351・宮本武蔵「二天の巻」「鷲(3)(4)」


朗読「351二天の巻7.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 20秒

 忠利ただとしばかりでなく、家臣かしんたちもだれひとり、ひかえている小次郎こじろうに、をくれるものはなかった。
 やがて百射ひゃくしゃおわると、
みずみず
 忠利ただとしは、大息おおいきでいった。
 家臣かしんたちは、井戸水いどみずげて、おおきなたらいみずった。
 忠利ただとしは、諸肌もろはだをぬぎ、あせいたり、あしあらった。そばから家来けらいが、たもとったり、あたらしいみずんだり、介添かいぞえはおこたりないが、それにしても、いわゆるお大名だいみょう仕草しぐさともみえぬ野人やじんぶりであった。
 国許くにもとにいる大殿おおとのとよばれる三斎公さんさいこう茶人ちゃじんである。先代せんだい幽斎ゆうさいは、それにもまして風雅ふうが歌人かじんであった。さだめし三代目さんだいめ忠利公ただとしこうも、みやびたる公卿風くげふうひとか、御殿育ごてんそだちの若殿わかとのだろうとかんがえていた小次郎こじろうは、ちょっと、そのからだに、意外いがいをみはっていた。
 よくきもしないあしをすぐ草履ぞうりにのせて、ずかずかと忠利ただとしは、弓場ゆばもどってた。そして、さっきからまごついている岩間角兵衛いわまかくべえかおると、おもしたように、
角兵衛かくべえおうか」
 と、とばり日陰ひかげ床几しょうぎかせ、九曜くようもんうしろにしてこしかけた。
 角兵衛かくべえさしまねかれて、小次郎こじろうかれまえにひざまずいた。人材じんざいあいし、ぐうすることにあつかったこの時代じだいでは、一応いちおう謁見えっけんをうけるものからそういうれいるが、すぐ忠利ただとしほうでも、
床几しょうぎつかわせ」
 と、いった。
 床几しょうぎければきゃくである。小次郎こじろうひざげて、
「おゆるしを」
 会釈えしゃくしながら、それへこしをおろして、忠利ただとしむかいあった。
仔細しさい角兵衛かくべえからいておるが、生国しょうごく岩国いわくにもうすか」
御意ぎょいにござります」
岩国いわくに吉川きっかわ広家公ひろいえこう英邁えいまいきこえがたかい。そちの父祖ふそも、吉川家きっかわけ随身ずいしんものか」
とおくは近江おうみ佐々木ささき一族いちぞくいておりますなれど、室町殿滅亡後むろまちどのめつぼうご母方ははかたさとへひそみましたよしで、吉川家きっかわけろくんでおりませぬ」
 などと家系かけいや、縁類えんるいなどの質問しつもんがあってあと
侍奉公さむらいぼうこうは、はじめてか」
「まだ主取しゅどりぞんじませぬ」
当家とうけのぞみがあるやに、角兵衛かくべえからいておるが、当家とうけのどこがようて、のぞんだか」
場所ばしょとして、心地ごこちさそうなおいえぞんじまして」
「む、む」
 忠利ただとしは、うめいた。
 ったらしくえる。
武道ぶどうは」
巌流がんりゅうしょうします」
巌流がんりゅう?」
自身発明じしんはつめい兵法へいほうにござりまする」
「でも、淵源えんげんがあろうが」
富田五郎右衛門とみたごろうえもん富田流とみたりゅうならいました。また、郷里岩国きょうりいわくに隠士いんし片山かたやま伯耆守ほうきのかみ久安ひさやすなる老人ろうじんから、片山かたやま居合いあいさずけられ、かたがた、岩国川いわくにがわほとりては、つばめって、自得じとくするところがございました」
「ははあ、巌流がんりゅうとは――岩国川いわくにがわのその由縁ゆかりからづけたか」
御賢察ごけんさつのとおりです」
一見いっけんしたいな」
 忠利ただとしは、床几しょうぎから、家臣かしんかおまわして、
だれか、佐々木ささき相手あいてに、ものはおらぬか」
 と、いった。

