327・宮本武蔵「空の巻」「道草ぎつね(5)(6)(7)」


朗読「327空の巻68.mp3」 15MB、長さ: 約 16分 17秒

 くらやみさかとでもいそうな、木下闇このしたやみのぼりきると、やまうえには、まだ西陽にしびがあたっていた。
 江戸えど麻布あざぶやままでると、人家じんかれで、わずかに、彼方此方あちこち谷底たにぞこに、はたけ農家のうか屋根やねが、点々てんてんえるにぎない。
 とおいむかし、このあたりは、麻生あさおさととも、麻布留山あさふるやまともばれ、とにかくあさ産地さんちであったそうだ。――天慶てんぎょう年中ねんちゅう平将門たいらのまさかどが、関八州かんはっしゅうにあばれたころは、ここにみなもと経基つねもと対峙たいじしていたことがあり、またそれから八十年後はちじゅうねんご長元年間ちょうげんねんかんには、たいらの忠恒ただつね叛乱はんらんさいし、源頼信みなもとのよりのぶ征夷大将軍せいいたいしょうぐんせられて、鬼丸おにまる御剣ぎょけんたまわり、討伐とうばつはたをすすめて、ここあさやまじんり、八州はっしゅうへいをまねきあつめたともいいつたえられている。
「くたびれた……」
 一息ひといきのぼってたので、伊織いおりはつぶやきながら、しばうみや、渋谷しぶや青山あおやま山々やまやま今井いまい飯倉いいぐら三田みた、あたりのさとを、ぼんやり見廻みまわしていた。
 かれのあたまには、歴史れきしなにもなかったが、千年せんねんきてたようなだの、山間やまあいながれてゆくみずだの、ここらのやまたにのたたずまいは、あさ往古むかし平氏へいし源氏げんじのつわものばらが、うまれたみちの――武家発生ぶけはっせい故郷ふるさとだった時代じだい景色けしきを――なんとはなくかんじさせるものが、まだのこっていた。
 どーん
 どん、どん、どーん
「おや?」
 どこかで太鼓たいこおとがする。
 伊織いおりは、やましたをのぞいた。
 鬱蒼うっそうとした青葉あおばなかに、神社じんじゃ屋根やね鰹木かつおぎえる。
 それはいまのぼってときた、飯倉いいぐら大神宮だいじんぐうさまだった。
 このへんには、御所ごしょのおこめつく御田みたというのこっていた。そして伊勢大神宮いせだいじんぐう御厨みくりや土地とちでもあった。飯倉いいぐらという地名ちめいも、そこからおこったのであろう。
 大神宮だいじんぐうさまとは、どなたをまつったものであるか。これは伊織いおりもよくっていた。武蔵むさしいて勉強べんきょうしないまえからだって、それだけはっていた。
 ――だからこの頃急ごろきゅうに、江戸えどひとたちが、
徳川様とくがわさま徳川様とくがわさま
 と、あがたてまつるようにいうと、伊織いおりはへんなもちがした。
 いまも、たったいま江戸城えどじょう大規模だいきぼ改修工事かいしゅうこうじをながめ、大名小路だいみょうこうじ金碧こんぺきさんらんたるもんかまえをで――ここのくらやみざか青葉あおばそこに、そこらの百姓家ひゃくしょうや屋根やねかわらない――ただ鰹木かつおぎ注連しめだけがちがう――わびしいおみやると、猶々なおなお、へんなもちがして、
徳川とくがわのほうがえらいのかしら)
 と、単純たんじゅん不審いぶかった。
(そうだ、こんど、武蔵むさしさまにいてみよう)
 やっと、そのことは、それであたまにかたづけたが、肝腎かんじん柳生家やぎゅうけ屋敷やしきは? ――さてここからどうくのか。
 これはまだちっともはっきりしていないのである。そこでかれはまたふところから門番もんばんにもらった絵図えずし、ためつすがめつ、
(はてな?)
