337・宮本武蔵「空の巻」「血五月雨(5)(6)(7)」


朗読「337空の巻78.mp3」13 MB、長さ: 約 14分 44秒

 ――しまったっ。
 と、小次郎こじろうほうげられたように、こしかけていた店框みせがまちからった。
 ――こっちのさくやぶれた!
 いや、さくのウラをかれた!
 武蔵むさしはいつのまにか、裏口うらぐちから戸外おもてへまわり、おすぎばばや、こもや、お稚児ちごや、手易てやすものさき挑戦ちょうせんしてったらしい。
「よしっ、そのぶんなら」
 かれは、やみ往来おうらいへ、ぱっとおどした。
 ときた!
 と、おもう。
 からだじゅうのにくがぎゅっとしまりながら、ぶるいするように闘志とうしがいきりつ。
(いつかはけんっておう)
 それは叡山えいざんから大津越おおつごえのとうげ茶屋ちゃやで、わかれにちかったことばである。
 わすれてはいない。
 そのときたのである。
 たといおすぎばばはかえちになっても、ばばの冥福めいふくには自分じぶん武蔵むさしをもって供養くようしてやろう。
 ――と瞬間しゅんかん小次郎こじろうあたまには、そんな義侠ぎきょう正義せいぎねんが、火花ひばなみたいにきぬけたが、十歩じゅっぽぶと、
「せ、先生せんせいっ」
 みちばたに、苦悶くもんしていた人間にんげんが、かれ跫音あしおとすがって、悲痛ひつうこえでさけんだ。
「やっ、小六ころく?」
「……られた! ……や、られました……」
十郎じゅうろうは、どうした。……おこもは」
「おこもも」
「なにっ」
 れば、そこから六間離ろっけんはなれたところに、もうむしいきとなっているおこも十郎じゅうろうあけにまみれたからだ見出みいだされた。
 えないのはおすぎばばのかげである。
 だが、それをさがいとまもなかった。小次郎自身こじろうじしんが、自身じしん警戒けいかいにそそけっているのだ。八方はっぽうやみがみな、武蔵むさしのすがたであるごとく、かれ五体ごたいにはかまえをようした。
小六ころく小六ころく
 ことぎれかかるお稚児ちごへ、かれ早口はやくち呶鳴どなって、
武蔵むさしは――武蔵むさしはどこへったか。武蔵むさしは?」
「ち、ちがう」
 小六ころくは、がらないくびを、りながら、やっといった。
武蔵むさしじゃねえ」
なに
「……む、武蔵むさしが、相手あいてじゃねえのです」
「な、なんだと?」
「…………」
小六ころくっ、もういちどいえ。武蔵むさし相手あいてではないというのか」
「…………」
 お稚児ちごはもうこたえなかった。
 小次郎こじろうあたまは、もんどりったようにみだれた。武蔵むさしでなくてだれが、一瞬いっしゅんにこの二人ふたりっててたか。
 かれは、こんどは、こも十郎じゅうろうたおれているそばへって、でびしょれになっているえりがみをつかみおこした。
十郎じゅうろうっ、確乎しっかりせいっ。――相手あいてだれだ、相手あいては、どっちへった?」
 すると、こも十郎じゅうろうは、びくっとひらいたが、小次郎こじろうたずねたこととも、この場合ばあい事件じけんとも、まったく関聯かんけいのないことを、臨終いまわいきで、くようにつぶやいた。
「おっあ、……おっあ……ふ、ふ、不孝ふこうを」
 きのう、かれなかみこんだばかりの「父母恩重経ぶもおんじゅうぎょう」が、やぶれた傷口きずぐちからきこぼれたのである。
 ――小次郎こじろうらず、
「ちいっ、なにをくだらぬ」
 とえりがみをはなした。

 ――と。何処どこかで、
小次郎こじろうどのか。小次郎こじろうどのかよ」
 と、おすぎばばのこえがする。
 こえをあてに、ってみると――これも無残むざんな。
 下水げすいだめなかに、ばばはんでいるのだった。かみかおに、菜屑なくずだのわらだのこびりつけて、
げてくだされ。はやく、げてくだされ」
 と、っている。
「ええ、このていは、いったいなんとしたことだ」
 むしろ腹立はらだまぎれである。ちからまかせにッぱりげると、ばばは、雑巾ぞうきんのようにべたっとすわって、
いまおとこは、もう何処どこぞへはしってしもうたか」
 と、小次郎こじろういたいことを、かえってう。
「ばば! そのおとことはそも、何者なにものなのだ」
「わしにはわけわからぬ――たださきほども、途中とちゅうだれづいたが、わしたちあと尾行つけたあの人影ひとかげちがいない」
「いきなり、こもとお稚児ちごへ、りつけてたのか」
「そうじゃ、まるで疾風はやてのようにな、なにかいうもない、かげから不意ふいて、こもどのをさきたおし、稚児ちご小六ころくが、おどろいてわすはずみに、もう何処どこられていたような」
「して、どっちへげたか」
「わしも、傍杖そばづえくって、こんなむさところちてしまったので、もせなんだが、跫音あしおとはたしかに、あっちへとおのいてった」
かわほうへだな」
 小次郎こじろうちゅうけた。
 よく馬市うまいち空地あきちけぬけ、柳原やなぎはらどてまでた。
 ったやなぎ材木ざいもくが、はら一部いちぶんである。そこに人影ひとかげえた。ちかづいてみるとちょうかごいて、かごかきがたむろしているのだった。
「オオ、駕屋かごや
「へい」
「この横丁よこちょう往来おうらいに、れのものがふたりられてたおれている。それに下水溜げすいだまりへちた老婆ろうばとがいるから、かごにのせて、大工町だいくちょう半瓦はんがわらいえまでおくとどけておいてくれい」
「えっ、辻斬つじぎりですか」
辻斬つじぎりるのか」
「いやもう、物騒ぶっそうで、こちとらも、迂濶うかつにゃあるけやしません」
下手人げしゅにんはたったいま、そこの横丁よこちょうからはしってたはずだが、其方そちらたちは、かけなかったか」
「……さあ、いまですか」
「そうだ」
いやだなあ」
 かごかきは、空駕からかご三挺さんちょうを、のこらずかついで、
旦那だんな駄賃だちんはどちらでいただくんですえ?」
半瓦はんがわらいえでもらえ」
 小次郎こじろうはいいてて、また、そこらをまわった。かわべりをのぞいてみたり、材木ざいもくかげあらためてみたりしたが、どこにも見当みあたらなかった。
辻斬つじぎりだろうか?)
 すこもどると火除地ひよけちきり木畑きばたがある。そこをとおって、かれはもう半瓦はんがわらいえもどろうとかんがえていた。出鼻でばな不首尾ふしゅびではあるし、おすぎばばがいないでは意味いみがない。また、こうみだれた気持きもち武蔵むさしけんのあいだに相見あいみることは、けるほうが賢明けんめいで、あたってゆくのはおろかであるとかんがえたからである。
 すると。
 桐林きりばやしみちのわきから、ふいにやいばらしいひかりがうごいた。ハッとけるもなかった。あたまうえきり五枚ごまいばさっとれてりながら、そのはやひかりはすでにかれあたまのぞんでいた。

