321・宮本武蔵「空の巻」「蝿(3)(4)」


朗読「321空の巻62.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 32秒

 くまはかんすじてて、
せっ」
 と、ふいに呶鳴どなった。
 武蔵むさしは、はしと、蕎麦汁そばじるちゃわんをったまま、
「そちは、だれだ?」
らねえのか。博労町ばくろちょうておれのらねえやつあ、もぐりぐれえなものだぞ」
拙者せっしゃもすこしみみとおいほうだから、おおきなこえでいえ。どこのなにがしだ」
関東かんとう博労ばくろなかまで、秩父ちちぶ熊五郎くまごろうといやあ、もだまるあばものだが」
「……ははあ。馬仲買うまなかがいか」
さむらいあいての商売しょうばいで、うまあつかってる人間にんげんだから、そのつもりで挨拶あいさつしろい」
「なんの挨拶あいさつ?」
「たったいま、その豆蔵まめぞうをよこしやがって、うるせえとか、やかましいとか、きいたふうな御託ごたくならべやがったが、うるせえな博労ばくろだ。ここは殿様とのさま旅籠はたごじゃねえぞ、博労ばくろおお博労宿ばくろやどだ」
心得こころえておる」
心得こころえていながら、おれっちがあそごとをしている場所ばしょへ、なんでケチをつけやがるんだ。みんなくさって、あのとおり、つぼとばして、てめえの挨拶あいさつっているんだ」
「――挨拶あいさつとは?」
「どうもこうもねえ、博労ばくろ熊五郎様くまごろうさまほか一統様いっとうさまて、詫証文わびじょうもんくか、さもなけれや、てめえを裏口うらぐちへしょッぴいて、うま小便しょうべんつらあらわしてくれるんだ」
「おもしろいな」
「な、なにを」
「いや、おまえたち仲間なかまでいうことは、なかなかおもしろいともうすのだ」
「たわごときにたんじゃねえ。どっちとも、はやく返答へんとうしろい」
 くまは、自分じぶんこえに、昼間ひるまよいをよけいにかおして呶鳴どなった。ひたいあせが、西陽にしびひかって、ものにも暑苦あつくるしい。それでもまだ、くま威嚇いかくらないとおもったか、胸毛むなげだらけな諸肌もろはだいで、
返答へんとうっちゃ、ただは引退ひきさがらねえぞ。さ、どっちとも、はやかせ」

 肚巻はらまきからした短刀たんとうを、蕎麦そばはこまえてて、あぐらのすねをさらにおおきくなおした。
 武蔵むさしは、みをつつみながら、
「――さ。どっちにしたがよいかなあ」
 汁茶碗しるちゃわんすこげ、はし蕎麦箱そばばこばして、蕎麦そばにたかっているごみでもっているのか、なにはさんでは、まどそとほうっていた。
「…………」
 てんで相手あいてにされていないふうなので、くま青筋あおすじふとらせて、ぐいとだまをなおしたが、武蔵むさしはなお黙然もくねんと、蕎麦そばのうえのちりはし退けている。
「……?」
 ふと、そのはしさきのついたくまは、いたを、いやがうえにもおおきくして、いきもせずに、武蔵むさしはしに、もたましいもかれてしまった。
 蕎麦そばうえにたかっているくろいものは、無数むすうはえであった。武蔵むさしはしくとそのはえは、げもせず、黒豆くろまめはさむように素直すなおはさまれてしまうのだった。
「……りがないわい。伊織いおり、このはしあらってい」
 伊織いおりが、それをって、そとると、その隙間すきまに、博労ばくろくまも、えるようにとなり部屋へやげこんでった。
 しばらくごそごそしていたかとおもうと、またたくまに、部屋替へやがえをしたものとみえ、ふすまむこうには人声ひとごえもしなくなった。
伊織いおり、せいせいしたな」
 わらって、蕎麦そばえたころ夕陽ゆうひかげって、研屋とぎや屋根やねうえに、ほそ夕月ゆうづきえていた。
「どれ、おもしろそうなまえ研師とぎしとぎたのみにってようか」
 だいぶ荒使あらづかいをしていためている無銘むめい一腰ひとこし――それをひっさげて、武蔵むさし立上たちあがったとき
「おきゃくさん、どっかのおさむらい手紙てがみいてかしゃりましたが」
 と、くろ梯子はしごだんのしたから、宿やどのおかみさんが、一通いっつう封書ふうしょをつきした。

