362・宮本武蔵「二天の巻」「槐の門(1)(2)」


朗読「362二天の巻18.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 42秒

えんじゅもん

 ――今朝けさきてみると、姿すがたえないのである。
朱実あけみ
 又八またはちは、台所だいどころからくびして、んでみた。
「……いねえぞ?」
 小首こくびかしげる。
 まえから、予感よかんがないでもなかったので、押入おしいれけてみると、ここへてからつくった、彼女かのじょあたらしい衣裳いしょうもない。
 又八またはちは、かおいろをえ、すぐ土間どま草履ぞうり穿いて、そとた。
 隣家りんかの、井戸掘いどほ親方おやかた運平うんぺいのうちものぞいてみたが、えなかった。
 又八またはちは、いよいよあわて気味ぎみに、
「うちの朱実あけみりませんかね……」
 長屋ながやから、往来おうらいかどまで、あるいてった。
たよ、今朝けさ
 と、いうものがある。
「ア。炭屋すみやのおかみさんですか、どこでかけましたか」
「いつもとちがって、美麗きれいにおめかししているので、何処どこへといったら、品川しながわ親類しんるいまでといっていたが」
「え。品川しながわへ」
「あっちに、身寄みよりがあるのかえ」
 この界隈かいわいでは、かれ亭主ていしゅとおもい、かれ亭主顔ていしゅかおしているので、
「へい。……じゃあ、品川しながわったのかもしれません」
 いかけて――というほどつよ執着しゅうちゃくではない。なんとなく、ほろにがいのだ。舌打したうちをしたいような忌々いまいましさがやたらにきまとう。
「……勝手かってにしやがれ……」
 つばをして、又八またはちはつぶやいた。
 そのくせ、ぶらんと放心ほうしんしたかおつきで、はまのほうへあるいてった。はまは、芝浦街道しばうらかいどうよこぎると、ついそこだった。
 漁師りょうしいえがまばらにある。あさ朱実あけみめしいているまに、はまて、あみからこぼれるろっぴきよしとおし、ひっさげてかえると、ちょうどおぜんができていたものである。
 そのさかなが、すなうえに、今朝けさもこぼれていた。まだきているのもある。だが、又八またはちひろなかった。
「どうなすったえ、またさん」
 たれて、おやだれか、と振向ふりむいてみると、五十四ごじゅうしふとじし町人ちょうにんが、ゆたかな福相ふくそうに、眼皺めじわをたたえてわらっていた。
「あ。おもて質屋しちや旦那だんなでしたか」
あさはいいね、清々すがすがしくて」
「ええ」
毎日まいにちあさめしまえには、こうして海辺うみべをお徒歩ひろいかね。養生ようじょうにはいちばんいいからな」
「どういたしまして、旦那だんなのような御身分ごみぶんなら、あるくのも養生ようじょうかもしれませんが……」
かおいろがよくないな」
「へえ」
「どうかしたのかい」
「…………」
 又八またはちは、一握ひとにぎりのすなひろって、かぜなかいていた。
 急場きゅうば算段さんだんをしにくたびに、又八またはち朱実あけみも、いつもこの質屋しちや旦那だんなとは、みせかおきあわせていた。
「そうだ。いつかおりがあったらとおもおもい、いいしおもなくぎていたが、またさん、おまえ今日きょうは、あきないにくのかい」
「なんですか。ったってかなくたって、西瓜すいかなしっていたんじゃ、どうせらちはあきやしません」
きすりにかないか」
旦那だんな――」
 と、又八またはちは、わるいことでもびるように、あたまいて、
「あっしゃあ、つりはきらいですが」
なにさ、きらいなら、らなくてもいい。――そこにあるのはうち持舟もちぶねだが、ただおきまでてみるだけでも、れるぜ。さおぐらいはけるだろう」
「へい」
「まあおいでよ。おまえに、小千両こせんりょうもうけさせてやろうという相談そうだんだ――。いやかい」

