363・宮本武蔵「二天の巻」「槐の門(3)(4)(5)」


朗読「363二天の巻19.mp3」15 MB、長さ: 約 16分 16秒

 ――ばんしのんでい。前金まえがねとして黄金三十枚こがねさんじゅうまいみみをそろえてわたしてやろう。
 そうやくしてわかれた。
 又八またはちあたまには、大蔵だいぞうのいったその言葉ことばしか、のこっていない。
 その代償だいしょうとして、
(やるか)
 と大蔵だいぞうからされた条件じょうけんたいしては、その内容ないよう漠然ばくぜんみこんで、
(やる!)
 と、いったことだけしかあとおぼえていないのである。しかし、そうこたえたときあやしくふるえたくちびるには、まだかすかなしびれがのこっているはしているが――
 なんとしても、又八またはちにとっては、かね魅力みりょくであった。しかも途方とほうもないがくである。
 年来ねんらい不運ふうんはそのかねだけであわせがつく。そして生涯しょうがい生活せいかつ保証ほしょうされる。
 いやかれこころには、そうした慾望よくぼうそのものよりも、きょうまで、自分じぶん小馬鹿こばかにした世間せけんの、ありとあらゆるやつらに、
(どうだ)
 と、見返みかえしたかおをしてやりたい――とする、その魅惑みわくのほうがつよかったにちがいない。
 ふねからおかへもどって、長屋ながやいえかえって、ごろんと、仰向あおむけにころんだあとも――あたまなかめているのは、かね魔夢まむであった。
「そうだ、運平うんぺいさんに、たのんでおかなくっちゃあ……」
 おもいついて、隣家となりをのぞいたが、運平親方うんぺいおやかたかけていない。
「じゃあ、ばんにまた」
 と、いえかえってたが、熱病ねつびょうかれたように、落着おちつかなかった。
 それからやっと、かれは、うみうえ質屋しちや大蔵だいぞうめいじられたことをおもして、ぶるぶるとひともいない裏藪うらやぶおもて露地ろじまわした。
「いったい、なんだろ? あのひとは……」
 いまになって、それをかんがえてみるのだった。それとともに、ふねうえ大蔵だいぞうからめいじられたことをおもしてみた。
 井戸掘いどほ人足にんそくは、江戸城えどじょうなかの、西にしまる御新城ごしんじょうとよぶ作事場さくじばへはいる。――と、そんなことまで大蔵だいぞうっていて、
うかがって、新将軍しんしょうぐん秀忠ひでただ鉄砲てっぽう撃止しとめろ)
 と、いうのであった。
 また。
 それに使つか短銃たんじゅうは、こちらの城内じょうないんでおく。
 その場所ばしょは、紅葉山もみじやました西にし丸裏御門まるうらごもんうちにある、樹齢数百年じゅれいすうひゃくねんというおおきなえんじゅしたとし、そこに、鉄砲てっぽう火縄ひなわも、あわせてかくしておくから、おこして、ひそかにねらえ――ともいった。
 もちろん、作事場さくじば監視かんし厳密げんみつにちがいない。奉行ぶぎょう目附めつけなどの警戒けいかいもとよりであろうが、秀忠将軍ひでただしょうぐんわかくて闊達かったつだ。よく侍側じそくしたがえて普請場ふしんばへもあらわれるという。そんなおり道具どうぐなら瞬間しゅんかん目的もくてきはたすことができよう。
 咄嗟とっささわぎにじょうじてすぐはなち、西にしまる外濠そとぼりびこめば、そこにはわれわれの仲間なかますくいのばしているから、屹度きっとたすしてやる――
 ぽかん、と天井てんじょうながら又八またはちは、大蔵だいぞうからささやかれたこえを、あたまなか繰返くりかえしていた。
 はだがそそけってくる。
 あわてて、きて、
「そうだ、とんでもないこった。いまのうちにことわってよう!」
 と、がついたが――また、あのとき大蔵だいぞうから、
(――こうはなしたからには、もしおまえさんが、いやだといえば、どくだが、おれの仲間なかま三日みっかのうちに、きっと寝首ねくびをもらいにゆくぜ)