 と、小首こくびかしげた。
 なんだか、自分じぶんのいる位置いち絵図えずとが、ちっとも、符合ふごうしないのだ。絵図えずれば、みちわからなくなり、みちながめると、絵図えずわからなくなる。
へんだなあ)
 よくのあたる障子しょうじなかにいるように、あたりはれるほど反対はんたいに、あかるくなってがするが――それへっすらと夕靄ゆうもやがかかって、をこすってもこすっても、睫毛まつげさきに、にじみたいなひかりさえぎってならなかった。
「けッ! こん畜生ちくしょうっ」
 なにつけたか。
 伊織いおりは、やにわにんで、いきなりうしろのくさむらをがけ、いつもしている野刀のがたなちいさいのでちにりつけた。
 ケーン!
 と、きつねおどった。
 くさと、とが、にじいろの夕陽ゆうひもやに、ぱっとった。

 尾花おばなのように、ひかきつねだった。あしかを、伊織いおりられてかんだかいごえはなちながら征矢そやみたいにはしった。
「こん畜生ちくしょう
 伊織いおりは、かたなったまま、やらじとばかりいかける。きつねはやい、伊織いおりはやい。
 傷負ておいきつねは、すこしあしをひきずり気味ぎみで、時々ときどきまえへのめる様子ようすなので、しめたとおもって、ちかづくと、やにわに神通力じんずうりきして、何間なんげんさきんでしまう。
 そだった伊織いおりは、ははひざかれていたころから、きつねひとかすものだという実話じつわ沢山たくさんかされていた。野猪のじしでもうさぎでもでもあいすことが出来できたが、きつねだけはにくかった、また、こわかった。
 ――だからいまくさむらのなか居眠いねむりしていたきつねつけると、かれは、とたんに、みちまよっている自分じぶんが、偶然ぐうぜんでないがした。こいつにたぶらかされているのだとかんがえたのである。――いな、すでに昨夜ゆうべから、このきつねが、自分じぶんのうしろにまとっていたにちがいないという気持きもちさえ咄嗟とっさおこった。
 忌々いまいましいやつ。
 ころしてしまわないとまたたたる。
 そうおもったから伊織いおりはどこまでもいかけたのであったが、きつねかげは、たちまち、雑木ぞうきしげったがけびこんでしまった。
 ――だが伊織いおりは、狡智こうちけたきつねのことだから、そう人間にんげんにはせて、じつ自分じぶんうしろにかくれておりはしないかと、そこらのくさむらを、あしちらしながら、詮議せんぎしてみた。
 くさにはもう夕露ゆうつゆがあった。あかとよぶくさにも、ほたるくさはなにもつゆがあった。伊織いおりは、へなへなとすわりこんで、薄荷草はっかそうつゆめた。くちかわいてたまらなかったのである。
 それから――かれはようやくかたいきをつきはじめた。とたんにたきのようなあせがながれてくる。心臓しんぞうが、どきどきと、あばれてうつ。
「……アア、畜生ちくしょう、どこへったろう?」
 げたらげたでいいが、きつねわせたことが、不安ふあんになった。
「きっと、なにか、あだをするにちがいないぞ」
 という覚悟かくごを、たざるをなかった。
 たせるかな。――すこし落着おちついたとおもうと、かれみみに、妖気ようきのこもったきこえてた。
「……?」
 伊織いおりは、キョロキョロをくばった。かされまいと、こころかためた。
 あやしいおとちかづいてる。それはふえおとていた。
たな……」
 伊織いおりは、まゆつばりながら、用心ようじんしてがった。
 ると、彼方かなたからおんなかげ夕靄ゆうもやにつつまれてくる。おんなは、羅衣うすもの被衣かつぎをかぶり、螺鈿鞍らでんぐらいたこま横乗よこのりにって、手綱たづなを、くらのあたりへただせあつめていた。
 うまには、音楽おんがくわかるとかいうが、いかにもふえわかるように、馬上ばじょうおんながふく横笛よこぶえれながら、のたり、のたりと、のろあしはこんでるのだった。
けたな」
 と、伊織いおりはすぐおもった。
 うすずく背後うしろにして、馬上ばじょうふえをすさびながら被衣かつぎ麗人れいじんは、まったくかれならでも、このひとともおもえなかった。