 芝浦しばうらはまから五町ごちょうおきたが、そこらもまだ、さおつほどあさかった。
旦那だんな、あっしに、かねもうけさせてやるってえのは、一体いったいどんなおはなしですか」
「まあ、ゆるりと……」
 と、質屋しちや旦那だんなというおとこは、おおきなからだを、ずしりと小舟こぶねどうすわらせて、
またさん、そこの釣竿つりざおふなべりからしておくといいな」
「どうしておくんで?」
つりをしているとえるようにさ。――うみうえだって、あのとお人目ひとめがあらあな。ようもないふねで、二人ふたりくびあわせていたら、うたがわれるだろうじゃないか」
「こうですか」
「む、む、それでいい……」
 と、陶器作すえものづくりの煙管きせるに、上等じょうとうなたばこをつめて、くゆらしながら、
「わしのはらをはなすまえに、又八またはちさんにくが、おまえのんでいる長屋ながやしゅうなどは、この奈良井屋ならいやをどううわさしているね?」
「おたくのことですか」
「そう」
質屋しちやといえば、因業いんごうときまっているが、奈良井屋ならいやさんは、よくしてくれる。旦那だんな大蔵様だいぞうさまは、苦労人くろうにんでいらっしゃると……」
「いや、そんな質屋稼業しちやかぎょうのことでなく、この奈良井屋ならいや大蔵だいぞうを」
「よいおひとだ、お慈悲じひぶかい旦那だんなだと、まったく、お世辞せじではなく皆申みなもうしておりますが」
「わしが、信心家しんじんかだということはだれもいわないか」
「さ、それだから、貧乏人びんぼうにんかばってくださるのだろうと、そのことは、ご奇特きとくなことだと、いわないひとはございません」
奉行所ぶぎょうしょ町方まちかたなどが、なにかわしについて、あるいたようなこともないかね」
「そんなことは……どういたしまして、あるわけがない」
「はははは、つまらないことをくとおもうだろうな。だが、じつをいえば、この大蔵だいぞうは、質業しちぎょうじゃない」
「へ……?」
又八またはち
「へえ」
かね小千両こせんりょうまとまった大金たいきんとなると、おまえの生涯しょうがいにも、二度にどと、そんなうんにぶつかるかどうかしれないぜ」
「……多分たぶん、それやあ、そうでございましょうね」
「つかまないか、ひとつ」
なにをで?」
「その大金たいきんつるを――だ」
「ど、どうするんです」
「おれに約束やくそくすればよい」
「へ……へい」
「するか」
「します」
途中とちゅうでことばをたがえるとくびがないぞ。かねしかろうが、よくかんがえて返辞へんじをしたがよい」
なにを――いったい――やるんですか?」
井戸掘いどほりだ。仕事しごとは、造作ぞうさもないこった」
「じゃあ、江戸城えどじょうなかの」
 大蔵だいぞううみまわした。
 材木ざいもく伊豆石いずいしや、城普請しろぶしん用材ようざいをつんだふねが、誇張こちょうしていえば、舳艫じくろをつらねてといえるほど、江戸湾えどわんに、それぞれの藩旗はんきならべていた。
 藤堂とうどう有馬ありま加藤かとう伊達だて――なかには細川家ほそかわけ船旗せんきえる。
「……かんがいいなあ、又八またはち
 大蔵だいぞうは、煙草たばこをつめなおして、
「そのとおり――ちょうどおめえの隣家となりには、井戸掘いどほ親方おやかた運平うんぺいんでいるし、その運平うんぺいから、いつも井戸掘いどほ人足にんそくになれとすすめられてもいるだろう。わたりにふねというものじゃねえか」
「それだけでげすか。……井戸掘いどほりにきさえすれば、なにかあっしに、大金おおがねさずかることがあるんでしょうか」
「ま。……あわてるな、相談そうだんというなあ、それからだよ」