 と、いわれたのが、そのときすごつきとともに、そこらにえてがした。

 西久保にしくぼつじを、高輪街道たかなわかいどうほうまがって、もう夜半よなかうみが、横丁よこちょうあたりにえているかど
 いつも質屋倉しちやくらかべを、よこあおいで、又八またはち露地ろじ裏木戸うらきどをそっとたたいた。
いているよ」
 なかですぐだれかがいう。
「お……旦那だんなで」
又八またはちさんか。よくてくんなすった。くらこう」
 と、雨戸あまどをはいって、廊下ろうかづたいに、すぐ土蔵どぞうなかみちびかれた。
「さ、すわるがいい」
 あるじ大蔵だいぞうは、蝋燭立ろうそくたてを、長持ながもちうえにおいて、ひじをかけた。
となり運平親方うんぺいおやかたのところへってみたかね」
「へい」
「で――どうしたい?」
承知しょうちしてくれました」
「いつ、おしろれてくれるというのか」
「あさって、新規しんき人足にんそくが、十人じゅうにんばかりまたはいるそうで、そのときに、れてってやろうといってくれました」
「じゃあ、そのほうは、きまったんだな」
町名主まちなぬしと、町内ちょうない五人組ごにんぐみしゅうが、請判うけはんしてくれさえすればいいことになっております」
「そうか。はははは。おれもこのはるから、町名主まちなぬしのすすめで、ってといわれて、その五人組ごにんぐみのひとりになっているんだ。……そのほうは心配しんぱいなしとおるぜ」
「へ。旦那だんなも」
なにおどろいたかおしているんだ」
「べつに、おどろいたわけじゃございませんが」
「はははは、そうか、おれみたいな物騒ぶっそう人間にんげん町名主まちなぬし下役したやくをする、五人組衆ごにんぐみしゅうにはいっているのであきれたというわけか。――かねさえあれば、世間せけんはおれみたいな人間にんげんでも、やれ奇特人きとくにんの、慈悲じひぶかいのと、こっちでいやだといっても、そんな役付やくづきまでちこんでるんだよ。――またさん、おめえも、かねをつかむこったぜ」
「へ、へい」
 又八またはちは、なにかしら、きゅうどうぶるいをしながら、早口はやくちどもらせていった。
「や、やります! だ、だから手付てつけかねをおくんなさい」
「おち」
 手燭しゅしょく一緒いっしょって、大蔵だいぞうくらおくくびれ、たな手文庫てぶんこから三十枚さんじゅうまい黄金こがねわしづかみにってた。
入物いれものっているか」
「ございません」
「これにでもいて、胴巻どうまきへしっかりいてゆくがいい」
 そこらにあった更紗さらさ襤褸ぼろげてやる。
 ――と、又八またはちかぞえもせずんで、
なにか、受取うけとりでも、いてまいりましょうか」
受取うけとり?」
 おもわずわらって、
可愛かわいらしい正直者しょうじきものだのう、おめえは。受取うけとりはいい。間違まちがったら、そこにっているくび抵当かたにもらいにくばかりだ」
「じゃあ、旦那だんな、これでおいとまを……」
て。手付金てつけだけ受取うけとったからいいやで、わすれるなよ、きのううみうえで、いいつけたことを」
おぼえております」
御城内ごじょうない西にし丸裏御門まるうらごもんうち――そこにあるおおきなえんじゅしただぞ」
鉄砲てっぽうのことで?」
「そうだ。ちかいうちに、けにやるからな」
「え。だれけにゆくんで」
 又八またはちは、せないかおして、をみはった。

 口入くちい親方おやかた運平うんぺいから、町名主まちなぬし五人組ごにんぐみ請判うけはんきで、ひとつで御城内ごじょうないにはいるのさえなみたいていなきびしさではないのに、どうして外部がいぶから鉄砲てっぽう弾薬たまぐすりなどをちこむことができるのか。
 そして、約束やくそくどおり半月後はんつきごに、西にし丸裏御門まるうらごもんうちえんじゅしたへ、あつらえたように、けておくなどということは、神業かみわざでもなければ、なしうるはずのものではない。