 伊織いおりは、青蛙あおがえるのように、ちいさくなって、くさむらにかがみこんでいた。
 そこはちょうど、みなみたにりる坂道さかみちかどになっていた。――もしおんな馬上ばじょうのまま、ここまでたら、不意ふいりつけて、きつね正体しょうたいいでやろう――と、そうかんがえていたのである。
 日輪にちりんいま渋谷しぶややまはししずみかけて、覆輪ふくりんをとった夕雲ゆうぐもが、むらむらとよいそらをつくりかけていた。地上ちじょうはもう夕闇ゆうやみだった。
 ――おつうどの。
 ふと、何処どこかで、そんなこえがしたようだった。
(――おつウどの)
 伊織いおりは、くちのうちで、口真似くちまねしてみた。
 うたがってみると、そのこえも、なんだか人間放にんげんばなれのした五音ごいんであった。
仲間なかまきつねだな)
 きつねともが、きつねをよんだこえにちがいない。――伊織いおりは、ちかづいて騎馬きばおんなを、きつねけたものと、くまでしんじてうたがわないのであった。
 くさなかからふとると、うま横乗よこのりになった麗人れいじんは、もうさかかどまでていた。
 このあたりには、すくないので、馬上ばじょう姿すがたは、宵闇よいやみ地上ちじょうからぼかされて、上半身じょうはんしんは、あか夕空ゆうぞらに、くッきりと明瞭めいりょうえがかれていた。
 伊織いおりは、くさむらのなかに、づくろいをしながら、
(おらのかくれていることをらないな)
 と、おもって、かたなをかたくなおしていた。
 そして彼女かのじょが、もう十歩じゅっぽほどて、みなみほう坂道さかみちりかけたら、して、うましりってやろうとかんがえていた。
 きつねというものは大概たいがい――けているかたちから何尺なんしゃくうしろにいているものだと――これも幼少ようしょうからよくいていた俚俗りぞく狐狸学こりがくおもして、伊織いおり固唾かたずをのんでいたのである。
 だが。
 騎馬きば女性じょせいは、さかくちのてまえまでると、ふと、こまめてしまい、いていたふえを、笛嚢ふえぶくろおさめて、おびのあいだに手挟たばさんだ。――そして――まゆうえあた被衣かつぎはしをかけて、
「……?」
 なにか、さがすようなをして、くらうえからまわしているのであった。
 ――おつうどのう。
 またしても、どこかでおなこえきこえた。――とおもうと、馬上ばじょう佳人かじんは、ニコとしろかおほころばせて、
「お。――兵庫ひょうごさま」
 と、小声こごえにさけんだ。
 するとやっと、みなみたにから、坂道さかみちのぼってたひとりのさむらいかげが――伊織いおりにもわかった。
 ――オヤッ?
 伊織いおりは、愕然がくぜんとした。
 なんとそのさむらいは、あしをひきずっているではないか。さっき、自分じぶんりつけてがしたきつねもそうだった。さっするところ、このきつねめは、自分じぶんあしられてげたきつねのほうにちがいない。よくもよくもこううまけてたものと――伊織いおりしたくとともに、ぶるぶるッと、ぶるいをおぼえて、おもわず、尿いばりすこらしてしまった。
 そのあいだに、騎馬きばおんなと、さむらいは、なにか、ふたこと三言みことはなしていたが、やがてさむらいうま口輪くちわをつかんで、伊織いおりのかくれているくさむらのまえとおりすぎた。
いまだ!)
 と、伊織いおりおもったが、からだがうごかなかった。――のみならずそのかすかな身動みうごきをすぐどったらしく、うまのそばからかえったわかさむらいは、伊織いおりかおを、ぐいとにらみつけてった。
 そのまなざしからは、やまあか日輪にちりんよりも、もっとするどいひかりが、ぎらりとしたようながした。
 で――伊織いおりは、おもわずくさなかしてしまった。うまれてから十四じゅうよんとしまで、こんなこわいとおもったことはまだなかった。自分じぶん位置いちさとられるおそれさえなかったら、わっと、こえをあげてしたかもれなかった。