 このおとこが、佐々木ささきか。近頃ちかごろ、よくうわさにのぼる、あの著名ちょめい人間にんげんなのか。
(それにしては、おもいのほか、わかいものだな)
 と感心かんしんして、先刻さっきから、忠利ただとしかれとの応接おうせつまもっていた家臣かしんたちは、忠利ただとし唐突とうとつに、
だれか、佐々木ささき相手あいてに、ものはないか)
 といった言葉ことばにまた、かおあわせた。
 自然しぜん、そのはすぐ、小次郎こじろうほううつったが、かれには、迷惑めいわくそうな気色けしきもなく、むしろ、
のぞむところ)
 と、いわんばかりな紅潮こうちょうおもてえた。
 だがなお、さしがましく、われがと名乗なのって、ものもないうちに、
岡谷おかや
 と、忠利ただとしが、名指なざした。
「はっ」
「いつぞや、やり太刀たちまさ論議ろんぎおりに、だれよりも、やりせつって退かなかったのは、そちであったな」
「は」
「よいおりだ、かかってみい」
 岡谷五郎次おかやごろうじは、おけすると、つぎに、小次郎こじろうほうむかなおって、
不肖ふしょう、お相手あいてちまするが、おさしつかえございませぬか」
 と、たずねた。
 小次郎こじろうは、おおきく、言葉ことばむねくように、うなずいた。
「おねがいいたしましょう」
 慇懃いんぎん礼儀れいぎのあいだであるが、なにかしらさっとはだじまるような凄気せいきがながれた。
 まくうちで、的場まとばすないていたものや、ゆみ整理せいりをしていた人々ひとびとも、それをいて、忠利ただとしのうしろへみなあつまった。
 朝夕あさゆう武芸ぶげいくちにし、太刀たちゆみはしごとれているものにでも、稽古以外けいこいがいのほんとの試合しあいなどに体験たいけんは、一生いっしょうつうじて、そう何度なんどもあることではなかった。
 かりに――
戦場せんじょうたたかうのと、平常へいじょう場合ばあい試合しあいつのと、どっちがこわいか)
 ということを、ここにいる大勢おおぜいさむらいに、正直しょうじき告白こくはくさせたら、十人じゅうにん十人じゅうにんまで、
(それは試合しあいだ)
 というにちがいないのである。
 戦争せんそう集団しゅうだん行動こうどうだが、試合しあい対立たいりつである。かならたなければ、かならぬか不自由ふじゆうになるのだ。あし拇指おやゆびひとつからかみ毛一筋けひとすじまでを味方みかたとして、自己じこ生命力せいめいりょくつくしてたたからなければならない。――他人たにんたたかっているあいだ、ほっと一息ひといきれるというような余裕よゆうなども、試合しあいにはない。
 ――しゅくとして、かれともだちはみなかれ挙止きょしまもった。だが、五郎次ごろうじ落着おちついているのをると、やや安心あんしんして、
かれならけまい)
 と、おもった。
 細川藩ほそかわはんには、従来じゅうらい槍術そうじゅつ専門家せんもんかというものはいなかった。幽斎公三斎公以来ゆうさいこうさんさいこういらい数々かずかず戦場せんじょうひとったものばかりが君側くんそくなのである。足軽あしがるなかにさえ、やり上手じょうず沢山たくさんいた。やり上手じょうずにつかうなどということは、かならずしも奉公人ほうこうにん特別とくべつ技能ぎのうではなかった。だからとく師範役しはんやくというようなものはいらなかったといえるのである。
 けれど、そのなかでも、岡谷五郎次おかやごろうじなどは、はんでの鑓仕やりしといわれていた。実戦じっせんんでいるし、平常へいじょう稽古けいこ工夫くふうんでいる老練家ろうれんかであった。
「しばし、ご猶予ゆうよを」
 と、五郎次ごろうじは、主君しゅくん相手あいてものへ、そう会釈えしゃくをして、しずかに、彼方かなた退がってった。もちろん身支度みじたくのためである。
 あした笑顔えがおて、夕方ゆうがたには死体したいかえるかもしれない侍奉公さむらいぼうこうたしなみとして、きょうも、下帯したおびから肌着はだぎまで、あかのつかないものていたということが、支度したく退がるかれこころを、そのときふと、すずやかにさせていた。