339・宮本武蔵「空の巻」「心形無業(3)(4)」


朗読「339空の巻80.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 43秒

 部屋へやもどると、かれ手枕たまくらで、木屑きくずなかへごろりとよこになった。
 夜具やぐべてないわけではないが、夜具やぐなかにはいる気持きもちがしないのである。
 きょうで二日ふつかふたばん
 伊織いおりはまだかえってない。
 みちまよっているにしてはながすぎる。もっとも使つかさき柳生家やぎゅうけであり、木村助九郎きむらすけくろうという知人ちじんもいるので、子供こどもだし、まああそんでけと、ひきめられて、いいになっているのかもれない――
 で、あんじながらも、それについては、さしてこころろうしてはいないが、きのうのあさから、とうってむかっている観音像かんのんぞうりには、だいぶ心身しんしんのつかれをかれおぼえていた。
 武蔵むさしは、そのりにむかって、技巧ぎこう心得こころえている玄人くろうとではない。また、かしこみちや、上手じょうずらしい小刀こがたなあとをつけて誤魔化ごまかしてゆく方法ほうほうらない。
 ただかれこころのなかには、かれえがいている観音かんのんかたちだけがある。かれは、無念むねんになって、そのこころのなかのものを、木彫きぼりとしてあらわそうとするだけにぎないが、その真摯しんしねらいどころが、となり、小刀こがたなさきうごきにまでくるあいだに、種々さまざま雑念ざつねんが、ねらうところの心形しんぎょう散漫さんまんみだしてしまう。
 そこでかれは、折角せっかくるところのものが、観音かんのんかたちになりかけると、それをけずって、またなおし、またみだれては、またなおし――何度なんどもそれをかえしているうちに、ちょうど鰹魚節かつおぶしつかけずってしまうように、あたえられた天平てんぴょう古材ふるざいも、いつか八寸はっすんちぢみ、五寸ごすんほどにせ、もうわずかに、三寸角さんずんかくぐらいまで、ちいさくしてしまっていた。
 ――時鳥ほととぎすこえ二度にどほどいたとおもううちに、かれ半刻はんこくほど、とろとろとねむった。ふとをさますと、かれ健康けんこう体力たいりょくは、あたま隅々すみずみ疲労ひろうまであらっていた。
今度こんどこそ」
 と、きるとともにすぐおもう。
 うら井戸いどって、かおあらう、くちすすぐ。そしてかれは、もうあかつきちかなおし、あらためて、また、彫刀ほりかたななおした。
 サク、サク、サク……
 と、ねむらないまえと、ねむったあととでは、小刀こがたな刃味はあじまでがちがってくる。古材ふるざいあたらしい木目もくめしたには、千年前せんねんまえ文化ぶんかこまやかなうずいている。もうこれ以上彫いじょうほそんじては、この貴重きちょう古材ふるざいはふたたび木屑きくずから一尺いっしゃく角材かくざいかえるよしもないのだ。どうしても、今夜こんやはうまくげなければならないとおもう。
 けんっててきむかったときのように、かれはらんらんとし、かれ小刀こがたなにはちからがこもっていた。
 ばさない。
 みずみにたない。
 よるしらんでたのも――小鳥ことりこえがしはじめてたのも――またこのいえが、かれ部屋へやあま以外いがいすべてはなされたのもまったくらずに――かれさんまいにはいっていた。
武蔵むさしさま」
 どうしたのか? ――とあんじてたように、あるじ耕介こうすけがうしろをけてはいってたので、かれはじめて、ぼねをばし、
「……ああ、だめだ」
 はじめて、小刀こがたなげていった。
 るともう、けずけずりしてせた木材もくざいは、その原型げんけいはおろか、拇指おやゆびほどものこらず、すべて、木屑きくずとなって、かれひざからまわりに、ゆきんだようになっていた。
 耕介こうすけは、をみはって、
「……あっ、だめですか」
「ウム、だめだ」
天平てんぴょう古材ふるざいは」
「みんなけずってしまった。――けずってもけずっても、なかから、とうとう菩薩ぼさつのおすがたがなかったよ!」
 こう、われにかえって、嘆声たんせいをもらすと、武蔵むさしはじめて、菩提ぼだい煩悩ぼんのう中間ちゅうかんから地上ちじょうはなおとされたように、両手りょうてあたまうしろにむすんで、
「だめだ。これからすこぜんでもやろう」
 と仰向あおむけにころんだ。
 そして、ねむるべくじてから、やっと、種々しゅじゅ雑念ざつねんって、なごんだ脳膜のうまくのうちに、ただ「くう」という一字いちじだけが、うとうとと、あたまなかただよっていた。