(はて、何処どこから?)
 とふううらると、
  すけ
 とただ一字いちじしかいてない。
使つかいは?」
 武蔵むさしうと、宿やどのおかみさんは、もうかえりましたといいながら、帳場ちょうばすわる。
 梯子はしごだんの途中とちゅうったまま武蔵むさしふうってみた。「すけ」のは、きょう馬市うまいち出会であった木村助九郎きむらすけくろうのこととすぐめた。

けさほどのお出会であい、殿とののおみみ候処そうろうところ但馬守たじまのかみさま
なつかしきおとこ被仰おおせなされそうろう
しの、いつごろにやとのおことば、折返おりかえしてお便たよ待入申候まちいりもうしそうろう

    すけくろう
「お内儀かみ、そこのふでをかしてくれぬか」
「こんなので、よろしゅうございましょうか」
「うむ……」
 と帳場ちょうばのわきへって、助九郎すけくろう手紙てがみうらへ、

武辺者ぶへんしゃには、ほかにようもなし。ただたじまのかみさま御試合おしあいたまわるなれば、何時いつなりと伺候しこうもうすべくそうろう

   政名まさな
 政名まさなというのは武蔵むさしのりである。そういてなおし、ふうさきうらをつかって、

柳生やぎゅうどの御内みうち
すけどの

 とててく。
 梯子はしごだんのしたから見上みあげて、
伊織いおり
「はい」
使つかいにってくれ」
「どこへですか」
柳生但馬守やぎゅうたじまのかみさまのおやしきへ」
「はい」
ところはどこか、っておるまい」
きながらまいります」
「む、かしこい」
 と、武蔵むさしあたまをなでて、
まよわずにっていよ」
「はい」
 伊織いおりはすぐ草履ぞうり穿く。
 宿やどのおかみさんはそれをいて、柳生様やぎゅうさまのおやしきならだれでもっているから、きながらってもわかるが、ここの本通ほんどおりをて、街道かいどうをどこまでもっすぐにき、日本橋にほんばしわたったら、かわ沿ってひだりひだりへとおいで――そして木挽町こびきちょういてくんだよと、親切しんせつおしえてくれる。
「あ。あ。わかったよ」
 伊織いおりは、そとられるのがうれしかった。しかも使つかいのさきが、柳生様やぎゅうさまだとおもうと、ってあるきたくなった。
 武蔵むさしも、草履ぞうり穿いて、往来おうらいた。――そして伊織いおりちいさい姿すがたが、博労宿ばくろやど鍛冶屋かじやかどひだりがったのを見届みとどけて、
(すこしかしこすぎる)
 と、ふとそんなことをおもいながら――宿やど斜向すじむかいの「おんたましい研所とぎどころ」のいたているみせのぞいた。
 みせといっても、格子こうしのないしもたみたいなかまえで、商品しょうひんらしいものなにあたらない。
 はいるとすぐ、おく細工場さいくばから台所だいどころまでめぐっているような土間どまだった。右側みぎがわいちだんたかかまちになっていて六畳ろくじょうばかりいてある。そして、そこをみせとすれば、みせおくとのさかいには、注連しめまわしてあるのが――すぐ武蔵むさしについた。
御免ごめん
 と、武蔵むさし土間どまった。――わざわざおくむかっていったのではない。――すぐそこのなにもないかべしたに、たったひとつある頑丈がんじょう刀箱かたなばこ頬杖ほおづえをついて、いた荘子そうしのように、居眠いねむりをしているおとこがある。
 それが亭主ていしゅ厨子野耕介ずしのこうすけというおとこらしいのである。にくうすい、そして粘土ねんどのようなあおかおには研師とぎしのようなするどさもえない。月代さかやきからおとがいまでは、おそろしくながかおえた。そのうえにまた、長々ながながと、刀箱かたなばこからよだれをたらして、何時覚いつさむべしともえないていなのである。
「ごめん!」
 すここえって、武蔵むさしはもう一度いちど荘子そうし寝耳ねみみおとずれた。