361・宮本武蔵「二天の巻」「四賢一燈(5)(6)(7)」


朗読「361二天の巻17.mp3」15 MB、長さ: 約 16分 06秒

「むむ、御明察ごめいさつ
 と、安房守あわのかみ感嘆かんたんして、うなずいてせると、沢庵たくあんも、
「そのとおり、但馬守たじまのかみどのに相違そういおざらぬ。あいや、物陰ものかげのおひと、もうれておる。これへござあってはどうか」
 室外しつがいむかっていうと、そこでわらごえがひびいた。やがてはいって柳生やぎゅう宗矩むねのり武蔵むさしとは、いうまでもなく、初対面しょたいめんであった。
 そのまえに、武蔵むさしはすでに、末席まっせき退いていた。但馬守たじまのかみのためには、とこせきけてあったが、かれはそこへすわらずに、武蔵むさしまえて、対等たいとう挨拶あいさつをした。
が、又右衛門宗矩またえもんむねのりでござる、お見知みしりおきください」
 武蔵むさしもまた、
はじめて御意ぎょいます。作州さくしゅう牢人ろうにん宮本武蔵みやもとむさしもうもの何分なにぶん、このあと御指導ごしどうを」
先頃さきごろ家臣木村助九郎かしんきむらすけくろうから、お言伝ことづてもうけたまわったが、おりわるく、国許くにもとちち大患たいかんでの」
石舟斎せきしゅうさいさまには、その御容態ごようだい、いかがにございまするか」
年齢とし年齢としでござれば、いつとも……」
 と、語尾ごびして、
「いや、あなたのことは、そのちち手紙てがみにも、また沢庵たくあんどのからも、よくいておりました。――わけて、唯今ただいまのご要意よういにはかんる。不作法ぶさほうにはたれども、かねがねこの御所望ごしょもう試合しあいも、これではたしたともうすもの。おさわられな」
 温厚おんこうかぜが、武蔵むさしまずしい姿すがたやわらかにつつむのであった。うわさにたがわず、但馬守たじまのかみ聡明そうめい達人たつじんであると、武蔵むさしもすぐかんじた。
「おことば、いたりまする」
 武蔵むさし自然しぜんかれ挨拶以上あいさついじょうに、ひくくして、そういわざるをない。
 但馬守たじまのかみは、たとえ一万石いちまんごくでも、諸侯しょこうれつひとである。その家格かかくからいっても、とお天慶てんぎょう年代ねんだいから柳生やぎゅうしょう豪族ごうぞくとしてられ、しかも将軍家しょうぐんけではあり、一介いっかい野人やじんにすぎない武蔵むさしとは、比較ひかくにならない権門けんもんである。
 同席どうせきして、こうかたりあうことすらが、すでに当時とうじひと観念かんねんでは破格はかくであった。だが、ここには旗本学者はたもとがくしゃ安房守あわのかみもいるし、また、野僧やそう沢庵たくあんも、きわめて、そういうへだてにはらずにいるので、武蔵むさしすくわれた心地ここちすわっていた。
 やがて、さかずきつ。
 銚子ちょうしわす。
 談笑だんしょうがわく。
 そこには、階級かいきゅうもない、年齢としのへだてもない。
 武蔵むさしは、おもうに、これは自分じぶんへの待遇たいぐうではなく、「みち」のとくであり、「みち」のまじわりなるがために、ゆるされているのである。
「そうだ」
 沢庵たくあんは、なにおもしたか、さかずきしたにおきながら、武蔵むさしへ、
「おつうはどうしておるの? ……近頃ちかごろ
 と、ふいにたずねだした。
 その唐突とうとついに、武蔵むさしは、ちょっとかおあからめ、
「どうしておりますやら、そのあとはとんと……」
「とんと、らんのか」
「はい」
「それは不憫ふびん。あれも、いつまでらぬままにはしておけまい。其許そこもととしても」
 宗矩むねのりがふと、
「おつうとは、柳生谷やぎゅうだにちちもとにもいたことのあるあの女子おなごのことか」
 と、いう。
「そうじゃ」
 沢庵たくあんかわってこたえると――それならばいまおい兵庫ひょうごともに、国許くにもとって、石舟斎せきしゅうさい看護みとりをしてくれているはず――と宗矩むねのりはなし、
武蔵むさしどのとは、そんな以前いぜんからの、おいか」
 と、をみはる。
 沢庵たくあんは、わらった。
「おいどころではおざらぬよ。はははは」