 朝立あさだちのきゃく物騒ものさわがしく土間どまからてゆく。おおくは博労ばくろうたちだった。この五日立ごにちたっていた馬市うまいち総勘定そうかんじょうも、きのうでかたづいたとかで、ここの旅籠はたごもきょうから閑散ひまになるらしい。
 伊織いおりは、今朝けさ、そこへかえってて、すたすたと二階にかいがりかけると、
「もしもし。どもしゅう
 と、宿やど内儀かみさんが、帳場ちょうばからあわててぶ。
 梯子段はしごだん中途ちゅうとから、伊織いおりは、
「なんだい」
 と、振向ふりむいて、お内儀ないぎさんの頭髪あたま禿はげをそこから見下みおろす。
「どこへきなさるのかね」
「おらか?」
「ああさ」
「おらの先生せんせい二階にかいとまってるから、二階にかいくのに、ふしぎはあるまい」
「へえ……?」と、あきかおして、
一体いったい、おまえさんは、何日いつここをかけたんだえ」
「そうだなあ?」
 ゆびって――
「おとといのまえだろ」
「じゃ、さきおとといじゃないか」
「そうそう」
柳生様やぎゅうさまとかへ、お使つかいにくといっていたが、今帰いまかえってたのかえ」
「あ。そうだよ」
「そうだよもないものだ、柳生やぎゅうさまのおやしき江戸えどうちだよ」
「おばさんが、木挽町こびきちょうだなんておしえたから、とんだまわみちをしちまったじゃないか。あそこは蔵屋敷くらやしきで、住居すまい麻布村あざぶむらくぼだぜ」
「どっちにしたって、三日みっかもかかるところじゃないじゃないか。きつねにでもかされていたんだろ」
「よくってるなあ。おばさん、きつね親類しんるいかい」
 揶揄からかいながら伊織いおりが、梯子段はしごだんをのぼりかけるのを、内儀かみさんはまた、あわててめて、
「もう、おまえの先生せんせいは、此宿ここにはとまっていないよ」
うそだい」
 伊織いおりは、ほんとにせず、がってったが、やがてぼんやりりてて、
「おばさん、先生せんせいは、ほか部屋へやかわったんだろ」
「もうおちになったというのにうたぐりぶかいだね」
「えっ、ほんとかいっ」
うそだとおもうなら、帳面ちょうめんをごらんよ、このとおり、お勘定かんじょうだってんでいる」
「ど、どうしてだろう、どうして、おらのかえらないうちに、っちまったんだろ」
「あんまり、お使つかいがおそいからさ」
「だって……」
 伊織いおりは、ベソをして、
「おばさん、先生せんせいは、どッちへってったか、らないか、なにか、いいいてったろ」
なにいてないね。きっと、おまえみたいなは、おともれてあるいても、やくたないから、てられたんだよ」
 いろをえて、伊織いおり往来おうらいした、――そして西にしひがしそらをながめて、ぽろぽろした様子ようすに、中剃なかぞり禿はげくしきながら、お内儀かみはケタケタわらった。
うそだよ、うそだよ。おまえの先生せんせいは、すぐまえ刀屋かたなやさんの中二階ちゅうにかいしたのさ。そこにいるから、かずにってごらん」
 今度こんどは、ほんとのことをおしえてやると、その言葉ことばおわるやいな内儀ないぎさんのいる帳場ちょうばなかへ、往来おうらいからうま草鞋わらじびこんできた。