338・宮本武蔵「空の巻」「心形無業(1)(2)」


朗読「338空の巻79.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 47秒

心形無業しんぎょうむぎょう

 ぼとっ――と、時折ときおり中庭なかにわやみ青梅あおうめちるおとがする。武蔵むさしは、いっすいむかってこごみこんだままかおげない。
 灯皿ひざらからえゆらぐちいさな燈火ともしびは、側近そばちか俯向うつむいているかれ蓬々ぼうぼうとした月代さかやきあざらかにらしてあまところがない。かれかみこわしょうえた。そして油気あぶらけがなくてややあかっぽい。またよくると、そのには、おおきなきゅうあとみたいな古傷ふるきずがある。幼少ようしょうときんだちょうという腫物できもののあとで、
(こんなそだにくがあろうか――)
 と、よくははなげかせたそのころの、きかない性分しょうぶんあとは、まだ、まざまざとえきらずにあった。
 ――かれいまこころのうちで、そのははをふとおもいうかべ、とうさききざんでいるかおが、だんだんははてくるようにおもわれた。
「…………」
 先刻さっき
 いや、たったいまがた
 ここの中二階ちゅうにかい障子しょうじそとから、このあるじ耕介こうすけが、はいるのをはばかって、
(まだ、御精ごせいていらっしゃいますか。ただいま店先みせさき佐々木小次郎ささきこじろうとかいうものがみえ、おにかかりたいようなことをいっていますが、おいなさいますか、それとも、もうおやすみだと、ていよくことわっておきましょうか……どうなさいますかな? ……どうにでも、おのままに、返事へんじをしておきますが)
 三度さんど部屋へやそとでいったようにはおもったが――武蔵むさしはそれに返辞へんじをしたかしないか――自分自身じぶんじしんわきまえていない。
 そのうちに、耕介こうすけが、
(あっ?)
 と、なに物音ものおときつけて、忽然こつぜんってしまったらしいが――それにもべつにかれず、武蔵むさしはなお、依然いぜんとして小刀こがたなさきを、はち九寸きゅうすんほどな彫刻ちょうこく木材もくざいけて、そこの小机こづくえから、ひざからのまわりまで、いっぱいな木屑きくずにしてかがんでいるのであった。
 かれは、観音像かんのんぞうろうとしていた。――耕介こうすけからもうけた無銘むめい名刀めいとうのかわりに――観音様かんのんさまってやる約束やくそくをしたので、きのうのあさから、それにかかっているのである。
 ところで、その依頼いらいについて、しょう耕介こうすけには、特別とくべつのぞみがあった。
 それはなにかというと、
折角せっかくあなたにっていただくものなら、自分じぶんが、年来秘蔵ねんらいひぞうしている古材ふるざいがあるので、それをおもちくださいませんか)
 とて、うやうやしくしてたのをると、なるほど、それはすくなくもろく七百年しちひゃくねん年数ねんすうらしてあったろうとおもわれる一尺いっしゃくほどな枕形まくらがた角材かくざい
 だが、こんな古材木ふるざいもくはしがなんで有難ありがたいのか、武蔵むさしには怪訝けげんであったが、かれ説明せつめい口吻こうふんのままかりていうと、これなん河内かわち石川郡東条いしかわぐんとうじょう磯長しなが霊廟れいびょうもちいられてあった天平年代てんぴょうねんだい古材ふるざいで、年久としひさしくれていた聖徳太子しょうとくたいし御廟ごびょう修築しゅうちくに、そのはしら取代とりかえをなしていたこころなき寺僧じそう工匠こうしょうが、これをって庫裡くりかまどたきぎとしてはこんでいたのをかけ、旅先たびさきではあったが、勿体もったいなさのあまり、一尺いっしゃくほどってもらってたものだとある。
 木目もくめはよし、小刀こがたなさわりもよいが、武蔵むさしは、かれ珍重ちんちょうしてかないのみでなく、失敗しくじると、えのないざいで――とおもうと、とうきざみが、ついかたくなった。
 ――がたんと、にわ柴折しおりを、夜風よかぜはずす。
「……?」
 武蔵むさしかおげた。
 そして、ふと、
伊織いおりではないかな?」
 と、つぶやいて、みみました。

