325・宮本武蔵「空の巻」「道草ぎつね(1)(2)」


朗読「325空の巻66.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 48秒

道草みちくさぎつね

「ここが木挽町こびきちょうか」
 と、伊織いおりうたがった。
 そして途々みちみちみちおしえてくれたものたいして、
「こんなところに、お大名だいみょういえなんかあるものか」
 と、はらててひとおもった。
 かれは、河岸かしんである材木ざいもくこしかけて、火照ほてったあしうらを、くさでこすった。
 材木ざいもくいかだは、ほりなかにも、みずえないほどいていた。そこから三町先さんちょうさきはずれはもううみで、やみなかに、うしおしろひらめきだけしかえはしない。
 それ以外いがいは、びょうとした草原そうげんと、近頃ちかごろめたばかりのひろつちだった。もっとも其処此処そこここと、ポチポチあかりのかげえるが、ちかづいてると、それはみな木挽こびき石工いしく寝小屋ねごやだった。
 みずちかところには、材木ざいもくいしばかりが、やまをなしていた。かんがえてみると、江戸城えどじょうさかん修築しゅうちくしているし、市街しがいにもどんどん家屋かおくってくので、まちというほど、木挽こびき小屋こやあつまっているのも道理どうりである。けれど、柳生但馬守やぎゅうたじまかみともあるひとやしきが、こんな職人小屋しょくにんごや部落ぶらくならんであるのはへんだ――いやあるものじゃない――と伊織いおりおさな常識じょうしきでもかんがえられるのであった。
こまったな」
 くさには夜露よつゆがある。いたみたいにかたくなった草履ぞうりいで、火照ほてったあしくさなぶっていると、そのつめたさに、からだあせかわいてきた。
 たずねるやしきれないし、あまりによるけてしまって、伊織いおりは、かえるにもかえれなかった。使つかいにて、使つかいをはたさずにかえることは、どもこころにも、恥辱ちじょくおもわれた。
宿屋やどやのおばあが、いい加減かげんなことをおしえたからわるいんだ」
 かれは、自分じぶんが、堺町さかいちょう芝居町しばいまちで、さんざん道草みちくさをくっておそくなったことは、あたまからわすれていた。
 ――もうひともいない。このままけてしまうのかとおもうと伊織いおりは、突然悲とつぜんかなしくなって、木挽小屋こびきごやものでもおこして、けないうちに、使つかいをはたしてかえらなければならないと、責任感せきにんかんめられてた。
 で――かれはまた、あるした。そして掘建小屋ほったてごやたよりにあるした。
 すると、一枚いちまいこもを、番傘ばんがさのようにかたいて、その掘建小屋ほったてごやのぞあるいているおんながあった。
 鼠鳴ねずみなきして、小屋こやなかものを、そうとしては、失望しつぼうして、彷徨さまよっている売笑婦ばいしょうふであった。
 伊織いおりは、そういう種類しゅるいおんなが、なに目的もくてきにうろついているのか、もとよりらないので、
「おばさん」
 と、馴々なれなれしくこえをかけた。
 かべみたいなしろかおをしているおんなは、伊織いおりをふりかえって、ちかくの酒屋さかや丁稚でっちとでも見違みちがえたのか、
「てめえだろ、さっき、いしをぶつけてげたのは」
 と、にらみつけた。
 伊織いおりは、ちょっと、おどろいたをしたが、
らないよ、おらは。――おらはこのへんものじゃないもの」
「…………」
 おんなあるいてて、ふいに、自分じぶんでおかしくなったように、げたげたわらいだした。
「なんだい。なんようだえ」
「あのね」
「かあいいだね、おまえ」
「おら、使つかいにたんだけど、おやしきわからないでこまっているんだよ。おばさん、らないか」
「どこのおやしきへゆくのさ」
柳生但馬守様やぎゅうたじまのかみさま
なんだって」
 おんなは、なにがおかしいのか、下品げひんわらけた。

柳生様やぎゅうさまといえば、お大名だいみょうだよおまえ」
 とおんなは、そんな大身たいしんところようがあってくという伊織いおりちいさななりを、見下みくだしてまたわらった。
「――おまえなんぞがったって、御門ごもんけてくれるもんかね。将軍様しょうぐんさま御指南番ごしなんばんじゃないか。なかのお長屋ながやに、だれってるひとでもあるのかえ」
手紙てがみってくんだよ」
だれに」
木村助九郎きむらすけくろうというひとに」
「じゃあ、御家来ごけらいかい。そんならはなしわかってるけれど、おまえのいってるのは、柳生様やぎゅうさま懇意こんいみたいにいうからさ」
「どこだい、そんなことはいいから、おやしきおしえておくれよ」
ほりむこがわさ。――あのはしわたると、紀伊様きいさまのおくら屋敷やしき、そのおとなりが、京極きょうごく主膳様しゅぜんざま、そのつぎ加藤喜介様かとうきすけさま、それから松平まつだいら周防守すおうのかみさま――」
 おんなは、ほりむこうにえる、浜倉はまくらだの、へいだののとうを、ゆびかぞえて、
「たしか、そのつぎあたりのお屋敷やしきがそうだよ」
 と、いう。
「じゃあ、むこがわも、木挽町こびきちょうっていうのかい」
「そうさ」
「なあんだ……」
ひとおしえてもらって、なあんだとはなにさ。だけど、おまえは可愛かわいだね。あたしが、柳生様やぎゅうさままえまで、れてってげるからおいで」
 おんなは、さきあるした。
 からかさのおけみたいに、こもをかぶっている姿すがたが、はしなかほどまでゆくとすれちがったさけくさいおとこが、
「ちゅっ」
 と、鼠鳴ねずみなきして、おんなたもとたわむれた。
 するとおんなは、れている伊織いおりのことなどは、すぐわすれて、おとこのあとをいかけてき、
「あら、ってるよこのひとは。――いけない、いけない、とおすもんか」
 おとことらえて、はししたへ、きずりもうとすると、おとこは、
「はなせよ」
「いやだよ」
「かねがないよ」
「なくてもいいよ」
 おんなは、モチみたいにおとこにねばりついたまま、ふと、伊織いおりにとられているかおて――
「もうわかってるだろ。わたしはこのひとようがあるんだからさきへおいで」
 と、いった。
 だが伊織いおりは、まだ不思議ふしぎかおして、大人おとなおとこおんなが、になってあらそっているさまながめていた。
 そのうちに、おんなちからったものか、おとこがわざとかれてくのか、男女ふたりはししたへ、一緒いっしょりてった。
「……?」
 伊織いおりは、不審ふしんおぼえて、こんどははし欄干らんかんから、した河原かわらをのぞいた。あさ河原かわらには雑草ざっそうえていた。
 ふと、うえ見廻みまわすと、おんなは、伊織いおりのぞきこんでいるので、
「ばかッ」と、おこった。そして、ちかねないかおつきをして、河原かわらいしひろいながら、
「ませてる餓鬼がきだね」
 と、げつけた。
 伊織いおりは、きもをつぶして、はし彼方かなたへ、どんどんげだした。曠野あれのひとそだったかれだが、いまおんなしろかおほど、こわいものをたことはなかった。