332・宮本武蔵「空の巻」「仮名がき経典(1)(2)」


朗読「332空の巻73.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 17秒

仮名かながき経典きょうてん

「オヤ、おばば、手習てならいか」
 いまそとからもどってたおこも十郎じゅうろうは、おすぎばばの部屋へやをのぞきむと、あきれたようなまた感心かんしんしたような――かおをした。
 そこは、半瓦はんがわら弥次兵衛やじべえいえ
 ばばは振向ふりむいて、
「おいのう」
 とこたえたのみで、うるさそうにまた、ふでなおし、なにもの余念よねんがない。
 おこもは、そっとそばすわって、
「なんだ、お経文きょうもんうつしているんだな」
 と、つぶやく。
 ばばがみみかたむけないので、
「もういいとしよりのくせに、いまから手習てならいなんぞして、どうするつもりだ。あの手習てなら師匠ししょうでもするかえ」
「やかましい。写経しゃきょうは、無我むがになってせねばならぬ。んでくだされ」
今日きょうそとで、ちとみみよりなひろものをしたので、はやくかしてやろうとおもってかえってたのに」
あときましょう」
「いつおわるのか」
一字一字いちじいちじ菩提ぼだいこころになって、ていねいにくので、一部書いちぶかくにも三日みっかはかかる」
げえこったな」
三日みっかはおろか、この夏中なつじゅうには、何十部なんじゅうぶしたためましょう。そして生命いのちのあるうちには、千部せんぶ写経しゃきょうしてなか親不孝者おやふこうものに、のこしてにたいとおもっているのじゃ」
「ヘエ、千部せんぶも」
「わしの悲願ひがんじゃ」
「そのうつした経文きょうもんを、親不孝者おやふこうもののこすというのは、いったいどういう理由わけか、かしてもらいてえもんだな。自慢じまんじゃねえが、こうえても、親不孝おやふこうほうじゃあ、おれもけねえくみだが」
「おぬしも、不孝者ふこうものか」
「ここの部屋へやにごろついている極道者ごくどうものは、みんな親不孝峠おやふこうとうげえてくずれにきまってらアな。――孝行こうこうなのは、親分おやぶんくれえのもんだろう」
なげかわしいなかよの」
「あはははは。ばあさん、ひどくおめえ悄気しょげてるが、おめえのも、極道者ごくどうものとみえるな」
「あいつこそ、親泣おやなかせの骨頂こっちょうに、又八またはちのような不孝者ふこうものもおろうかと、この父母恩重経ぶもおんじゅうぎょう写経しゃきょうおもち、なか不孝者ふこうものませてやろうと悲願ひがんてたが――親泣おやなかせは、そんなにも、おおいものかのう」
「じゃあ、その父母恩重経ぶもおんじゅうぎょうとやらを、生涯しょうがい千部写せんぶうつして、千人せんにんけてやるか」
一人ひとり菩提ぼだい胚子たねをおろせば、百人ひゃくにんしゅうし、百人ひゃくにん菩提ぼだいなえしょうずれば、千万人せんまんにんすともいう。わしの悲願ひがんは、そんなちいさいものじゃない」
 と、おすぎはいつかふでいてしまって、かたわらにかさねてあるうつおわりのうす写経五しゃきょうご六部ろくぶのうちから一冊いっさつをぬいて、
「――これを其方そなたあたえますから、ひまのあるたびにんだがよい」
 と、うやうやしくさずけた。
 おこもは、ばばの真面目まじめくさったかおに、ぷッとふきだしかけたが、鼻紙はながみのように懐中ふところへねじこむわけにもゆかず、写経しゃきょうひたいてて、ちょっとおが恰好かっこうをしながら、
「ところで」
 と、わすように、きゅうはなしをすげえた。
「――おばば、てめえの信心しんじんとどいたか、今日きょう外出そとでさきで、おれはえらいやつわしたぜ」
なに。えらいものったとは」
「おばばが、かたきとねらってさがしている、宮本武蔵みやもとむさしという野郎やろうよ。――隅田川すみだがわ渡船わたしからりたところかけたんだ」

