38・宮本武蔵「水の巻」「吉岡染(3)(4)」

朗読「38水の巻2.mp3」14 MB、長さ: 約10分18秒

かおをかくして、もんをかくさずだ。まいった! まいった!」
 藤次とうじ清十郎せいじゅうろうへ、
若先生わかせんせい、こうなっては、ぜひないこと、がっておやりなさるほか、はありますまい」
「どうなとせい。それより、はやくわしのこのたもとをはなさせてくれ」
 当惑顔とうわくがおをすると、
おんながってやるとっしゃるから、はなせ」
「ほんとに」
 おんなは、清十郎せいじゅうろうたもとをはなした。
 どやどやと、連中れんちゅうは、そこの暖簾のれんをわけてはいった。
 ここも、きゅうごしらえの安普請やすぶしんである。ちつくにえない部屋へやに、俗悪ぞくあくだのはなだのを、無智むちかざりたててある。
 だが、清十郎せいじゅうろう藤次とうじをのぞいては、そういう神経しんけいなどはまるでてない人々ひとびとだった。
さけて、さけを」
 と、威張いばる。
 さけると、
さかなて」
 と、いうのがいる。
 さかながくると、植田良平うえだりょうへいという藤次とうじかたをならべるこのみちごうものが、
「はやく、おんなて」
 と、怒鳴どなったので、
「あははは」
「わははは」
おんなてはよかった。植田うえだろう御意召ぎょいめさるぞ、はようおんなて!」
 と、みな真似まねた。
「それがしを、ろうとはしからぬ」
 良平老りょうへいろうは、わかいものを、酒杯さかずきごしに睥睨へいげいして、
「なるほど、それがしは、吉岡門よしおかもんでは、古参こさん相違そういないが、まだ鬢辺びんぺんいとは、このとおりくろい」
斎藤さいとう実盛さねもりにならって、めてござるらしい」
何奴なにやつじゃ、場所ばしょがらをわきまえんで。――これへよ、罰杯ばっぱいをくれる」
「ゆくのは面倒めんどうげてくれい」
まいるぞ」
 さかずきぶ。
かえすぞ」
 またぶ。
だれぞ、おどれ」
 と、藤次とうじがいう。
 清十郎せいじゅうろうもややいて、
植田うえだ、おわかいところで」
心得こころえてそうろう、わかいといわれては、わずにおれん」
 と、えんのすみへったとおもうと、仲居なかいあかまえだれを、あたまのうしろにむすび、そのひもへ、うめはなをさし、ほうきをかついで、
「やよ、各々おのおのおどりじゃ。――藤次とうじどの、うたたのむ」
「よしよし、みなうたえ」
 はしさらをたたく、ばしで火桶ひおけのふちをたたく。

柴垣しばがき柴垣しばがき
しばがき、えて
ゆきのふりそで
ちらと
振袖ふりそでゆき振袖ふりそで
チラと

 わっと、拍手はくしゅにくずれてむ。すぐおんなたちが、鳴物打なりものうって、唱歌しょうかする。

きのうひと
今日きょうはなし
きょうひと
あすはなし
あすともらぬわれなれど
きょうはひとこそこいしけれ

 片隅かたすみでは、おおきなうつわで、
めんのか、こればしのさけが」
「あやまる」
武士ぶしたるものが」
なにを。じゃあ、おれんだら、貴様きさまむか」
見事みごとによこせ」
 うしのようにむことをもって酒飲さけのみの本領ほんりょう心得こころえている徒輩てあいが、口端くちはしから、しずくをこぼしてまで我慢がまんして、みくらをしている。
 やがて、嘔吐へどをつくやつがいる。をすえて、仲間なかまをジロジロめまわしているやつがある、またふだんの慢心まんしんをそそいで、あるものは、
京八流きょうはちりゅうのわが吉岡先生よしおかせんせいをのぞいて、天下てんかに、けんのわかる人間にんげん一匹いっぴきでもいるか。いたらば、拙者せっしゃさきに、おにかかりたいもんだ。……ゲ、げーい」

