どままわした。
 表口おもてぐちで、やとおとこ老婆としよりが、明日あした赤飯こわめし泥竈へっついにかけてしていた。そこからあかまきがゆらいでる。
「もし、おまえさん」
 おこうは、ひとつの床几しょうぎうえに、長々ながながこんでいる姿すがたかけて、そばった。
「ちょっと、ましておくれよ。――もしおまえさんたら」
 かるかたって、すぶると、
「なに」
 むくりと、ていたおとこは、がった。
 おこうは、
「おや……?」
 と、退しりぞいて、おとこかおまもった。
 それは、彼女かのじょ亭主ていしゅ藤次とうじではなかった。まるっこいかおに、おおきなをもった在郷ざいごう若者わかものである。ふいに、見知みしらぬおんなにゆりおこされたので、きょろッと、そのまるでおこうつめた。
「ホ、ホ、ホ」
 彼女かのじょは、自分じぶんのそそッかしさをわらいにまぎらして、
「お客様きゃくさまでしたか。どうも、あいすみませんでした」
 在郷ざいごう若者わかものは、床几しょうぎしたにすべりちているこもひろって、それをかおにかぶると、だまってまた、ねむってしまった。
 木枕こまくらまえに、なにべかけたぼんと、茶碗ちゃわんがおいてある。こもすそからにゅッとている二本にほんあしには、つちだらけな草鞋わらじいつけてあり、かべせて、この若者わかもの持物もちものらしい旅包たびづつみと、かさと、一本いっぽん丸杖まるつえとが、いてあった。
「おきゃくかえ、あのわかしゅうは」
 小女こおんなくと、
「はい。一眠ひとねむりしたら、おくいんのぼりにくだから、ねむらせてくれといいなさるで、木枕こまくらしてあげましただ」
 と、いう。
「そうならそうとなぜいわないのさ。うちのひと間違まちがえてしまったじゃないか。一体いったい、うちのひとはどこに――」
 といいかけると、かたわらのやぶ障子しょうじうちから、片脚かたあし土間どまにおろして、からだ莚床むしろゆかよこたえていた藤次とうじが、
「べらぼうな。ここにいるおれがわからねえのか。――てめえこそ、みせけて、どこをうろついているのだ」
 と、寝起ねおきのわるこえをして、がった。
 勿論もちろんこのおとこは、かつての祇園ぎおん藤次とうじかれかわてたものだが、まだ悪縁あくえんれずにっているおこうのほうも、さすがに、もと色香いろかはなかった。おとこのようなおんなになっていた。
 藤次とうじなまものなので、自然しぜんおんながそうならなければ、生活せいかつしてゆかれないせいでもあろう。和田峠わだとうげ薬草採くすりとりの小屋こやけて、中山道なかせんどう往来おうらいするたびものあやめては、よくたしていたころはまだよかったが――
 その山小屋やまごやはらわれてしまったので、手足てあしにしていた手下てしたってしまい、いまでは、藤次とうじ冬場ふゆばだけりょうかせぎ、彼女かのじょは、お犬茶屋いぬぢゃや内儀かみさんだった。