340・宮本武蔵「空の巻」「心形無業(5)(6)」


朗読「340空の巻81.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 22秒

 ている武蔵むさしのすそのほうへ、伊織いおりおそおそるかしこまって、
「ただいま
 と、いった。
 かれを、ここへとおした耕介こうすけは、すぐ跫音あしおとをひそめて、母屋おもやおく病室びょうしつへかくれた様子ようす――
 どことなく、きょうのこの陰気いんきだった。伊織いおりにも、かんじられる。
 それに、武蔵むさしているまわりには、木屑きくずがいっぱいらかっていて、ともしきって、あぶらかわいた燭台しょくだいもまだかたづけてない。
「……ただいま
 しかられることが、なによりもかれ心配しんぱいであった。で、おおきなこえないのであった。
「……だれだ」
 武蔵むさしがいう。
 をあいたのである。
伊織いおりでございます」
 すると武蔵むさしは、すぐおこした。そしてあしさきにかしこまっている伊織いおり無事ぶじをながめると、ほっとしたように、
伊織いおりか」
 と、いったが、それきりなにもいわなかった。
おそくなりました」
 それにもなにもいわず、伊織いおりがふたたび、
「すみません」
 と、お辞儀じぎしても、べつだんつぎいをはっせず、おびなおして、
まどけて、ここを掃除そうじしておけ」
 いいつけて、った。
「はい」
 伊織いおりは、家人かじんほうきりて、部屋へや掃除そうじにかかったが、なお、心配しんぱいになるので、武蔵むさしなにをしにったのかと、裏庭うらにわをのぞくと、武蔵むさしはそこの井戸いどばたでくちすすいでいた。
 井戸端いどばたのまわりには、青梅あおうめがこぼれている。伊織いおりは、それをるとすぐ、しおをつけてかじあじおもった。そして、あれをひろってけこんでおけば、一年いちねん中梅干じゅううめぼしこまらないのに、ここのひとはなぜひろってけないのかとかんがえたりした。
耕介こうすけどの。怪我人けがにん容態ようだいはどうじゃな」
 武蔵むさしは、かおきながら、そこからうらはし部屋へやへ、ことばをかけていた。
「だいぶ、落着おちついたようで」
 と、耕介こうすけこえもする。
「おつかれでござろう。あとすこかわりましょうかな」
 武蔵むさしがいうと、耕介こうすけは、それにはおよばないよしこたえて、
「ただ、このことを、平河天神ひらかわてんじん小幡景憲おばたかげのりさまじゅくまで、おらせしたいとおもいますが、人手ひとでがないので、どうしたものかと、それをあんじておりますが」
 と、相談そうだんする。
 それなら、自分じぶんくか、伊織いおり使つかいにすから――と武蔵むさしがひきうけて、やがて中二階ちゅうにかい箱段はこだんをのぼってると、部屋へやばやくもうかれてある。
 武蔵むさしは、すわなおして、
伊織いおり
「はい」
使つかいの返事へんじは、どうであったな」
 ――多分たぶん、いきなりしかられるにちがいないとおそれていた伊織いおりは、やっとニコついて、
ってまいりました。そして柳生様やぎゅうさまのおやしきにいる木村助九郎様きむらすけくろうさまからここに、御返事おへんじをもらってました」
 ふところおくのほうから、返書へんしょ一通いっつうして、かおをした。
「どれ。……」
 武蔵むさしばし、伊織いおりは、ひざをすすめてそのわたした。

 木村助九郎きむらすけくろうからの返辞へんじには、ざっと、こうした文言もんごんしたためてあった。
(――せっかくの御所望ごしょもうではあるが、柳生流やぎゅうりゅう将軍家しょうぐんけのお止流とめりゅう何人なんぴととも、公然こうぜん試合しあいはゆるされない。しかし、試合しあいとしておしあるのでなければ、ときって、主人しゅじん但馬守たじまのかみさまが、道場どうじょう御挨拶ごあいさつのある場合ばあいもある。――なお、って、柳生流真骨法やぎゅうりゅうしんこっぽうせっしたいというおのぞみならば、柳生兵庫様やぎゅうひょうごさまとお立合たちあいになるのが最上さいじょうおもうが――おりわるく、その兵庫様ひょうごさまには、本国ほんごく大和やまと石舟斎せきしゅうさいさま御病気再発ごびょうきさいはつのために、にわかに昨夜さくや大和やまとけておちになってしまった。かえすがえす遺憾いかんであるが、そういう御心配ごしんぱいもあるおりなので、但馬守様たじまのかみさま御訪問ごほうもん他日たじつになされてはどうか)
 と、むすんで、
(そのときにはまた、自分じぶん御周旋申ごしゅうせんもうしあげてもよい)
 と、追伸ついしんしてある。
「…………」
 武蔵むさしは、ほほみながら、なが巻紙まきがみをゆるゆるおさめた。
 かれ微笑びしょうると、伊織いおりはよけい安心あんしんした。その安心あんしんをしたところで、窮屈きゅうくつあしばして、
先生せんせい柳生やぎゅうさまのおやしきは、木挽町こびきちょうじゃないぜ。麻布あざぶくぼってとこさ、とてもおおきくて、立派りっぱいえだよ。そしてね、木村助九郎様きむらすけくろうさまが、いろんなものを、ご馳走ちそうしてくれた」
 れて、はなすと、
伊織いおり
 武蔵むさしまゆが、すこしむずかしくかわっている。その気色けしきに、伊織いおりはあわててまた、あしめて、
「はい」
 とあらたまる。
みち間違まちがえたにせよ、きょうは三日目みっかめ、あまり遅過おそすぎるではないか。どうしてこんなにおそかえってたか」
麻布あざぶやまで、きつねかされてしまったんです」
きつねに」
「はい」
野原のはら一軒家いっけんやそだってたおまえが、どうしてきつねになどかされたのか」
「わかりません。……けれど半日はんにち一晩中ひとばんじゅうきつねかされて、あとかんがえても、何処どこあるいたのか、おもせないんです」
「ふーム……。おかしいな」
「まったく、おかしゅうございます。いままできつねなんか、なんでもないとおもっていましたが、田舎いなかより江戸えどきつねのほうが、人間にんげんかしますね」
「そうだ」
 かれ真面目顔まじめがおていると、武蔵むさししかせて、
「そちは、なに悪戯いたずらしたろう」
「ええ、きつね尾行つけましたから、かされないうちにと要心ようじんして、あしだか尻尾しっぽだかりました。そのきつねが、あだをしたんです」
「そうじゃない」
「そうじゃありませんか」
「うム、をしたのは、えたきつねでなくて、えない自分じぶんこころだ。……ようく落着おちついてかんがえておけ。わしがかえってるまでに、そのわけいて、こたえるのだぞ」
「はい。……けれど先生せんせいは、これから何処どこかへくんですか」
麹町こうじまち平河ひらかわ天神てんじん近所きんじょまでってくる」
今夜こんやのうちに、かえってるんでしょうね」
「はははは、わしもきつねかされたら、三日みっかもかかるかもれぬぞ」
 きょうは伊織いおり留守るすにおいて、武蔵むさし梅雨つゆぐもりのそらしたった。