朗読「354二天の巻10.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 43秒
三
彼がすぐ、縄目を切ってやっても、西瓜売りは、草むらから顔を起さなかった。
坐り直しはしたが――いつまでも面は上げないのである。
小次郎は、物干竿の血をぬぐい、鞘に納めると、何かおかしくなったように、
「大将」
と、西瓜売りの背を叩いた。
「何もそう面目ながらないでもいいじゃないか。――おいっ、又八」
「はあ」
「はあ、じゃあない、顔を上げろ。さてもその後は久しぶりだな」
「あなたも、ご無事でしたか」
「あたり前だ。――しかし、貴様は妙な商売をしておるじゃないか」
「お恥かしゅうございます」
「とにかく、西瓜を拾い集め――そうだ、あの、どんじき屋へでも、預けたらどうだ」
小次郎は原の中から、
「おおウい、おやじ」
と、麾いた。
そこへ、荷や西瓜をあずけ、矢立を取出して、どんじきの掛障子のわきへ、
空地の死体ふたつ
右、斬捨て候ものは
伊皿子坂月の岬住人
佐々木小次郎
後日の為のこす
こう書いて、
「おやじ、ああしておいたから、其方に迷惑はかかるまい」
「ありがとう存じまする」
「あまり、有難くもないだろうが、死者の由縁の者が来たら、言伝てくれ。――逃げ隠れはせぬ、いつでも、御挨拶はうけるとな」
そして、葭簀の外にいる西瓜売りの又八へ、
「参ろう」
と、促して、歩き出した。
本位田又八は、俯向いてばかりいた。近頃彼は、西瓜の荷を担って、江戸城の此処彼処にたくさん働いている石置場の人足や、大工小屋の工匠や、外廓の足場にいる左官などへ、西瓜を売ってあるいていた。
彼も、江戸へ来た当初は、お通に対してだけでも、男らしく、一修行するか、一事業やるか、壮志のあるところを見せていたが、何へかかっても、すぐに意志のへこたれてしまうことと、生活力の弱いことは、この人間の持ち前で、職を換えることも、三度や四度の数ではない。
殊に、お通に逃げられてからの彼は、よけい、薄志弱行の一途を辿るばかりで、わずかに、各所の無法者のゴロ部屋に寝泊りしたり、博奕の立番をして一飯を得たり、また、江戸の祭や遊山の年中行事に、その折々の物売りをしたり――とにかくまだ一ツの定った職業すらつかんでいないのであった。
だが、それが不思議とも思わないほど、小次郎も、彼の性情は前から知っている。
ただ、どんじき屋へ、ああ書いておいた以上、やがて何とかいって来るものと心得ていなければならない心構えのために、
「いったい、あの牢人どもから、どんな恨みをうけたのか」
と、理由を糺すと、
「実は、女のことで……」
と、いい難そうに、又八はいう。
又八が生活を持つ所、何か必ず女の事故が起っている。彼と女とは、よくよく前世から業のふかい悪縁でもあるのだろうと――小次郎すらも苦笑をおぼえ、
「ふム、相変らず貴様は色事師だの。して、その女とは、どこの女で、そしてどうしたという理か」
いい渋る口を割らせるのは骨だったが、伊皿子へ帰っても、かくべつ用を持たない彼には、女と聞くだけでも、無聊をなぐさめられて、又八と会ったのも、拾い物のような気がしていた。
四
ようやく、又八が、打明けていう事情というのを聞くと、こうであった。
濠端の石置場には、お城の作事場に働いている者や往来の頻繁を当てこんで、何十軒といっていいほど、休み茶屋が、葭簀を張っている。
そこの一軒に、人目をひく茶汲女があった。飲みたくもない茶をのみにはいったり、喰べたくもない心太を啜ったりしにゆく連中のなかに、先刻の浜田某という侍の顔もよく見えていた。
ところが、自分も時折、西瓜を売上げた帰りになど、休みに寄るうち、或る時、娘がそっと囁くことには、
(わたしは、あのお侍が嫌いでならないのに、茶屋の持主は、あのお侍と遊びにゆけと、此店が閉まるとすすめるのです。あなたの家へ隠してくれませんか。女ですから水仕事や綻びを縫うぐらいなことならしますよ)
と、いうので、否む筋合もないから、諜し合せて、自分の家へ、早速、娘を匿ってやっているので――ただそれだけの理由なので――と、又八は頻りとそこのところを繰返して言い訳する。
「おかしいじゃないか」
小次郎は、頷かない。
「なぜですか」
と、又八は、自分の話のどこがおかしいのかと、すこし反抗を見せて、突っこんでゆく。
小次郎は、彼の、惚気とも言い訳ともつかない長文句を、炎天に聞かされて苦笑いも作れず、
「まあいいわ。ともかく貴様の住居へ行って、ゆるゆる聞こう」
すると、又八は足を止めてしまった。ありありと、迷惑そうにその顔つきが断っているのである。
「いけないのか」
「……何しろ、ご案内申すような、家ではないので」
「なあに、かまわぬ」
「でも……」
又八は、謝って、
「この次にして下さい」
「なぜじゃ」
「すこし今日は、その」
よくよくな顔していうので、強ってともいわれず小次郎は急にあっさりと、
「ああそうか。然らば、折を見て、そちの方からわしの住居へ訪ねて来い。伊皿子坂の途中、岩間角兵衛どのの門内におる」
「伺います。ぜひ近日」
「あ……それはよいが、先頃、各所の辻に立ててあった高札を見たか。武蔵へ告げる半瓦の者どもが打った立札を」
「見ました」
「本位田のおばばも尋ねておるぞと、書いてあったろうが」
「は。ありました」
「なぜすぐに、老母をたずねて参らぬのじゃ」
「この姿では」
「ばかな。自分の母親に何の見得がある。何日、武蔵と出会わんとも限らぬではないか。その時、一子として、居合わせなかったら、一生の不覚だぞ。生涯の悔いをのこすことになるぞ」
彼の意見じみた言葉を、又八は素直に聞けなかった。母子のあいだの感情は、他人の見た眼のようなのではない。――そう腹の膨れるように思ったが、たった今、救われた恩義のてまえ、
「はい。そのうちに」
と、渋った返辞をのこして、芝の辻でわかれた。
――小次郎は人が悪い。別れると見せて、実はすぐまた、引っ返していた。又八の曲がった狭い裏町を、見え隠れに尾けて行った。