 あんじている伊織いおりもどってたのではなかった。またうら木戸きどひらいたのもかぜのせいではないらしい。
 あるじ耕介こうすけが、呶鳴どなっていた。
「はやくせい、女房にょうぼう。なにをっけにとられている。ときあらそうほど、おも怪我人けがにんじゃ。手当次第てあてしだいたすかるかもしれぬ。寝床ねどこ? ――どこでもよいわ、はやくしずかなところへ」
 耕介こうすけのほかに、その怪我人けがにんになって、いて人々ひとびとも、
傷口きずぐちあら焼酎しょうちゅうはあるか。なくば自宅うちからってるが」
 とか――
医者いしゃへは、わしがんでってくる」
 とか、ややしばらく、ごたごたしている気配けはいであったが、やがてひと落着おちつきすると、
「ご近所きんじょしゅう、どうも有難ありがとうございました。どうやら、お蔭様かげさまいのちだけは、めそうな様子ようすでございますから、安心あんしんして、おやすみなすってくださいまし」
 挨拶あいさつしているのをくと、どうやらここのあるじ家族かぞくでも、不慮ふりょ災難さいなん出会であったかのように――武蔵むさしにはおもわれた。
 そこで、けないがしたのであろう、武蔵むさしは、ひざ木屑きくずはらって、中二階ちゅうにかい箱段はこだんりてった。そして廊下ろうかのいちばんすみからあかりがれているのでさしのぞくと、そこにかしてある瀕死ひんし負傷ておい枕元まくらもとに、耕介夫婦こうすけふうふが、かおせていた。
「……オオ、まだきておいでなされましたか」
 振返ふりかえって、耕介こうすけは、そっとせきをひらく。
 しずかに、武蔵むさしも、枕元まくらもとすわって、
「どなたでござるか」
 燈下とうかあお寝顔ねがおをのぞきながらくと、
おどろきました……」
 と、耕介こうすけはさもおどろいたふうをしめして、
らずにおたすけしたのでございますが、ここへれててみると、わたくしのお出入でいさきで、わたくしのもっと尊敬そんけいしている甲州流こうしゅうりゅう軍学者ぐんがくしゃ小幡おばた先生せんせい御門人ごもんじんではございませんか」
「ホ。このじんが」
「はい。北条新蔵ほうじょうしんぞう仰有おっしゃいまして、北条ほうじょう安房守あわのかみ御子息ごしそく――兵学へいがく御修行ごしゅぎょうなさるために、小幡先生おばたせんせいのお手許てもとに、長年ながねんつかえをしているおかたでございます」
「ふーム」
 武蔵むさしは、新蔵しんぞうくびいてあるしろぬのをそっとめくってみた。今焼酎いましょうちゅうあらったばかりの傷口きずぐち赤貝あかがい肉片にくへんほど、見事みごとかたなえぐばされていた。灯影あかりへこんだ傷口きずぐちそこまでとどき、淡紅色ときいろ頸動脈けいどうみゃくはありありとえるほど、露出ろしゅつしていた。
 髪一かみひとすじ――とよくいうが――この負傷ておい生命いのちは、まさ髪一かみひとすじのりとめていた。それにしても、このすごい――った太刀たち使つかは、いったい何者なにものだろうか。
 傷口きずぐちってかんがえると、この太刀たちは、したからげて、しかも燕尾えんびかえしたものらしい。さもなければこうあざやかに、頸動脈けいどうみゃくねらって、かいにくぐようにえぐれているはずはない。
 ――燕斬つばめきり!
 ふと、武蔵むさしは、佐々木小次郎ささきこじろう得意とくいとする太刀たちおもいうかべ、とたんに先刻せんこくの、あるじ耕介こうすけ自分じぶんしつそとから、そのおとずれをげたこえを――いまになってハッとおもいあわせたのであった。
事情じじょうは、わかっておるのか」
「いえ、なにもまだ」
「そうであろう。――しかし、下手人げしゅにんわかった。いずれ、負傷ておい本復ほんぷくしたうえでいてみるがよい。相手あいて佐々木小次郎ささきこじろうえた」
 武蔵むさしはそういって、自身じしんのことばに自身じしんうなずくのであった。