343・宮本武蔵「空の巻」「街の雑草(1)(2)」


朗読「343空の巻84.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 26秒

まち雑草ざっそう

 耕介こうすけつまは、かゆている。
 おく病人びょうにんのためにである。
 その台所だいどころのぞいて、
「おばさん、もううめ黄色きいろくなったよ」
 と伊織いおりおしえた。
 耕介こうすけつまは、
「ああ、れてたね、せみすし」
 と、なんの感激かんげきもない。
「おばさん、どうして、うめけないのさ」
小人数こにんずうだもの。あれだけけるには、しおだって沢山たくさんいるだろ」
しおくさらないけれど、うめけとかないとくさっちまうじゃないか。小人数こにんずうだって、戦争せんそうときだの、洪水こうずいときには、ふだんに要心ようじんしておかないとこまるぜ。――おばさんは病人びょうにん世話せわいそがしいから、おらがんでやるよ」
「まあ、このは、大洪水おおみずときのことまでかんがえているのかえ。子供こどもみたいじゃないね」
 伊織いおりはもう、物置ものおきはいって、空樽あきだるにわしている。そしてうめあおいだ。
 他家よそ世話女房せわにょうぼうたしなめるほど子供こどもげない才覚さいかく生活せいかつ自衛じえい心得こころえているかとおもうと、もうすぐはだとまっているミンミンぜみつけて、それにられていた。
 そっとって、伊織いおりは、せみをおさえつけた。せみかれなかで、老人ろうじん悲鳴ひめいみたいにてた。
 自分じぶんこぶしをながめて、伊織いおり不思議ふしぎかんたれている。せみにはがないはずなのに、せみからだ自分じぶんてのひらよりもあつかった。
 がないせみでも、ぬかきるかのさかいには、のようなねつからだからやすのであろう。――伊織いおりは、そこまではかんがえなかったが、ふとこわくなって、また可哀かわいそうになって、その大空おおぞらげてひらいた。
 せみは、となり屋根やねへぶつかってまちなかれてった――。伊織いおりはすぐうめへのぼりした。
 かなりおおきなだった。つつがなくそだった毛虫けむしは、おどろくほど美麗びれいっていた。天道虫てんとうむしもいたし、青葉あおばうらには、青蛙あおがえるもはりついていた。ちいさいちょうねむっていた。あぶっていた。
 人間にんげん世界せかいはなれたべつ世界せかいのぞいたように、伊織いおりは、見惚みとれていた。いきなりうめえだをユサユサすって、昆虫こんちゅうくに紳士淑女しんししゅくじょおどろかすのはどくみたいながしたのかもしれない。まずうすいろづいたうめ一個いっこもいで、ボリッと、かじった。
 そして手近てぢかえだから、すぶりはじめた。ちそうにえていて、うめ案外落あんがいおちない。とどでむしって、した空樽そらたるほうげた。
「――あっ、畜生ちくしょうっ」
 なにたのか、伊織いおりはふいにそう呶鳴どなって、いえ横手よこて露地ろじむかって、ぱらぱらッと、うめげつけた。
 垣根かきねわたしてあった物干竿ものほしざおが、それとともに、おおきなおとててちた。つづいて、あわてふためいた跫音あしおとが、露地ろじから往来おうらいしてった。
 きょうも、武蔵むさし外出がいしゅつしていて、その留守中るすちゅうのことなのである。
 細工場さいくばで、余念よねんなく、かたないでいた耕介こうすけは、竹窓たけまどからかおして、
「なんだ? いまおとは」
 と、をまるくした。

 伊織いおりは、うえから、りて――
「おじさん、露地ろじかげへ、またへんおとこて、しゃがみんでたよ。うめつけてやったら、びっくりして、げてったけれど、油断ゆだんしてると、またるかもしれないぜ」
 と、細工場さいくばまどげた。
 耕介こうすけは、きながらて、
「どんなやつだった?」
無法者むほうものだよ」
半瓦はんがわら乾児こぶんか」
「こないだのばんも、みせけてたろ。あんな風態ふうていさ」
ねこみたいなやつらだ」
なにねらいにるんだろ」
おく怪我人けがにんへ、仕返しかえしにやってるのだ」
「あ。北条ほうじょうさんか」
 伊織いおりは、病人びょうにんのいる部屋へやを、振返ふりかえった。
 病人びょうにんかゆべていた。
 その北条新蔵ほうじょうしんぞう負傷てきずも、もう繃帯ほうたいっていいほど恢復かいふくしていた。
「――御亭主ごていしゅ
 新蔵しんぞうがそこからぶので、耕介こうすけ縁先えんさきあるいてって、
「いかがですな」
 と、なぐさめた。
 食事しょくじぼん片寄かたよせて、新蔵しんぞうすわなおした。
耕介こうすけどの。おもわぬお世話せわ相成あいなった」
「どういたしまして。仕事しごとがあるのでついとどきませんで」
なにかとお世話せわばかりでなく、拙者せっしゃねら半瓦はんがわら部屋へやものが、えずこそこそまわるらしいな。長居ながいするほど迷惑めいわくはかさむし、万一当家まんいちとうけをするようでは、このうえにももうわけがない」
「そんなご斟酌しんしゃくは……」
「いやそれに、このとおり、からだ恢復かいふくいたしたから、今日きょうはもうおいとまをしようとおもう」
「え、おかえりですって」
「おれいには、後日改ごじつあらためておうかがいする」
「ま……おください。ちょうど今日きょうは、武蔵様むさしさまそとていらっしゃいますから、かえったうえで」
武蔵むさしどのにも、種々いろいろ手厚てあついお世話せわになったが、もどったらよろしくいってくれい。――このとお歩行ほこうなどにはもうすこしも不自由ふじゆうはないほどに」
「でも、半瓦はんがわらいえにいる無法者むほうものたちは、いつぞやのばんこも十郎じゅうろうと、お稚児ちご小六ころくというものを、あなたのためにころされたため、それをうらんで、あなたが一歩いっぽでも此家このや軒下のきしたたら喧嘩けんかをしかけようと、かまえておりまする。それで毎日毎夜まいにちまいよ、あのとおりちょいちょい様子ようすのぞきにておりますのに、それを承知しょうちで、お一人ひとりでここからかえすことはできませぬ」
なんの、こもやお稚児ちごったのは、こちらには、堂々どうどう理由りゆうのあること。かれらのうらみは逆恨さかうらみじゃ。それを、ことかまえて仕懸しかけてまいれば――」
「と、いっても、まだそのからだではこころもとのうござりまする」
「ご心配しんぱいかたじけないが大事だいじはござらぬ。御家内ごかないはどこにおられるか。御家内ごかないへもれいもうして……」
 と、新蔵しんぞうはもう、身支度みじたくなおして、がった。
 ひきめても、きかないので、夫婦ふうふもぜひなく、おくすと、ちょうどその店先みせさきへ、けたかおあせをたたえて、武蔵むさしそとからもどってた。
 出合であいがしらのをみはって、
「や。北条ほうじょうどの、何処どこかけられるか。――なに御帰宅ごきたくと。――そういう元気げんきになってくれたことはうれしいが、一人ひとりでは途中とちゅう物騒ぶっそう。よいところもどってた。拙者せっしゃ平河ひらかわ天神てんじんまでおおくりしよう」
 と、武蔵むさしはいった。