357・宮本武蔵「二天の巻」「露しとど(3)(4)」


朗読「357二天の巻13.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 48秒

 武蔵むさし木剣ぼっけんながい。
 伊織いおり木剣ぼっけんみじかい。
 なが木剣ぼっけんは、青眼せいがんに、みじか木剣ぼっけん青眼せいがんに。いわゆるあい青眼せいがんにあって、師弟していむかっている。
「…………」
「…………」
 くさよりいでくさしずむという武蔵野むさしの地平線ちへいせんほのかな余映よえいのこしていた。草庵そうあんうしろの杉林すぎばやしはもうくらかった。ひぐらしこえあおぐとほそつきがそのこずえしのっている。
「…………」
「…………」
 稽古けいこである。勿論もちろん伊織いおり武蔵むさしかまえを真似まねて、自分じぶんかまえているのであった。ってもいい、といわれているので、伊織いおりってこうとするが、おもうようにからだうごかせないのである。
「…………」
を」と、武蔵むさしがいう。
 伊織いおりは、おおきくした。武蔵むさしがまたいう。
ろ。……わしのをくわっとるのだ」
「…………」
 伊織いおりは、懸命けんめいに、武蔵むさしをにらもうとする。
 だが、武蔵むさしると、自分じぶんのにらみは退けられて、武蔵むさしのにらみを、けてしまうのである。
 それでもなお、じっとこらえて、つめていようとすると、あたまが、自分じぶんあたまだか、ひとのあたまだかわからなくなってしまう。あたまばかりでなく、あしも、五体ごたいすべて、うつつになってしまう。するとまた、
を!」
 と、注意ちゅういされる。
 いつのまにかは、武蔵むさしひかりからげるように、そわそわうごいているのだ。
 はっと、それにこころをあつめると、っている木剣ぼっけんまで、伊織いおりわすれてしまうのだった。そして、みじか木剣ぼっけんが、百貫ひゃっかんてつぼうでもささえているように、だんだんおもくなってくる。
「…………」

 いいながら、武蔵むさしすこしずつまえへすすんでせる。
 このとき伊織いおりが、どうしてもあと退がりたがるので、それを幾十度いくじゅうども、きょうまでしかられてた。――で、伊織いおりは、武蔵むさしならって、まえようとつとめるのだったが、武蔵むさしていては、到底とうていあし拇指おやゆびも、にじりせないのである。
 退がれば、しかられる。すすもうとするが、すすめない。伊織いおりからだが、くわっとあつくなる。人間にんげんにつかまれたせみからだみたいにくわっとあつくなる。
 このとき
なにを!)
 と、伊織いおりおさな精神せいしんなかにも、鏘然しょうぜんと、火華ひばなはっしるのだった。
 武蔵むさしは、それをかんじると、すぐ、かれさそって、
いっ」
 いいながら、さかなわすように、さっと、かたおとしながら退いてやるのだった。
 伊織いおりは、あッといいながら、びかかる。――武蔵むさし姿すがたはもうそこにはいない。――一転いってんしてくと、自分じぶんのいたところに武蔵むさしはいる。
 そして、最初さいしょときおな姿勢しせいにまた、かえるのであった。
「…………」
「…………」
 いつかそこらは、しとどに夜露よつゆつづっている。まゆつきは、杉林すぎばやしかげはなれ、そこからかぜちてくるたびに、むしはみないきをひく。ひるはさほどともえない秋草あきくさ花々はなばなも、かおよそおってみな霓裳羽衣げいしょうういうかのようにそよつ。
「…………」
「よし、これまで」
 武蔵むさしが、木剣ぼっけんろして、それを伊織いおりわたしたとき伊織いおりみみはじめて、うら杉林すぎばやしのあたりに、人声じんせいきこえた。

