355・宮本武蔵「二天の巻」「青い柿(5)(6)」


朗読「355二天の巻11.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 22秒

 幾棟いくとうかの長屋ながやがある。やぶ雑木ぞうきひらいて、どしどし人間にんげんさきしたといったような、この附近ふきんひらかたであった。
 みちなどは、あとのことで、ひとあるけば、それからつくし、下水げすいなども、ごとから、行水ぎょうずいみず台所だいどころ汚水おすいで、ながれるるままに出来できたものが、自然小川しぜんおがわちてく――でいいとしている。
 なにしろ、急激きゅうげきえてゆく江戸えど人口じんこうは、それほど無神経むしんけいでなければおさまりがつかなかった。そのなかおおいのは、やはり労働者ろうどうしゃであった。わけて河川改修かせんかいしゅうと、城普請しろぶしん仕事しごとものたちである。
又八またはちさん、かえったのか」
 となり井戸掘いどほりの親方おやかたがいった。親方おやかたは、たらいなかにあぐらをくみ、よこにした雨戸あまどうえからくびばしていったのである。
「やあ、行水ぎょうずいですか」
 いまいえもどって又八またはちがいうと、たらいなか親方おやかたは、
「どうだい、わしはもうがるところだが、一浴ひとあびやっては」
有難ありがとうございますが、たくでもきょうは、朱実あけみかしたそうですから」
なかがいい」
「そんなでもございません」
兄妹きょうだいか、夫婦ふうふか、長屋ながやものもまだよくらないが、一体いったいどっちなんだね」
「ヘヘヘヘ」
 そこへ、彼女かのじょたので、又八またはち親方おやかたもだまってしまった。
 朱実あけみは、げてきたおおきなたらいを、かきしたにおき、やがて、手桶ておけをあけた。
又八またはちさん、加減かげんてよ」
「すこし、あついな」
 車井戸くるまいどおとがきりきりする。又八またはちはだかけてゆき、手桶ておけみずってて、自分じぶんでうめて、すぐ入浴はいりこむ。
「ああいいだ」
 親方おやかたはもう浴衣ゆかたになって、糸瓜へちまだなした竹床几たけしょうぎし、
「きょうは、西瓜すいかれたかい」
 と、く。
れたもんですよ」
 又八またはちは、ゆびまたに、かわいていたのを見出みいだして、気味きみわるそうに、手拭てぬぐいおとしていた。
「そうだろうな、西瓜すいかなんぞるよりはまだ、井戸掘いどほ人足にんそくになって日傭稼ひやといかせぎしたほうが、らくだとおもうが」
「いつも、親方おやかたが、おすすめしてくれますが、井戸掘いどほりになると、おしろのなかへはいるんですから、滅多めったに、いえかえれないでしょう」
「そうさ。御作事方おさくじがたのおゆるしがなくっちゃ、かえるわけにゆかねえな」
「それじゃあ、朱実あけみがいうには、さみしいから、やめてくれといいますんでね」
「おい、のろけかい」
けっして、あたしたちは、そんななかじゃございません」
でもおごりなよ」
「――アいたっ」
「どうしたい」
あたまうえから、あおかきちてやがったんで」
「ははは。のろけるからよ」
 親方おやかた渋団扇しぶうちわで、ひざをたたいてわらった。伊豆いず伊東いとううまれで、運平うんぺいさんという界隈かいわい尊敬そんけいをうけていた。としはもう六十ろくじゅうすぎ、あさのようにもじゃもじゃしたかみをしているが、日蓮信者にちれんしんじゃ朝夕あさゆう題目だいもくとなえ、わか者達ものたちを、どもあつかいにするだけの体力たいりょくをもっている。
 この長屋ながや入口いりぐちに、

城御用しろごようあなほり土方どかた口入くちい
     いどほりうん平宅ぺいたく

 と立札たてふだにあるのは、この親方おやかたいえのことである。城郭じょうかく井戸いど開鑿かいさくには、特別とくべつ技術ぎじゅつがいるので、ただの井戸いどほりではできない。そこで伊豆いず金山かなやまほりの経験けいけんのある自分じぶんが、工事こうじ相談そうだん人足にんそく口入くちいれにまねかれてたのである――とは、運平親方うんぺいおやかたが、晩酌ばんしゃくにやる焼酎しょうちゅうのごきげんで、よく自慢じまんする糸瓜へちまだなしたのはなしだった。

