368・宮本武蔵「二天の巻」「忠明発狂始末(5)(6)」


朗読「368二天の巻24.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 33秒

 双方そうほうとも、固着こちゃくしたまま、姿勢しせいうえにはいつまでも、なんの変化へんかえなかった。
 だが、小次郎こじろう忠明ただあきも、肉体にくたいうちには、おそろしい生命力せいめいりょく消耗しょうもうしていた。
 その生理的変化せいりてきへんかは、びんをつたうあせとなり、鼻腔びこうあえぎとなり、青白せいはく顔色かおいろとなって、いまにも、るかとえながら、けんけんは、依然いぜん最初さいしょ姿勢しせい持続じぞくしていた。
「――まいったっ」
 忠明ただあきさけんだのである。――さけびながら、とうを、そのまま、ぱっとうしろへ退いたのであった。
 けれど、その言葉ことばが、てっ、といったようにひびいたのかもれなかった。小次郎こじろうからだは、とたんに、動物的どうぶつてき跳躍ちょうやくくうにえがいていた。それとともに、ばした物干竿ものほしざおは、忠明ただあき姿すがた真二まっぷたつにげたかのような旋風つむじかぜおこし、忠明ただあきまげは、それをわすにきゅうなため、逆立さかだって、ぷつりと、元結もといれた。
 ――しかし、忠明ただあきが、かたおとしながらげた行平ゆきひら切先きっさきもまた、小次郎こじろうたもとを、五寸ごすんほどばしていた。
理不尽りふじん!」
 いきどおりは、門人もんじんたちのかおに、えあがった。
 忠明ただあきいま
まいった)
 と、いったことばで、双方そうほう立合たちあいが、喧嘩けんかではなく、試合しあいであったことは明白めいはくである。
 だのに、小次郎こじろうは、むしろそのすきたりとなして、無下むげってった。
 かれが、そういう不徳ふとくあえてして以上いじょう、もう、こまねいている必要ひつようはない。――咄嗟とっさに、その気持きもち一致いっちして、行動こうどううつってったのである。
「うっ――」
「うごくな」
 小次郎こじろうむかって、すべてが、どっと雪崩なだれた。小次郎こじろうは、ぶように、位置いちをかえていた。おおきななつめ平庭ひらにわ一方いっぽうにあった。そのみきかげから姿すがたをなかばせて、おそろしくよくうごをぎらぎらさせながら呶鳴どなった。
勝負しょうぶたか」
 ――おれったぞという名乗なのりをあげたつもりであろう。忠明ただあき彼方かなたで、
えた」
 と、こたえた。そして門人達もんじんたちむかい、
「ひかえろ」
 と、しかった。
 かたなさやにおさめて、書斎しょさいふちへもどると、かれこしかけて、
「おみつ
 と、めいび、
げてくれい」
 と、ぱらぱらになったかみげていた。
 おみつかみげさせているうちに、はじめてほんとのあえぎがたらしく、忠明ただあきむねは、あせひかっていた。
「ざっとでよい」
 そして、おみつを、肩越かたごしにて、
「あちらにいるおわかきゃくへ、おすすぎをげて、もと座敷ざしきへ、おもうしておけ」
「はい」
 忠明ただあきはしかし――その客間きゃくまへはとおらなかった。草履ぞうり穿いて、門人もんじんたちのおもてまわし、
道場どうじょうほうあつまれ」
 と、めいじて、自身じしんさき彼方かなたあるいてった。