 すると、清十郎せいじゅうろうはさんで、そのとなりに、おなじく、これもって、シャックリばかりしていたおとこが、わらいだした。
若先生わかせんせいがいるとおもって、えすいたおべッかをいうやつだ。天下てんか剣道けんどうは、京八流きょうはちりゅうだけではないぞ。また、吉岡一門よしおかいちもんばかりが、随一ずいいつでもあるまい。たとえば、この京都きょうとだけにも、黒谷くろたにには、越前浄教寺村えちぜんじょうきょうじむらから富田とみた勢源せいげん一門いちもんがあるし、北野きたのには小笠原源信斎おがさわらげんしんさい白河しらかわには、弟子でしはもたぬが、伊藤弥五郎一刀斎いとうやごろういっとうさいんでおる」
「それがどうした」
「だから、一人ひとりよがりは、通用つうようせぬというのだ」
「こいつ! ……」
 と、高慢こうまんはななぶられたおとこひざをのりだして、
「やい、まえろ」
「こうか」
貴様きさまは、吉岡先生よしおかせんせい門下もんかでありながら、吉岡拳法流よしおかけんぽうりゅうをくさすのか」
「くさしはせぬが、いまは、室町御師範むろまちごしはんとか、兵法所出仕へいほうじょしゅっしといえば、天下一てんかいちきこえ、ひともそうかんがえていた先師せんし時代じだいとちがって、このみちこころざやからくものごとくおこり、きょうはおろか、江戸えど常陸ひたち越前えちぜん近畿きんき中国ちゅうごく九州きゅうしゅうてにまで、名人上手めいじんじょうずすくなくない時勢じせいとなっている。それを、吉岡拳法先生よしおかけんぽうせんせい有名ゆうめいだったから、いま若先生わかせんせいやその弟子でしも、天下一てんかいちだと己惚うぬぼれていたら間違まちがいだとおれはいったんだ。いけないか」
「いかん、兵法者へいほうしゃのくせに、ほかおそれる、卑屈ひくつやつだ」
「おそれるのではないが、いいになっていてはならんと、おれいましめたいのだ」
いましめる? ……さまに他人ひといましめるちからがどこにあるか」
 どんと、むないたをく。
 あっと一方いっぽうは、さかずきさらのうえにをついて、
「やったな」
「やったとも」
 先輩せんぱい祇園ぎおん植田うえだ二人ふたりは、あわてて、
「こら野暮やぼをするな」
 双方そうほうを、もぎはなして、
「まアいい、まアいい」
「わかったよ、さまの気持きもちはわかっておる」
 と、仲裁ちゅうさいして、またませると、一方いっぽうはなおさかんに怒号どごうするし、一方いっぽうは、植田老うえだろうくびにからみついて、
「おれは、真実しんじつ吉岡一門よしおかいちもんのためをおもうから、直言ちょくげんするんだ。あんな、おべッか野郎やろうばかりいては、先師拳法先生せんしけんぽうせんせいすたるとおもうんだ……ついにすたると……」
 と、おいおいしている。
 おんなたちは、げてしまうし、つづみ酒瓶ちょうしは、とばされている。
 それをおこって、
おんなども! ばかおんな!」
 ののしって、ほかの部屋へやを、あるいているのがあるとおもうと、えんがわに、両手りょうてをついて、あおざめたのが、友人ゆうじんなかをたたいてもらっている。
 清十郎せいじゅうろうは、えなかった。
 その様子ようすに、藤次とうじが、
若先生わかせんせい面白おもしろくないでしょう」
 と、ささやくと、
「これで、彼奴きゃつらは、愉快ゆかいなのであろうか」
「これが、面白おもしろいのでしょうな」
「あきれたさけだ」
「てまえが、おともをいたしますから、若先生わかせんせいには、どこかほかしずかないえへ、おかわりになっては如何いかがで」
 すると清十郎せいじゅうろうは、すくわれたように、藤次とうじさそいにって、
「わしは、昨夜ゆうべいえへ、まいりたいが」
よもぎりょうですか」
「うむ」
「あそこは、ずんと茶屋ちゃやかくがようございますからな。――はじめから、若先生わかせんせいも、よもぎりょうへおいていることはわかっていたのでござるが、なんせい、この有象無象うぞうむぞうがくッついてたのでは滅茶めちゃですから、わざと、この安茶屋やすぢゃやったので」
藤次とうじ、そっと、けてゆこう。あとは植田うえだにまかせて」
かわやつふりをして、あとからまいります」
「では、戸外そとっているぞ」
 清十郎せいじゅうろうは、連中れんちゅういて、器用きようにすがたをした。