328・宮本武蔵「空の巻」「懸り人(1)(2)(3)」


朗読「328空の巻69.mp3」14 MB、長さ: 約 15分 10秒

かかゅうど

 さかきゅうであった。
 兵庫ひょうごは、こま口輪くちわをつかみ、になってうま脚元あしもとめながら、
「おつうどの、おそかったなあ」
 くらうえあおいでいった。
「――参詣さんけいにしては、あまおそいし、れかかるので、叔父上おじうえあんじておられる。――で、むかえにたわけだが、何処どこぞへ、まわみちでもしてたのか」
「ええ」
 おつうは、くらまえつぼへ、かがめながら、それにはこたえず、
勿体もったいない」
 と、いって、こまからりてしまった。兵庫ひょうごは、あしをとめて、
「なぜりるのじゃ。っておればよいのに」
 と、かえりみる。
「でも、あなたさま口輪くちわらせて、女子おなごのわたくしが……」
相変あいかわらず遠慮えんりょぶかいなあ。さりとて、女子おなご口輪くちわをつかませて、わしがってかえるのもおかしい」
「ですから、二人ふたりして、口輪くちわってまいりましょう」
 と、おつう兵庫ひょうごは、こま平首ひらくびはさんで、両側りょうがわから口輪くちわった。
 さかりるほど、みちくらくなった。そらはもうしろほしだった。たに所々ところどころには、人家じんかあかりがともっている。そして渋谷川しぶやがわみずおとをたててながれてゆく。
 その谷川橋たにがわばしのてまえが、北日きたひくぼであり、むこうのがけを、南日みなみひくぼとこのへんではんでいる。
 その橋手前はしてまえから北側きたがわ崖一帯がけいったいは、看栄かんえい稟達和尚りんたつおしょう創始そうしされたという、ぼうさんの学校がっこうになっていた。
 さか途中とちゅう今見いまみえた「曹洞宗そうとうしゅう大学林だいがくりん栴檀苑せんだんえん」といてあったもんがその入口いりぐちなのである。
 柳生家やぎゅうけやしきは、ちょうど、その大学林だいがくりんむかって、南側みなみがわがけめているのであった。
 だから、たにあいの渋谷川しぶやがわ沿ってんでいる農夫のうふや、小商人こあきんどたちは、大学林だいがくりん学僧がくそうたちをきたしゅうとよび、柳生家やぎゅうけ門生もんせいたちをみなみしゅうんでいた。
 柳生兵庫やぎゅうひょうごは、門生もんせいたちのなかじっているが、宗家そうけ石舟斎せきしゅうさいまごにあたり、但馬守たじまのかみからはおいにあたるので、ひとり別格べっかくな、そして自由じゆう立場たちばにあった。
 大和やまと柳生本家やぎゅうほんけたいして、ここはまた、江戸柳生えどやぎゅうしょうされていた。そして本家ほんけ石舟斎せきしゅうさいが、もっと可愛かわいがっていたのは、まご兵庫ひょうごなのだった。
 兵庫ひょうご二十歳はたちるともなく、加藤清正かとうきよまさ懇望こんもうされて、破格はかく高禄こうろくで、いちど肥後ひご召抱めしかかえられてゆき、禄三千石ろくさんぜんごくんで熊本くまもと居着いつくことになっていたが――せき原以後はらいごの――いわゆる関東かんとう味方組みかたぐみと、上方かみがた加担かたん大名だいみょうとのいろわけには、複雑極ふくざつきわまる政治的せいじてき底流ていりゅうがあるので去年きょねん
宗家そうけ大祖父おおそふ危篤きとくのため)
 というよい口実こうじつおりに、いちど大和やまとかえり、その以後いごは、
(なお、修行しゅぎょうのぞみあれば)
 としょうして、それなり肥後ひごかえらず、一両年いちりょうねんのあいだ諸国しょこく修行しゅぎょうにあるいて、去年きょねんからこの江戸柳生えどやぎゅう叔父おじもとに、あしをとめているであった。
 その兵庫ひょうごは、ことし二十八歳にじゅうはっさいであった。おりから、この但馬守たじまのかみ屋敷やしきには、おつうという一女性いちじょせい居合いあわせた。年頃としごろ兵庫ひょうごと、年頃としごろのおつうとは、すぐしたしくなったが、おつううえには複雑ふくざつ過去かこがあるらしいし、叔父おじもあるので、兵庫ひょうごはまだ、叔父おじにも彼女かのじょにも、自分じぶんかんがえは、一度いちどくちしたことはなかった。