だれたな」
「また、めてくれと、たびひとまよってたんでしょ」
ってみろ」
「はい」
 伊織いおりは、うらまわってった。
 武蔵むさし竹縁たけえんこしかけて、そこからえる武蔵野むさしのよるをながめていた。もう穂芒ほすすきをそろえ、くさなみにはあきひかりがある。
先生せんせい
旅人たびびとか」
ちがいました。お客様きゃくさまです」
「……きゃく?」
北条新蔵様ほうじょうしんぞうさまが」
「お。北条ほうじょうどのか」
野道のみちからればよいのに、杉林すぎばやしなかまよいこんで、やっとわかったんですって。うまむこうにつないで、うらっておりますが」
「このいえには、うらおもてもないが――此方こちらがよかろう、おもうしてこい」
「はい」
 いえよこまわって、
北条ほうじょうさん、先生せんせいはこちらにいます、こっちへおでなさいまし」
 伊織いおり呶鳴どなる。
「おう」
 武蔵むさしは、ってむかえ、すっかり、壮健そうけんになった新蔵しんぞう姿すがたにまず、よろこびのをみはった。
「ご無沙汰ぶさたいたしました。おそらくひとけてのお住居すまいとはさっしながら、して突然とつぜん、おさまたもうしました。おゆるしのほどを」
 新蔵しんぞうのあいさつに、会釈えしゃくしながら武蔵むさしは、ふちさそって、
「ま。おください」
「いただきます」
「よくわかりましたな」
「ここのお住居すまいで」
「されば。だれにもげてないはずだが」
厨子野ずしの耕介こうすけからいて承知しょうちいたしました。過日かじつ耕介こうすけとお約束やくそく観音様かんのんさまがお出来できとかで、伊織いおりどのが、とどけられたそうで……」
「ははあ、ではそのおり伊織いおりがここの住所ところ喋舌しゃべったとみえる。……いやべつに、武蔵むさしもまだ、ひとけて閑居かんきょするなどという年齢としではありませぬが、七十五日ななじゅうごにちひそめていたら、うるさいうわさめようし、したがってまた、耕介こうすけなどにわざわいのかかるおそれもなくなろうかとおもったまでのことでござる」
「おもうさねばなりませぬ」
 と、新蔵しんぞうは、あたまげて――
「みな、てまえのことからご迷惑めいわくを」
「いや、おのことは、枝葉えだはぎない。原因げんいんはもっととおいところにあるのです。小次郎こじろうとこの武蔵むさしとのあいだに」
「その佐々木小次郎ささきこじろうのために、またしても、小幡老先生おばたろうせんせい御子息ごしそく余五郎よごろうどのが、殺害さつがいされました」
「えっ、あの子息しそくが」
かえちです。わたくしがたおれたとかれたので、一途いちずに、彼奴きゃつねらって、かえって落命らくめいなされたのでした」
「……めたのに」
 武蔵むさしは、いつか小幡家おばたけ玄関げんかんったわか余五郎よごろう姿すがたおもいうかべ、可惜あたら――とこころのうちで、つぶやいた。
「しかし――御子息ごしそくのおもちもわかるのです。門下もんかはみなり、かくいうたおれ、老先生ろうせんせい先頃病死さきごろびょうしなされました。――いまは、というおもちをいて、小次郎こじろういえおそってゆかれたものとさっしられます」
「うむ。……まだわしのかたらなかった。……いやめたのが、かえって、余五郎よごろうどのの壮気そうきをあべこべにりたてたかもれぬ。かえすがえすもしいことを」
「――で、じつはわたくしが、小幡おばたあとがねばならぬことになりました。余五郎よごろうどののほかに老先生ろうせんせいのお血筋ちすじもないので、すでに絶家ぜっけとなるところ、ちち安房守あわのかみから柳生やぎゅう宗矩むねのりさま実情じつじょうもうしあげ、お骨折ほねおりで、家名かめいだけは、養子ようし手続てつづきをって、のこることに相成あいなりました。――しかし、未熟者みじゅくもののわたくしでは、かえって甲州流軍学こうしゅうりゅうぐんがく名家めいかを、よごすようなものではないかと、それのみをおそれておりまする」