「えっ、武蔵むさし出会であったと?」
 くと、ばばはもう、写経しゃきょうどころではない。つくえしやって、
「して、どこへきましたぞえ。そのさきを、めてくれたかよ」
「そこは、おこも十郎じゅうろうだ、はねえ。野郎やろうわかれるふりをして、横丁よこちょうにかくれ、あと尾行つけてゆくと、ばくろちょう旅籠はたごでわらじをいだ」
「ウウム、ではこの大工町だいくちょうとは、まるでもくはなさきではないか」
「そうちかくもねえが」
「いやちかちかい。きょうまでは、諸国しょこくをたずね、幾山河いくさんがへだてている心地ここちがしていたのが、おな土地とちにいるのじゃもののう」
「そういやあ、ばくろちょう日本橋にほんばしのうち、大工町だいくちょう日本橋にほんばしうち十万億土じゅうまんおくどほどとおくはねえ」
 ばばは、すっくとって、袋戸棚ふくろとだななかをのぞきこみ、かねて秘蔵ひぞう伝家でんかみじかひとこしをると、
「おこもどの、案内あんないしてたも」
「どこへ」
れたことじゃ」
「おそろしくげえかとおもうとまた、おそろしくみじけえなあ。いまからばくろちょう出向でむか」
「おいの。覚悟かくごはいつもしていることじゃ。ほねになったら、美作みまさか吉野郷よしのごう本位田ほんいでんほねおくってくだされ」
「まあ、ちねえ。そんなことになったひにゃあ、折角せっかくみみよりな手懸てがかりをつけてながら、おれが親分おやぶんしかられてしまう」
「ええ、そのような、気遣きづかいしておられようか。いつ武蔵むさしが、旅籠はたごってしまわぬともかぎらぬ」
「そこは、大丈夫だいじょうぶ、すぐ部屋へやにごろついているのを一匹いっぴき張番はりばんにやってある」
「では、がさぬことを、おぬしがきっと保証ほしょうしやるか」
「なんでえまるで……それじゃあこっちがおんるようなものじゃねえか。――だがまあ仕方しかたがねえ、としよりのことだ、保証ほしょうした保証ほしょうした」
 とこもは、なだめて、
「こんなときこそ、落着おちついて、もちッとその写経しゃきょうとやらをやっていなすっちゃどうだ」
弥次兵衛やじべえどのは、きょうもお留守るすか」
親分おやぶんは、講中こうちゅうのつきあいで、秩父ちちぶ三峰みつみねったから、いつかえるかわからねえ」
「それをって、相談そうだんをしてはおられまいが」
「だからひとつ、佐々木様ささきさまてもらって、ご相談そうだんをしてみなすっちゃどうですえ」

 あくあさ
 ばくろちょうって、武蔵むさし張番はりばんっているわかものからの諜報ちょうほうによると、
武蔵むさしはゆうべおそくまで、旅籠はたごまえ刀屋かたなやってはなしこんでいたらしいが、今朝けさ旅籠はたご引払ひきはらって斜向すじむかいの刀研かたなとぎ厨子野耕介ずしのこうすけいえ中二階ちゅうにかいうつった)
 とある。
 おすぎばばは、それたことかといわんばかりに、
やれ、さききている人間にんげんじゃ、じっと、何日いつまでひとところにいるものかいの」
 と、おこもへいって、今朝けさは、焦々いらいらと、写経しゃきょうつくえすわりかねている容子ようす
 だが、ばばの気性きしょうは、おこも半瓦はんがわら部屋へやものも、いまではみなよくりぬいているところとなっているので、にもかけず、
「いくら武蔵むさしだって、はねえているわけじゃなし、まあそう、焦心あせりなさんなッてえことよ。あとで、お稚児ちご小六ころくが、佐々木様ささきさまところって、とく相談そうだんしてるといっているから――」
 こもがいうと、
「なんじゃ、小次郎殿こじろうどののところへ、昨夜ゆうべくといっていながら、まだっていないのか。――面倒めんどうな、わしが自身じしんってほどに、小次郎殿こじろうどの住居すまい何処どこおしえてたも」
 と、ばばは、自分じぶん部屋へやにあって、もう身支度みじたくせわしない。