 又八またはちが、そううたがって、まじまじと大蔵だいぞうおもてつめていると、
「ま、そのほうのことは、おめえがまなくてもいいから、おめえは、自分じぶん役割やくわりだけをしっかりやってくれ」
 と、大蔵だいぞうふかくいわず、
「まだ、ひきけたものの、おめえも恟々おどおどしているだろうが、御城内ごじょうないへはいってから、半月はんつきはたらいているまには、自然しぜんはらもすわってくる」
自分じぶんも、それをたよりにおもっていますが」
「そのはらが、ぐっと出来できてから、うまく機会おりをつかむのだな」
「へい」
「それと、かりはあるめえが、今渡いまわたしたかねだ。仕遂しとげてしまうあとまでは、どこか人目ひとめにかからぬところかくしておいて、をつけちゃあならねえぞ。……とかく未然みぜんことやぶれるのはいつもかねからだからの」
「それもかんがえておりますから、ご心配しんぱいにはおよびません。……ですが旦那だんな首尾しゅびよく仕遂しとげたあとで、後金あとがねはやれねえなんて苦情くじょうやしますまいね」
「ふ、ふ。……またさん、口幅くちはばったいようだが、この奈良井屋ならいやくらには、かねなんざ、千両箱せんりょうばこであのとおかさねてある。たのしみにながめてゆくがいい」
 手燭しゅしょくげて、大蔵だいぞうほこりだらけなくらすみ一巡いちじゅんした。
 膳箱ぜんばこだの、よろいびつだの、なんはこれないものが雑然ざつぜんとみえた。又八またはちは、よくもしないで、
「おうたがいしたわけじゃございませんが」
 と、わけして、なお、半刻はんこくばかりそこに密談みつだんしていたが、やがて、やや元気げんきになって、もと裏口うらぐちからそっとかえってった。
 かれが、くとすぐ、
「おい、朱実あけみ
 大蔵だいぞうは、あかりのついている障子しょうじうちへ、かおれて、
「あのあしですぐ、かねけにったろうよ。ためしにけてってみな」
 湯殿口ゆどのくちから、だれてゆく跫音あしおとがした。ると今朝けさ又八またはちいえから姿すがたしたばかりの朱実あけみではないか。
 近所きんじょもの出会であって、
品川しながわ親類しんるいへゆく)
 などといったのは、勿論もちろん彼女かのじょのでたらめであった。
 しちぐさをかかえて、何度なんどか、此処ここかよううちに、あるじ大蔵だいぞうは、いつのまにか、朱実あけみとりこにして、朱実あけみいま境遇きょうぐうこころもちまで、いてしまった。
 もっとも、かれ彼女かのじょとは、近頃初ちかごろはじめてったわけではない。彼女かのじょが、中山道なかせんどう江戸下えどくだりの女郎衆じょろうしゅうともに、八王子はちおうじ宿やどまでとき、そこでとまあわせた旅籠はたごで、彼女かのじょは、城太郎じょうたろうれだという大蔵だいぞうかけていたし、大蔵だいぞう二階にかいから、陽気ようき一座いちざなかに、朱実あけみ姿すがたて、うっすおぼえに記憶きおくはしていたのである。
女手おんなでがなくて、こまっているところだが)
 と、大蔵だいぞうなぞをかけると、朱実あけみいちもなくここへげててしまった。
 大蔵だいぞうにとれば、そのから、朱実あけみやくち、又八またはちやくつのであった。又八またはち始末しまつはするとまえからいっていたが、おもあわすと、それが今日きょうのことらしかった。
 ……なにらない又八またはちかげは、朱実あけみさきあるいてった。いちどわがもどってくわし、もすがら裏藪うらやぶのあたりをあるいていたが、やがて、西久保にしくぼやまのぼって、そのかねけていた。
 朱実あけみが、それを見届みとどけてて、大蔵だいぞうげると、大蔵だいぞうはすぐった。――そしてかれかえってたのはがただったが、掘出ほりだしてかねを、土蔵どぞうなか調しらべてみると、三十枚渡さんじゅうまいわたした黄金こがねが、どうかぞえても二枚不足にまいふそくしているので、損失そんしつでもしたように、しきりと小首こくびをかしげていた。