 ――だが、なおここで、説明せつめいしておかなければならないことは、おつうがどうして、柳生家やぎゅうけせていたかということである。
 武蔵むさしそばはなれて、おつうが、その消息しょうそくってしまったのは、もう足掛あしか三年さんねんまえ――京都きょうとから木曾街道きそかいどうて、江戸表えどおもてむかってた――あの途中とちゅうからのことだった。
 福島ふくしま関所せきしょと、奈良井ならい宿やどのあいだで、彼女かのじょっていた魔手ましゅは、彼女かのじょ脅迫きょうはくして、うませ、山越やまごえをして、甲州方面こうしゅうほうめんげのびたあしどりだけはまえべておいた。
 その下手人げしゅにんは、まだ読者どくしゃ記憶きおくにもそうとおくはなっていないはずの――れい本位田ほんいでん又八またはちであった。おつうは、その又八またはち監視かんし束縛そくばくをうけながらも、たまいだくように、貞操ていそう護持ごじして、やがて武蔵むさし城太郎じょうたろうなど、はぐれた人々ひとびとが、それぞれのみち辿たどって江戸えどんでいたであろうころには――彼女かのじょ江戸えどにいたのであった。
 何処どこに。
 また、なにをして。
 と――いまそれをつぶさにすとなると、ふたたび、二年前にねんまえさかのぼってかたなおさなけれはならなくなるから、ここでは、以下簡略いかかんりゃくに、柳生家やぎゅうけすくわれた経路けいろだけを概説がいせつすることにとどめておく。
 又八またはちは、江戸えどくと、
(とにかくみちさきだ)
 と、しょくさがした。
 もとより、しょくをさがしてあるくにも、おつう一刻いっこくはなさない。
上方かみがたから夫婦者ふうふもので――)
 と、どこへっても、自称じしょうしていたのである。
 江戸城えどじょう改築かいちくをしているので、石工いしく左官さかん大工だいく手伝てつだいなどならそのからでも、仕事しごとがあったが、城普請しろぶしん労働ろうどうつらあじは、伏見城ふしみじょうでもさんざんめているので、
(どこか、夫婦ふうふしてはたらけるようなところか、いえにいてやる筆耕ひっこうみたいな仕事しごとでもありますまいか)
 と、相変あいかわらず、優柔不断ゆうじゅうふだんなことばかりいいあるいているので、多少肩身たしょうかたみれかけてくれたものも、
(いくら江戸えどでも、そんなむしのいい、お前方まえがた注文ちゅうもんどおりな仕事しごとがあるものか)
 と、あいそをつかして、見向みむきもされなくなってしまうというふうであった。
 ――そんなことで、幾月いくつきかをごすうち、おつうは、つとめて、かれ油断ゆだんさせるよう、貞操ていそうにふれないかぎりでは、なんでも、素直すなおになっていた。
 そのうち、彼女かのじょ往来おうらいあるいていると、二階笠にかいかさもんをつけたはさばこ駕籠かご行列ぎょうれつった。路傍みちばたけてれい人々ひとびとささやきをくと、
(あれが、柳生様やぎゅうさまじゃ)
将軍家しょうぐんけのおをとって、御指南ごしなんなさる但馬守たじまのかみさまじゃ)
 ――おつうはふと、大和やまと柳生やぎゅうしょうにいたころおもし、柳生家やぎゅうけ自分じぶんとの由縁ゆかりかんがえ、ここが大和やまとくにであったらなどと、はかなたよりをむねいて、そのときも、又八またはちそばにいたので茫然ぼうぜん見送みおくっていると、
(オオ、やはり、おつうどのだ。――おつうどの、おつうどの)
 と、路傍みちばた人々ひとびとらかるなかさがもとめて、うしろからこうめたひとがある。
 いま但馬守たじまのかみかごわきにあるいていた菅笠すげがささむらいで――なんと、かお見合みあえば、柳生やぎゅうしょうでよく見知みしっている――石舟斎せきしゅうさい高弟木村助九郎こうていきむらすけくろうではないか。
 慈悲光明じひこうみょう御仏みほとけすくいの使つかいをたもうたかとばかり――おつうは、すがって、
(オ。あなたは)
 と、又八またはちてて、かれのそばへはしった。
 そのから、彼女かのじょは、助九郎すけくろうれられて、くぼ柳生家やぎゅうけすくわれてった。もちろんとんび油揚あぶらあげさらわれたかたち又八またはちも、だまっているはずはなかったが、
はなしがあるなら、柳生家やぎゅうけい)
 と、助九郎すけくろう一言ひとことに、口惜くやしげにくちげたまま、れい臆心おくしんと、柳生家やぎゅうけに、おともいえず見送みおくってしまったわけである。