ろっ

 どうしたわけなのか?
 門人もんじんらには、わからないのである。第一だいいち、かりそめにも、治郎右衛門忠明じろうえもんただあきが、小次郎こじろうたいしてまいったとさけんだのが、心外しんがいであった。
(あの一声いっせいは、きょうまでの無敵小野派一刀流むてきおのはいっとうりゅうほこりを、一敗地いっぱいちにおけがしなすってしまったものだ)
 と、青白あおじろおもてのうちに、いかりになみだをのんで、忠明ただあきかおを、めつけている門人もんじんもあった。
 道場どうじょうへあつまれ――とばれてそこにすわったものは、約二十名やくにじゅうめいばかり、三列さんれつになって、いたに、ぎしっとかたくなって、すわっていた。
 治郎右衛門じろうえもんは、上座かみざの――一段高いちだんたかせきに、じゃくすわって、それらのかおをしばらくながめていた。
「さてさて、わしも年齢としったものである。つかのに、時代じだいうつってゆくな」
 これが、やがて忠明ただあきくちからながれた――最初さいしょのことばだった。
過去かこ自分じぶんみちかえりみてみると、弥五郎一刀斎様やごろういっとうさいさまつかえて、善鬼ぜんきたおしたころが、自分じぶんけん最高さいこうえをしめしたときであり、この江戸表えどおもてに、門戸もんこをもって、将軍家しょうぐんけ御師範ごしはんはしれっし、世間せけんから無敵一刀流むてきいっとうりゅうとか、皀莢坂さいかちざか小野衆おのしゅうとか、いわれはじめたころはすでに、わし自身じしんけんとしては、くだりへているころだった」
「…………」
 門人達もんじんたちは、が、なにをいおうとしているのか、まだそのめなかった。
 で、しゅくとはしているが、そのおもてには、不平ふへいだの、疑惑ぎわくだの、おもおもいな感情かんじょうがまだうごいていた。
おもうに」
 忠明ただあきは、そこからにわかこえって、いままでのまなこを、おおきくひらいた。
「――これはだれにもある人間にんげん通有性つうゆうせいだ。安息あんそくとものうてくる初老しょろうきざしだ。このあいだに、時代じだいうつってゆく。後輩こうはい先輩せんぱいりこえてゆく。わかい、つぎものあたらしいみちひらいてゆく。――それでいいのだ。なか転変てんぺんあいだすすんでいるから。――だが、剣法けんぽうでは、それをゆるさぬ。いのないみちけんみちでなければならぬ」
「…………」
「たとえば、伊藤弥五郎先生いとうやごろうせんせいいまはもう、きておわすやいなや、その御消息ごしょうそくだにないが、小金こがねはらでわしが善鬼ぜんきったおり即座そくざに、一刀流いっとうりゅう印授いんじゅをこのにゆるしたまい、入道にゅうどうして、そのままやまへはいられてしまわれた。そしてなお、けんぜんしょう、のみちさぐって、大悟だいごみねに、のぼろうとあそばすお口吻くちぶりえた。――それにひきかえて、この治郎右衛門忠明じろうえもんただあきは、はやくも、いのきざしをあらわし、きょうのようなおくれをとったこと、師弥五郎先生しやごろうせんせいたいしても、なんのかんばせがあろうか。……きょうまでのわしが生活くらしなどは、おもわざるもはなはだしいものであった」
 たまらなくなったように、
「せ、先生せんせいっ」
 根来ねごろ八九郎はちくろうが、ゆかからいった。
やぶれたとっしゃいますが、あのような若年者じゃくねんものに、やぶれる先生せんせいではないことを、われわれは日頃ひごろからしんじております。今日きょうのことは、なにか、ご事情じじょうでもあったのではござりませぬか」
事情じじょう? ……」
 一笑いっしょうもとに、かぶりをって、
「かりそめにも、真剣しんけん真剣しんけんとの立合たちあい、そのかんに、なんで、微塵みじん情実じょうじつなどゆるそう。――若年者じゃくねんものといわれたが、その若年者じゃくねんものなるがために、わしはかれけたとはおもわない、うつっている時代じだいけたとおもうのだ」
「と、とはもうせ」
「まあて」
 しずかに、根来ねごろのことばをおさえ、また、大勢おおぜいおなかおいろを見直みなおして、
手早てばやはなそう。あちらには、佐々木殿ささきどのもおたせしてある。――そこで各々おのおのへ、あらためて、もうわたと、わしの希望のぞみいてもらいたい」