 兵学家へいがくかはいるが、兵学へいがくはなしはしない。禅僧ぜんそうはいるが、ぜんもいわない。けん但馬守たじまのかみけん武蔵むさしもいながら先刻さっきから、剣道けんどうのことなどは、おくびにも話題わだいにはのぼらないのである。
武蔵むさしどのには、ちと面映おもはゆかろうが」
 と、沢庵たくあんが、かろくたわむれながらことわって、一頻ひとしきいまはなしたねにしていたのは、おつうのことで、彼女かのじょちやら、武蔵むさしとのあいだがらをけて、
「この男女ふたりは、いずれどうにかせねばならぬが、野僧やそうやくにはかぬ。ひとつ御両所ごりょうしょのお力添ちからぞえをりるのじゃな」
 と、それを基礎きそに、あん武蔵むさし落着おちつきを、但馬守たじまのかみ安房守あわのかみはかるような、沢庵たくあんくちうらであった。
 ほかの雑談ざつだんのうちにも、
「もう、武蔵むさしどのも御年輩ごねんぱい一家いっかかまえられてもよかろう」
 と、但馬守たじまのかみもいい、安房守あわのかみともに、
御修行ごしゅぎょうも、これまでめばもう十分じゅうぶん――」
 と、くちあわせて、それとなく武蔵むさしに、なが江戸えどとどまることを最前さいぜんからすすめているのであった。
 但馬守たじまのかみかんがえでは、いますぐではなくても、おつう柳生谷やぎゅうだにからもどし、武蔵むさしめあわせて、江戸えど一家いっかたせたら、柳生やぎゅう小野おの二家にけくわえて、三派さんぱ剣宗けんそう鼎立ていりつし、ざましいこのみち隆盛期りゅうせいきを、この新都府しんとふおこすであろうとおもうのであった。
 沢庵たくあんもちも、安房守あわのかみ好意こういも、ほぼそうしたかんがえにちかかった。
 ことに、安房守あわのかみとしては、子息しそく新蔵しんぞうけた恩義おんぎむくいるためにも、
(ぜひ、武蔵むさしどのを将軍家御師範しょうぐんごおしはんれつ御推挙ごすいきょしたい)
 と、いうかんがえをいだいていて、それは新蔵しんぞう使つかいにやって、武蔵むさしをここへむかえるまえに、はなっていたことなのである。
一応いちおうかれ人間にんげんて)
 というので、はなしまっていなかったが、武蔵むさしためした但馬守たじまのかみには、もうそれもわかっているはずだし、素姓すじょう性格せいかく修行しゅぎょう履歴りれきなどは、沢庵たくあん保証ほしょうするところであるから、これにも、だれ異議いぎはない。
 ただ、将軍家しょうぐんけ師範しはん推挙すいきょする場合ばあいは、当然とうぜん旗本はたもとれっしなければならない。これには、三河以来みかわいらい譜代者ふだいしゃがたくさんいて、徳川家とくがわけが、今日こんにちしてから新規しんきかかえるものたいしては、とかく白眼視はくがんしするかたむきもあり、近頃ちかごろ、うるさい問題もんだいおこっているので――なんといえばただそこに難関なんかんはある。
 だが、これも沢庵たくあん口添くちぞえしたり、両人りょうにん推挙すいきょがあれば、とおらないこともなかろう。
 もうひとつの困難こんなん想像そうぞうされるのは家柄いえがらのことである。武蔵むさし勿論もちろん系図書けいずしょなどはっておるまい。
 遠祖えんそ赤松一族あかまついちぞくで、平田ひらた将監しょうげん末裔まつえいとはあっても、確証かくしょうはなし、徳川家とくがわけとの縁故えんこもない。――あるのはむしろ反対はんたいに、無名むめい一戦士いちせんしとしてではあったが、せきはらおり槍一筋やりひとすじでもって、徳川とくがわてきったという不利ふり経歴けいれきぐらいなものである。
 だが、せき原以後はらいご、たとえ敵方てきがたであった牢人ろうにんでも、ずいぶん召抱めしかかえられているれいはある。また、家格かかくのことも、小野治郎右衛門おのじろうえもんのごときは、伊勢松坂いせまつさかにかくれていた北畠家きたばたけけ一牢人いちろうにんであったのが、抜擢ばってきされて、いまでは将軍家師範しょうぐんけしはんとなっている前例ぜんれいもあるので、これとてあんじるほどの障害しょうがいにはならないかもしれない。
「――とにかく、推挙すいきょしてみようが、ところが、かんじんな、其許そこもとはらは、どうおざるな」
 沢庵たくあんが、こうはなしむすびへってて、武蔵むさしただすと、
ぎたお心添こころぞえにござります。――なれどまだ、この身一みひとつのらちすらあかぬ未熟者みじゅくもの
 いいかけると、
「いやいや。それゆえ、もうらちをつけてもよかろうとすすめるのじゃ。一家いっかかまえるはないのか。おつうもあのままにしておくつもりか」
 沢庵たくあん率直そっちょくいつめた。