 石舟斎せきしゅうさいはいちども江戸表えどおもてへはなかったが、秀忠将軍ひでただしょうぐん指南役しなんやくという大任たいにんをうけて、江戸えど新邸しんていかまえている但馬守たじまのかみは、本国柳生ほんごくやぎゆうしょうにいながらも、たえずあんじているらしかった。
 いま江戸えどはおろか、全国的ぜんこくてきにまで、
御流儀ごりゅうぎ
 といえば、将軍家しょうぐんけまな柳生やぎゅう刀法とうほうのことであり、
天下てんか名人めいじん
 といえば、第一指だいいっしに、だれしも、但馬守たじまのかみ宗矩むねのりるほどであった。
 けれど、その但馬守たじまのかみでも、おや石舟斎せきしゅうさいかられば、
(あのくせねばよいが)
 とか、
(あのままでつとまろうか)
 などと、むかしながらの子供こどもおもえて、とおくから、りこし苦労ぐろうをしていることは、およそ剣聖けんせい名人めいじん父子おやこも、凡愚ぼんぐ俗才ぞくさい父子おやこも、その煩悩ぼんのうさにおいてはなんのかわりもない。
 ことに、石舟斎せきしゅうさいは、昨年さくねんあたりからやまいがちで、そろそろ天寿てんじゅをさとるとともに、よけいに、をおもい、まご将来しょうらいについてのおもいがふかくなってたようであった。また、多年自分たねんじぶんそばにおいた門下もんか四高足よんこうそく出淵でぶち庄田しょうだ村田むらたなども、それぞれ越前家えちぜんけだの、榊原さかきばらだの、知己ちき大名だいみょう推挙すいきょして、一家いっかてさせ、このいとま心支度こころじたくをしているかにえた。
 また、その四高足よんこうそくなか一人ひとり木村助九郎きむらすけくろう国許くにもとから江戸えどへよこしたのも、助九郎すけくろうのような世馴よなれたもの但馬守たじまのかみのそばにいれば、なにかとやくつであろうという、石舟斎せきしゅうさい親心おやごころからであった。
 以上いじょうで、ざっと、柳生家やぎゅうけのここりょう三年さんねん消息しょうそくつたえたとおもうが、そうした江戸柳生えどやぎゅう新邸しんていへ――いな、もっと家庭的かていてきに、但馬守たじまのかみもとには、ひとりの女性じょせいと、ひとりのおいとが、どっちも、かかゅうどとしてせていたのである。
 それが、おつうと、柳生やぎゅう兵庫ひょうごとであった。
 助九郎すけくろうがおつうれて場合ばあいは、それが石舟斎せきしゅうさいかしずいていたこともある女性じょせいなので、但馬守たじまのかみも、
こころおきなく、何日いつまでもあしめておるがよい。奥向おくむきのようなども手伝てつだうてもらおう)
 と、気軽きがるであったが、あとからおい兵庫ひょうごて、とも寄食きしょくするようになると、
わかいふたり)
 というをもってなければならなくなったので、なにか、えず家長かちょうとしてのぼねをいだくようになっていた。
 ――だが、おい兵庫ひょうごという人物じんぶつは、宗矩むねのりとちがって、いたって気楽きらく性質せいしつとみえ、叔父おじがどうようがおもおうが、
(おつうどのはいい。おつうどのはわしもきだ)
 と、いってはばからないふうであった。しかし、そのきだ――というにも多少たしょう見得みえはつつんでいるとみえ、
つまに)
 とか、
こいしている)
 とか、そんなことは、叔父おじにもおつうにも、けっしてくちすことはなかった。
 さて。
 ――その二人ふたりいまこま口輪くちわはさんで、とっぷりれたくぼたにり、やがて南面なんめんさかすこのぼると、すぐ右側みぎがわ柳生家やぎゅうけ門前もんぜんあしをとめ、兵庫ひょうごがまずそこをたたいて、門番もんばん呶鳴どなった。
平蔵へいぞうけろ。――平蔵へいぞう。――兵庫ひょうごとおつうさんのおもどりだぞ」