331・宮本武蔵「空の巻」「飛札(5)(6)」


朗読「331空の巻72.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 15秒

 兵庫ひょうごとおつうのすがたをると、
「――あっ」
 なにおもったか、伊織いおりは、やにわにきて、
「ちくしょうッ」
 と、りつけてた。
「あれっ」
 おつうがさけぶと、おつうへも、
きつねめ。このきつねめ」
 子供こども小腕こうでだし、かたなちいさいが、あなどがたいのは、その血相けっそうである。なにか、うつっているようにかかってむこずな切先きっさきには、兵庫ひょうごも、一歩いっぽ退かなければならなかった。
きつねめ。きつねめ」
 伊織いおりこえは、老婆ろうばみたいにシャれていた。兵庫ひょうご不審ふしんおもって、かれ鋭鋒えいほうを、そのなすがままにけて、しばらくながめていると、やがて、
「――どうだッ!」
 伊織いおりは、そのかたなふるって、ひょろなが一本いっぽん灌木かんぼくをズバリとり、半身はんしんがばさっとくさむらへたおれると、自分じぶんともに、へなへなとすわって、
「どうだ! きつね
 と、かたいきをついているのであった。
 その容子ようすが、いかにも、てきってぶるいでもしているようなていなので、兵庫ひょうごはじめてうなずきながら、おつうかえりみて微笑びしょうした。
「かあいそうに、このわっぱは、きつねかれているらしい」
「……ま、そういえば、あのこわは」
「さながらきつねだ」
たすけてやれないものでしょうか」
狂人きょうじん馬鹿ばかなおらないが、こんなものはすぐなおる」
 兵庫ひょうごは、伊織いおりまえまわって、かれかおをじいっと、めつけた。
 くわっと、をつりあげた伊織いおりはまた、かたななおして、
「ち、畜生ちくしょう、まだいたかっ」
 がろうとする出鼻でばなを、兵庫ひょうご大喝だいかつが、かれみみをつきぬいた。
「ええーいッ」
 兵庫ひょうごはいきなり、伊織いおりからだを、横抱よこだきにしてした。そしてさかくだると、さっきわたった街道かいどうはしがある。そこで、伊織いおり両脚りょうあしって、はししたから欄干らんかんそとげた。
「おっさあん!」
 金切声かなきりごえで、伊織いおりはさけんだ。
「おとっさん!」
 兵庫ひょうごはまだ、はなさずに、げていた。すると三声目さんせいめは、ごえで、
先生せんせいっ。たすけてくださいっ」
 といった。
 おつううしろからけてて、兵庫ひょうごむご仕方しかたに、自分じぶんくるしむように、
「いけません、いけません、兵庫ひょうごさま! よそのを、そんなむごいことをしては――」
 いうあいだに、兵庫ひょうごは、伊織いおりからだはしうえうつして、
「もうよかろう」
 と、はなした。
 わあん、わあん……と伊織いおり大声おおごえした。この自分じぶんごえいてくれるもの一人ひとりもないことをかなしむように、愈々いよいよこえをあげていた。
 おつうは、そばへって、かれかたをそっとさわってみた。もう先刻せんこくのように、そのかたかたとがっていなかった。
「……おまえ、どこの?」
 伊織いおりは、きじゃくりながら、
「あっち」
 とゆびさした。
「あっちって、どっち」
江戸えど
江戸えどの?」
「ばくろちょう
「まあ、そんな遠方えんぽうから、どうしてこんなところたの」
使つかいにて、迷子まいごになっちまったんだ」
「じゃあ、昼間ひるまからあるいているんですね」
「ううん」
 と、かぶりをりながら、伊織いおりはすこし落着おちついてこたえた。
昨日きのうからだい」
「まあ。……二日ふつかまよっていたのかえ」
 おつうは、あわれをもよおして、わらにもなれなかった。

 彼女かのじょは、かさねて、
「そして、お使つかいとは、どこへお使つかいに?」
 くと、伊織いおりは、いてくれるのを、っていたように、
柳生様やぎゅうさま
 と、言下げんかだった。
 そしてそれひとつだけは、生命いのちがけでっていたように、苦茶くちゃになった手紙てがみを、へそあたりからし、上書うわがき文字もじほしかして、
「そうだ、柳生様やぎゅうさまなかにいる、木村助九郎様きむらすけくろうさまってえひとへ、この手紙てがみってくんだよ」
 と、さらにいいくわえた。
 ああ、伊織いおりなんでその手紙てがみを、折角せっかく親切しんせつひとへ、ちょっとでもせないのか。
 使命しめいおもんじているのか。
 または、えない運命うんめいなにものかがこんな場合ばあいものかげにいて、わざとそうさせずにいるのか。
 伊織いおりが、彼女かのじょのすぐまえで、しわだらけにしてにぎっている手紙てがみは、おつうにとって、七夕たなばたほしほしとよりもまれれに、ここ幾年いくねんゆめにのみて、いもず、便たよりもなかったひとの――天来てんらい機縁きえんめぐまれるものではないか。
 それをまた。
 ――らないということはぜひもない。おつうもべつに、をとめて、ようともせず、
兵庫ひょうごさま、このは、おやしき木村様きむらさまたずねてたのだそうです」
 と、あらぬほうへ、かおけてしまう。
「ではまるで、方角ほうがくちがいを彷徨さまよっていたな。――だが子供こども、もうちかいぞ。このかわながれに沿ってしばらくくと、ひだりほうのぼりになる。そこの三叉道みつまたみちから、おおきな女男松めおとまつのあるほうのぞんでゆけ」
「また、きつねかれないように」
 と、おつうあやぶむ。
 だが、伊織いおりは、ようやくきりのはれたような心地ここちがして、もう大丈夫だいじょうぶ自信じしんったらしく、
「ありがとう」
 と、した。
 渋谷川しぶやがわ沿って、すこったかとおもうと、かれは、あしをとめて、
ひだりだね。――ひだりほうのぼるんだね」
 と、ねんしながら、ゆびさしていう。
「うむ」
 兵庫ひょうごうなずきをおくって、
くらところがあるぞ。をつけてけよ」
 ――もう返辞へんじもしない。
 伊織いおりかげは、若葉わかばのふかい丘道おかみちなかへ、われるようにかくった。
 兵庫ひょうごとおつうは、まだはしらんのこって、なに見送みおくるともなくていた。
するどいな、あのわっぱは」
かしこいところがありますね」
 彼女かのじょは、むねなかで、城太郎じょうたろうおもいくらべていた。
 彼女かのじょえがいている城太郎じょうたろうは、いま伊織いおりすこしたぐらいなものであるが、かぞえてみると、今年ことしはもう十七歳じゅうななさいになる。
(どんなにかわったろう)
 と、おもう。
 ひいてはまた、武蔵むさしいたいような物思ものおもいが、むねさきへつのりかかってたが、
(いや、ひょっとしたら、おもいがけない旅先たびさきで、かえっておにかかれようもれぬ)
 と、はかなたのみにまぎらわしてしまうべく、このごろは、こいくるしみにえることにもれた心地ここちである。
「おういそごう。こよいは仕方しかたがないが、この先々さきざきでは、もうみちぐさはしておられぬぞ」
 兵庫ひょうごは、自分じぶんいましめていう。どこか暢気のんき兵庫ひょうごには、そういう弱点じゃくてんのあることを、自分じぶんでもかんじているらしいのだ。
 ――かくておつうも、みちいそいだが、こころみちくさにもいて、
(あのくさはなも、武蔵むさしさまがんだくさではなかろうか)
 などと、れにもかたれぬおもいばかりをひとむねえがいてはあるいた。