「――卑怯ひきょうッ」
 と、小次郎こじろうはいった。
卑怯ひきょうでない」
 と太刀たちは、ふたたび、かれ退いたかげい――ばさっと青桐あおぎり木陰こかげから、やみやぶって、した。
 三転さんてんして、小次郎こじろうは、七尺ななしゃく退き、
武蔵むさしともあろうものが、なぜ尋常じんじょうに――」
 と、いいかけたが、そのことばを途中とちゅうからおどろきのこええて、
「やッ、だれだっ? ……。おのれは何者なにものだ。ひとちがいするな」
 と、いった。
 さん太刀たちまでわされたおとこかげは、はやかたいきをついていた。よん太刀たちはもう、自己じこ戦法せんぽうって、中段ちゅうだんにすえたまま、かたな錺子ぼうしやし、じりじりせまなおしてるのである。
「だまれ。人違ひとちがいなどいたそうか。平河天神ひらかわてんじん境内けいだい小幡おばた勘兵衛かんべえ景憲かげのり一弟子いちでし北条新蔵ほうじょうしんぞうとはわしがこと。こういったら、もうはらにこたえたであろうが」
「あっ、小幡おばた弟子でしか」
「ようもわがはずかしめ、またかさねて同門どうもんともを、さんざんにったな」
武士ぶしならい、たれて口惜くやしければ、いつでもい。そういえば、佐々木小次郎ささきこじろうげかくれするさむらいではない」
「おおっ、たいでおくか」
てるか」
たいでか」
 しゃく――また二寸にすん――三寸さんずん
 ってるのをつめながら、小次郎こじろうはしずかに、むねをひらき、右手みぎてこし大刀だいとううつして、
「――いっ」
 とさそう。
 はっと、そのさそいに、相手あいて北条新蔵ほうじょうしんぞうが、戒心かいしんったせつなに、小次郎こじろうからだが――いやこしからうえ上半身じょうはんしんだけが――びゅっとれて、ひじつるったかとえたが、
 ――ちりん!
 つぎ瞬間しゅんかんに、かれかたなつばは、かれさやもどっていた。
 むろん、やいばさやだっし、そしてさやかえっていたのであるが、肉眼にくがんえる速度そくどではない。ただ、一線いっせんのほそいひかりが、相手あいて北条新蔵ほうじょうしんぞうくびすじのあたりへ、キラと、とどいたか、とどかないかと、おもえたくらいなものであった。
 だが――
 新蔵しんぞうからだは、まだまたみひらいたままっているのだ。らしいものは、どこにもながれてはいない。けれど、なにかの打撃だげきをうけたことは事実じじつである。なぜなら、かたな中段ちゅうだんささえたままっているが、ひだり片手かたては、ひだりくびすじを、無意識むいしきおさえていた。
 ――と。そのからだはさんで、
「あっ? ……」
 これは、小次郎こじろうこえとも、うしろのやみでしたこえとも、どっちつかないところからおこったのである。小次郎こじろうもそれにってすこしあわて、やみなかからけて跫音あしおとも、それにって、あしはやめてた。
「おおっ、どうなされた」
 けつけてたのは、耕介こうすけであった。棒立ぼうだちのおとこ姿勢しせいが、すこしおかしいとおもったので、ささえようとすると、とたんに北条新蔵ほうじょうしんぞうからだは、どたっと朽木くちきだおれに、あやうく大地だいちたおれかけた。
 耕介こうすけは、りょう不意ふいおもみをかけられておどろきながら、
「やっ、られてるな。――だれてくれいっ。往来おうらいしゅうでも、このちかくのおひとでも、だれてくれ。ひとられているっ――」
 と、やみむかってどなった。
 そのこえともに、新蔵しんぞうくびすじから、ちょうどはまぐり片貝かたがいほど、にくぎとられている傷口きずぐちが、ぱくとあかくちをあいて、こんこんとぬる液体えきたいを、耕介こうすけうでからすそへそそぎかけた。