 おつうをどうするか。それをわれると、武蔵むさしは、められる心地ここちがする。
不運ふうんとなるとも、わたしはわたしのこころで)
 とは、彼女かのじょが、沢庵たくあんへもいったことだし、武蔵むさしにもつねにいっていることばであったが、ひとはゆるさない。
 ひとは、おとこ責任せきにんとする。
 おんなが、女自身おんなじしんこころでうごいてても、その結果けっかのいいわるいは、おとこのせいにあるとる。
 ――自分じぶんのせいではない。などとは武蔵むさしけっしておもいはしなかった。いやおもいたくないこころのほうがつよい。やはり彼女かのじょこいにひかれてたとおもう。そして、こいつみは、ふたりがうべきものとっていた。
 けれど、さて、
彼女かのじょをどうするか)
 と、なると、武蔵むさしには、むねのうちだけでも、的確てきかくこたえない。
 その根本こんぽんには、
(まだ、一家いっかなどかまえるのは、自分じぶんとしては早過はやすぎる)
 と、いうかんがえが、ひそんでいるからであった。はいればはいるほど、ふかい、とおい、けんみちへのひたむきな欲求よっきゅうが、そのためにすこしも、まぎれようともしないからであった。
 もっと、打割うちわっていえば。
 武蔵むさしむねには、法典ほうてんはら開墾かいこんからこっち、けんたいするそれまでのかんがえが一変いっぺんして、まったく従来じゅうらい剣術者けんじゅつしゃとは観点かんてんのちがったほうへ、かれ探求たんきゅうむかってている。
 将軍家しょうぐんけをとって、けんおしえるよりは土民百姓どみんひゃくしょうをとって、治国ちこくみちひらいてみたい。
 征服せいふくけん殺人さつじんけんは、かつての人々ひとびとふるって、そのくところまできついている。
 武蔵むさしは、開墾地かいこんちつちしたしんでから、そのうえけんを、みちを――どんなにつきつめてかんがえてみたことか。
 おさめる、まもる、みがく――この生命せいめいともに、人間にんげん臨終いまわきわまで、きしめていられるようなけんみちつとしたら――そのみちをもって、おさめることはできないか、たみやすんぜしめることは不可能ふかのうか。

 それからは――かれあえて、たんなる剣技けんぎこのまなくなった。
 いつか伊織いおり手紙てがみをもたせて、但馬守たじまのかみもんうかがわせたのも、かつて、柳生やぎゅう大宗たいそうたおすすべしとなして、石舟斎せきしゅうさいいどんだような、あさ覇気はきではけっしてなかった。
 で――武蔵むさしいま希望きぼうとしては、将軍家しょうぐんけ師範しはんとなるよりは、小藩しょうはんでもよい、政機せいき参与さんよしてみたい。けんかたくよりも、ただしい政治せいじいてみたい。
 わらうだろう。
 おそらくいままでの剣術者けんじゅつしゃが、かれ抱負ほうふいたら、
だいそれた!)
 と、いうか、
わかいやつだ)
 と、一笑いっしょうするか、さもなければ、政治せいじれたら人間にんげん堕落だらくする、こと純潔じゅんけつとうとけんくもってしまう――と、かれものなら、かれのために、しむであろう。
 ここにいる三名さんめい人々ひとびとも、自分じぶん真底しんそこをいえばみなまえのうちのどれかひとつのげんすにちがいないと、武蔵むさしにもそれはわかっている。
 で――武蔵むさしは、ただ未熟みじゅく理由りゆうとして、何度なんども、ことわったが、
「まあ、よい」
 沢庵たくあんは、簡単かんたんにいうし、安房守あわのかみもまた、
「とにかく、わるいようにはいたさぬ。われわれにまかしておかれい」
 と、のみんでしまう。
 けてくる――
 さけきないが、しょく時々ときどきかさをかぶった。そのたびに、北条新蔵ほうじょうしんぞうは、りにて、ここのはなしみみはさみ、
「まことに、よいおはなしで。皆様みなさま御推挙ごすいきょとおり、それが実現じつげんすれば、柳営武道りゅうえいぶどうのためにも、武蔵むさしどののためにも、もういっせきえんって、おさかずきげてもよろしゅうございますな」
 と、ちちへもいい、きゃくたちへもいった。