朗読「345二天の巻1.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 03秒
宮本武蔵
二天の巻
吉川英治
衆口
一
学問は朝飯前に。昼間は、藩の時務を見たり、時には江戸城へ詰めたり、その間に、武芸の稽古は随時にやるとして――夜はおおかた若侍相手に、打ち寛いでいる忠利であった。
「どうだな、何か近頃、おもしろい話は聞かぬか」
忠利がこういい出す時は特にあらためて、無礼講とゆるされなくても、家臣たちは、
「されば、こういう事がございますが……」
と、いろいろな話題を持ち出すのをきっかけに、――礼儀こそ紊さないが――家長を囲む一家族のように、睦み合うのが例であった。
主従という段階があるので、忠利も、公務の場合は、峻厳な容態をくずさないが、晩飯の後など帷衣一重になって、宿直の者たちの世間ばなしでも聞こうとする時は、自分も寛ぎたいし、人をも寛がせたいのであった。
それに、忠利自身が、まだ多分に、一箇の若侍といったふうだから、彼らと膝を組んで、彼らのいいたいことを聞いているのが好きであった。好きばかりでなく、世情を知るうえには、むしろ、朝の経書よりも、活きた学問になった。
「岡谷」
「はあ」
「そちの槍は、だいぶ上達ったそうだな」
「上がりました」
「自分で申すやつがあるか」
「人がみな申すのに、自分だけ謙遜しているのは、かえって嘘をつくことになりますから」
「ははは。しぶとい自慢よの。――どれほどな腕なみになったか、いずれみてやるぞ」
「――で、はやく、御合戦の日が来ればよいと、祈っておりますが、なかなか参りませぬ」
「参らずに、仕合せであろう」
「若殿にはまだ、近頃のはやり歌を、ご存じありませぬな」
「なんという歌か」
「――鑓仕鑓仕は多けれど、岡谷五郎次は一の鑓」
「うそを申せ」
忠利が笑う。
一同も笑う。
「あれは――名古谷山三は一の鑓――という歌であろうが」
「ヤ。ご存じで」
「それくらい」
と、忠利は、もっと、下情の通をいってみせようとしたが、慎んだ。そして、
「――ここでは、平常の稽古に、槍を致しておる者と、太刀を致しておる者と、いずれが多くあるな?」
と訊ねた。
ちょうど、七名いたが、
「拙者は槍」
と、答えた者が、五人で、
「太刀」
といった者は、七名のうち、二人しかなかった。
で、忠利は重ねて、
「なぜ、槍を習うか」
と、その者たちへ訊ねたところ、
「戦場において、太刀よりも利がござれば――」
と、一致した答えだった。
「では、太刀の者は?」
と、訊くと、
「戦場においても、平時においても、利がござれば」
と、太刀を稽古しているという二人が答えた。
二
槍が利か、太刀が利か。
これは、いつも、議論になることだったが、槍の者にいわせると、
「戦場では、平常の小技の稽古などは、役には立たぬ。――武器は、体に扱える程度に、長いほど利である。殊に、槍には、突く手、撲る手、引く手の、三益がある。槍はまた闘いに損じても、太刀の代りがあるが、太刀は、折れたり曲がったりしたら、それ限りではないか」
太刀の利を説く者は、
「いや、われわれは戦場だけを武士の働き場所と考えていない。常住坐臥、武士は太刀をたましいとして持っているので、太刀を習練するのは、常に魂を研いでいることになるゆえ、戦場で多少の不利はあっても、太刀を本位として武芸は研くべきだと心得る。――その武道の奥義に達しさえすれば、太刀に依って得た練磨も、槍を把れば槍に通じ、鉄砲を持てば鉄砲に通じ――決して未熟な不覚はあるまいかと存じます。――一芸万法に通ずとか申しますれば」
これは、果てしない問題になりそうである。忠利は、どっちへも加担せずに聞いていたが、太刀に利があると、力説していた松下舞之允という若侍へ、
「――舞之允。今のは、どうもそち自身の口吻でない所があるぞ。誰の請売りだ」
と、いった。
舞之允は、むきになって、
「いえ、てまえの持論で」
と、いったが、
「だめじゃ。わかる」
と、忠利に観破されて、
「実は――いつぞや、岩間角兵衛どのの、伊皿子のお住居へ招かれた節、同じ議論がわき、居合せた佐々木小次郎と申す、その家の懸り人から聞いたことばでございます。――しかし、てまえの平常の主張と一致しておりますので、てまえの考えとして、申し上げた次第で、他を偽るつもりはございません」
と、白状した。
「それみい」
忠利は、苦笑しつつ、胸のうちで、ふと、藩務の一ツを思い出していた。
それは、かねて、岩間角兵衛から推挙している――佐々木小次郎という人間――を召抱えるか、否か、聞きおいてあるまま、いまだに宿題として、決めかねていたことである。
推薦者の角兵衛は、
(まだ若年ゆえ、二百石を下し置かれれば)
といっているが、問題は禄高ではない。
一人の侍を養うことが、いかに重大か。殊に新参を入れる場合においては、なおさらであることは、呉々も、父の細川三斎からも、彼は教えられていた。
第一が、人物である。第二が、和である。いくら欲しい人間でも、細川家には、細川家の今日を築き上げた譜代がいる。
一藩を、石垣に喩えていうならば、いくら巨大な石でも、良質な石でも、すでに垣となって畳まれている石と石との間に、組み込める石でなければ使えないのである。均等のとれない物は、いかに、それ一箇が、得難い質でも、藩屏の一石とするわけにはゆかない。
天下には、可惜、そういう角が取れないために、折角の偉材名石でありながら、野に埋れている石が限りなくある。
殊に――関ヶ原の乱後には、たくさんある筈であった。けれど、手頃でどこの垣へでも嵌るような石は、抱える大名がその多いのを持て余し、これはと思う石には、圭角があり過ぎたり、妥協がなくて、自己の垣へはすぐ持って来られないのが多かった。
そういう点で、小次郎が、若年者であってしかも優れているということは――細川家へ仕官するには無難な資格であった。
まだ、石とまではならない、若い未成品だからである。