 許可きょかがなければ、いえにはかえさないし、仕事中しごとちゅう監視かんしはつくし、留守宅るすたく家族かぞくは、人質ひとじち同様どうよう町名主まちなぬし親方おやかた束縛そくばくもうけるが、そのかわり、御城内仕事ごじょうないしごとは、そと仕事しごとより、からだらくだし、賃銀ちんぎんはざっと倍額ばいがくにもなる。
 工事こうじおわるまで、寝泊ねとまりも、御城内ごじょうない小屋こやでするから、小費こづかいもつかいようがない。
 ――だからそうしてひとツ、辛抱しんぼうしてから、それを資本もとでに、西瓜すいかなどらずに、なに商売しょうばいでもする工夫くふうをしてはどうか。
 隣家となり運平親方うんぺいおやかたは、まえから又八またはちへ、よくそういってくれていたが、朱実あけみくびって、
「もし、又八またはちさんが、お城仕事しろしごとくなら、わたしはすぐ、げちまうからいい」
 と、おどすようにいった。
くもんか、おまえひとりいて――」
 又八またはちも、そんな仕事しごとはしたくないのである。かれがさがしているのは、からだらくで、もっと、体裁ていさいのいい仕事しごとだった。
 行水ぎょうずいからかれがると、つぎには朱実あけみが、かこいの戸板といたやして、み、ふたりとも浴衣ゆかたになってからいまも、そのはなしたが、
すこしぐらいかねになるからって、囚人めしゅうどみたいに、からだしばられるはたらきにるなど、いやなこった。おれだって、いつまでも西瓜売すいかうりじゃいねえつもりだ。なあ朱実あけみ当分貧乏暮とうぶんびんぼうぐらしでも、辛抱しんぼうしようぜ」
 ひや豆腐どうふに、青紫蘇あおじそのにおうぜんをかこみながら、又八またはちがいえば朱実あけみも、
「そうともさ」
 と、湯漬ゆづけべながらいった。
一生いっしょう一遍いっぺんでもいいから、意気地いくじのあるところをせてやりなさいよ。――世間せけんひとに」
 朱実あけみが、ここへてから、長屋ながやでは、夫婦者ふうふものているらしかったが、彼女かのじょは、こんながゆいおとこを、自分じぶん良人おっととうとはおもっていない――
 彼女かのじょの、おとこは、すすんでいた。江戸えどてから――こと堺町さかいちょうあそびの世界せかいいているあいだに――おおくの種々いろいろかたおとこていた。

 その朱実あけみが、又八またはちいえげてたのは、一時いちじ方便ほうべんにすぎなかった。又八またはちだいにして、ふたたび、ってゆくそらをさがしている小鳥ことりだった。
 ――だが、いま又八またはちに、お城仕事しろしごとになどってしまわれるのは、都合つごうわるかった。というよりも、危険きけんであった。茶汲女ちゃくみおんなをしていたころおとこ――浜田はまだなにがしという牢人ろうにんに、つけされるおそれがあるからである。
「そうそう」
 めしおわると、又八またはちは、そのことについて、はなした。
 浜田はまだにつかまって、ひどいっていたところを、佐々木小次郎ささきこじろうたすけられ、その小次郎こじろうが、此家ここ案内あんないしろといってきかないので、閉口へいこうしたが、とうとうていよくいって、わかれてた――ということをつぶさに、彼女かのじょむかえるように、かたしたのである。
「えっ、小次郎こじろうに、出会であったんですって」
 朱実あけみは、もうかおいろをうしないながら、いきをついて、
「そしてわたしが、ここにいるなどということをいったんですか。まさか、いいはしないでしょうね」
 とねんした。
 又八またはちは、彼女かのじょを、自分じぶんひざって、
だれが、あんなやつに、おまえのいることなどいうものか。いったが最後さいご、あの執念しゅうねんぶかい小次郎こじろうがまた……」
 ――あっと、そこで、又八またはちはふいに呶鳴どなって、自分じぶん横顔よこがおおさえた。
 だれほうったのか。
 うらほうからんであおかきひとつ、ぐしゃっと、かれかおあたったのである。まだかた青柿あおがきだったが、しろにくくだけて、朱実あけみかおへもかかった。
 もう夕月ゆうづきやぶなかを、小次郎こじろうかげが、すずしいかおして、まちほうった。