349・宮本武蔵「二天の巻」「虫しぐれ(5)(6)」


朗読「349二天の巻5.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 23秒

「……ほ。なぜ?」
 と角兵衛かくべえは、さも当惑とうわくそうに、かれまもった。
 小次郎こじろう一言ひとこと
にそまぬゆえ」
 と、にべなくいったのみで、理由りゆうくちさないのである。
 だが、小次郎こじろうきゅうに、不機嫌ふきげんになったのは、角兵衛かくべえいま君侯くんこうのおことわりとして、
召抱めしかかえるかいなかは、当人とうにんうえで)
 といった――その条件じょうけんさわったものらしかった。
なにも、細川家ほそかわけかかえてもらわなければ、こまからだではない。何処どこってっても、三百石さんびゃくこく五百石ごひゃくこくは――)
 と、平常へいじょうそれとなくしめしている小次郎こじろうほこりに、角兵衛かくべえのありのままなつたかたが、ぐいとあたりがわるさわったものに相違そういない。
 小次郎こじろうは、他人たにん気持きもちかまっていないたちだったから、角兵衛かくべえ当惑とうわくしてこまったかおをしていようが、自分じぶんをわがまま勝手かって人間にんげんおもおうが、いっこうこころにかけるふうもなく、食事しょくじおわると、さっさとわがむねかえってしまった。
 燈灯ともしびのないたたみには、月明つきあかりがしろしこんでいた。小次郎こじろうはそこへあがるとすぐ、ったからだ仰向あおむけによこたえて、手枕たまくらをかった。
「ふ、ふ、ふ……」
 なにおもしたか、ひとりでこうわらいだしながら、
「とにかく、正直者しょうじきものだな、あの角兵衛かくべえは」
 と、つぶやいた。
 ああいったら、角兵衛かくべえ主君しゅくんたいしてこまることも――また、どう振舞ふるまっても、角兵衛かくべえ自分じぶんたいしておこらないことも――なにもかもよくりぬいているかれだった。
ろくのぞみはない)
 と、かねて自分じぶんからいってはあるが、かれ満身まんしんは、野望やぼうちていた。そのかれろくのぞみがないわけもなく、自分じぶんちからあたかぎりの名声めいせいも、また立身りっしんのぞんでいた。
 さもなくて、なんで、くるしい修行しゅぎょうなどやる必要ひつようがあろう。立身りっしんのためだ、げるためだ、故郷ふるさとにしきかざるためだ、そのほか人間にんげんうまれたかいをあらゆるてん満足まんぞくさせるためだ。そのためには、いま時代じだいではなんといっても兵法へいほうすぐれることが出世しゅっせ捷径はやみちである。さいわいにも、この時代じだい自分じぶんけんにかけては天稟てんぴんしつをもってうまれてた――と、こうかれかんがえている。自尊心じそんしんっている。また聡明そうめいなる処世しょせいあゆみとしてあゆんでいる。
 だから、かれ一進一退いっしんいったいは、すべてこの目的もくてき駈引かけひきから、されていた。そうしたかれからると、ここのあるじ岩間角兵衛いわまかくべえなどはとしこそ自分じぶんよりはずっとうえだが、
あまいものだ)
 と、おもわざるをないのであった。
 ――いつか小次郎こじろうは、そうしたゆめいだいて、てしまった。つきたたみ一尺いっしゃくもうごいたが、まだめなかった。まど女竹めだけえまなく涼風りょうふうそよいで、ひるあつさからかれた肉体にくたいは、たれてもめる気色けしきはなかった。
 ――すると、そのころまで、おおがけかげにかくれていたひとつの人影ひとかげは、
(よし!)
 と、ころ見定みさだめたように、のないいえ軒端のきばまで、がまうようにしのってた。

 凛々りりしく見拵みごしらえした武士ぶしであった。――夕刻ゆうこく坂下さかした花屋はなや老爺おやじ挙動きょどうあやしんで、てら裏山うらやま見送みおくったという――あのわか武士ぶしがこのおとこであったのではあるまいか。
 ――って、
「…………」
 その人影ひとかげは、縁先えんさきから、ややしばらくのあいだ、じっと、屋内おくないうかがっている。
 月明つきあかりをけてかがんでいるので物音ものおとてないかぎり、そこに人間にんげんがいるとはちょっとわからないくらいだった。
「…………」
 小次郎こじろう鼾声いびきかすかにきこえる。――一時いちじ、ハタとんだむしもふたたび何事なにごともないように、そこらのくさつゆからすだきはじめた。
 やがて。
 人影ひとかげは、ぬっくとった。
 そしてかたなさやはらうやいな、ぽんと縁先えんさきがって、小次郎こじろうすがたへむかい、
「くわッ」
 と、いしばって、りつけたとおもうと、小次郎こじろうひだりから、くろぼう発矢はっしうなって、その小手こてつよった。
 ろしたやいばは、よほどないきおいであったとみえて、小手こてたれながらも、たたみまでりさげた。
 だが、そのしたった小次郎こじろう姿すがたは、水面すいめんたれたさかなけて悠々ゆうゆうほかおよいでいるように、さっと、壁際かべぎわをよけて、此方こちらいてっていた。
 には、愛剣あいけん物干竿ものほしざおを、ふたツにしてっていた。――つまりひだりにはさやを。みぎにはその抜刀ぬきみを。
だれだ」
 こういったかれ呼吸いきでもわかることは、小次郎こじろうがこの刺客しかく襲撃しゅうげきを、くから予感よかんしていたというてんである。つゆのこぼれにも、むしにも、油断ゆだんのないかれ姿すがたというものが、かべにして、その時少ときすこしもみだれずえた。
「わ、わしだッ」
 それにひきかえて、おそったものこえれていた。
「わしではわからん。をいえ。――こみをおそうなどとは、武士ぶしらしくもない卑怯者ひきょうものめ」
小幡おばた景憲かげのり一子いっし余五郎景政よごろうかげまさじゃ」
余五郎よごろう!」
「おお……よ、ようも」
「ようも? 如何いかがいたしたともうすのか」
ちち病床びょうしょうにあるのを、よいことにして、世間せけん小幡おばた悪口わるくちをいいふらし」
て。いいふらしたのは、わしではない。世間せけん世間せけんへいいふらしたのだ」
門人もんじんどもへ、はたいのさそいをかけ、かえちにしおったのは」
「それは小次郎こじろうちがいない。――うでだ、実力じつりょくだ。兵法へいほううえでは、こればかりはいたかたない」
「いう、いうなっ。半瓦はんがわらとかもう無法者むほうもの手伝てつだわせ……」
「それは二度目にどめのこと」
なんであろうと」
「ええ、面倒めんどうな!」
 小次郎こじろう癇癖かんぺきげて、一歩踏いっぽふしながら、
うらむなら、いくらでもうらめ、兵法へいほう勝負しょうぶに、意趣いしゅをふくむは、卑怯ひきょううえ卑怯者ひきょうものと、よけい、ものわらいをかさねるのみか――またしてもそちの一命いちめいまで、もうしうけるが、それでも覚悟かくごか」
「…………」
覚悟かくごたかっ」
 さらに一歩いっぽふみすと、それとともびた物干竿ものほしざお切先一尺きっさきいっしゃくほどに、のきつきしろした。チカッと、余五郎よごろうくらむばかり、しろ光芒こうぼうがそれからねた。
 きょうがってたばかりのかたなである。小次郎こじろうは、かわいた饗膳きょうぜんむかったように、相手あいてかげ獲物えものとして、じっとすえた。