320・宮本武蔵「空の巻」「蝿(1)(2)」


朗読「320空の巻61.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 37秒

はえ

 ここは裏町うらまち――ついいまがた武蔵むさし彷徨さまよっていた博労町ばくろちょう裏通うらどおりである。
 となり旅籠はたご、そのとなり旅籠屋はたごや一町内いっちょうない半分はんぶんが、きたな旅籠屋はたごやであった。
 とまちんやすいので、武蔵むさし伊織いおりはそこへとまった。ここのいえにもあるが、何処どこ旅籠屋はたごやにも、馬舎うまやきものになっていて人間にんげん宿屋やどやというより、うま宿屋やどやといったほうがちかかった。
「おさむらいさま、おもて二階にかいだと、すこしははえすくのうございますで、部屋へやをお取替とりかえいたしますべ」
 と、博労ばくろでないきゃく武蔵むさしを、ここの旅籠はたごではすこあつか気味ぎみ
 勿体もったいない、きのうまでの開墾小屋かいこんごや生活せいかつからくらべれば、ここはこれでもたたみのうえ。――にもかかわらずつい、
(ひどいはえだなあ)
 とつぶやいたのが、にでもさわったふうに、旅籠はたごのかみさんのみみにはいったものとみえる。
 だが――好意こういのままに、武蔵むさし伊織いおりは、表二階おもてにかいうつった。ここはまた、かんかんと西陽にしびしている。――すぐそうおもうだけでも、気持きもち贅沢ぜいたくかわっているのだとおもいながら、
「よしよし。ここでいい」
 と、ひとなだめて落着おちついた。
 ふしぎなのは人間にんげんをつつむ文化ぶんか雰囲気ふんいきである。つい昨日きのうまでいた開墾小屋かいこんごやでは、つよ西陽にしびなえそだちをおもい、あしたの晴朗せいろうぼくされて、このうえもない光明こうみょうであり希望きぼうであった。
 あせはだにたかるはえを、つちはたらいているときにもならないし、むしろ、
(おまえもきているか。おれもきてはたらいているぞ)
 といいたいくらい、自然しぜんなか生命せいめい友達ともだちにさえおもえるのに、大河たいがひとえて、このさかん勃興都市ぼっこうとし一員いちいんとなるとすぐ、
西陽にしびがあつい。はえがうるさい――)
 などという神経しんけいともに、
(なんぞ美味うまものでもいたいなあ)
 と、おもう。
 そういう人間にんげん横着おうちゃくかわかたは、伊織いおりかおにもありありとている。むりもないことには、すぐ横隣よことなり博労ばくろ一群ひとむれが、なべものて、さわがしくさけんでいるのだ。法典ほうてん開墾小屋かいこんごやでは、蕎麦そばべたいとおもえば、春先はるさき種子たねき、夏花なつはなて、あきくれし、ようやくふゆ夜粉よるこないてべるのだが、ここでは手一てひとたたいて、ってもらえば、一刻いっときもすると、蕎麦そばてくる。
伊織いおり蕎麦そばおうか」
 武蔵むさしがいうと、
「うん」
 と、伊織いおりつばをのんでうれしそうにうなずく。
 そこで旅籠はたごのかみさんをよんで、蕎麦そばってもらえるかとはかると、ほかのおきゃくからもご注文ちゅうもんがあるから、きょうはってげてもいいという。
 蕎麦そばのできてあいだ西陽にしびまど頬杖ほおづえついて、した往来おうらいをながめていると、すぐ斜向すじむこうに、

おんたましい研所とぎどころ
本阿弥ほんあみ門流もんりゅう厨子野ずしの耕介こうすけ

 とめるいた軒先のきさきている。
 それをさきつけたのは、のはやい伊織いおりで、さもおどろいたかおしながら、
先生せんせい、あそこに、おんたましい研所とぎどころいてあるけれど、なん商売しょうばいでしょう?」
本阿弥門流ほんあみもんりゅうとあるから、かたな研師とぎしであろう。――かたな武士ぶしのたましいというから」
 そうこたえて、武蔵むさしは、
「そうだ、わしのかたなも、いちど手入ていれしておかねばなるまいな。あとで、たずねてみよう」
 と、つぶやいた。
 そのとき襖隣ふすまどなりで、なにか喧嘩けんかはじまった。いや喧嘩けんかではなく、賭博とばくのもつれで、なにか紛争あらそいおこったらしいのだ。――武蔵むさしは、なかなかない蕎麦そばどおしさに、手枕たまくらをかって、とろとろしていたが、ふとをさまして、
伊織いおりとなりしゅうへ、すこしおしずかにしてくださいともうせ」
 といいつけた。

 そこのさかいければ、すぐことむが、武蔵むさしよこになっている姿すがたさきえるので、伊織いおりは、わざわざ廊下ろうかて、となり部屋へやへ、いいにった。
「おじさんたち、あんまりさわがないでおくれよ。此方こっちに、おらの先生せんせいているんだから」
 すると、
なに?」
 と、博労ばくろたちは、賭博とばく紛争もつればしったを、いっせい伊織いおりちいさい姿すがたうつした。
「なんだと、小僧こぞう
 伊織いおりは、その無礼ぶれいに、むっとしてくちとがらしながら、
はえがうるさいから、二階にかいしてたら、またみんながさわいでいてやかましくってしようがないや」
「てめえがいうのか、てめえの主人しゅじんでも、そういっていといったのか」
先生せんせいがさ」
「いいつけたんだな」
だれだって、うるさいよ」
「ようし、てめえっちのような、うさぎくそみてえなチビに、挨拶あいさつしても仕方しかたがねえ、あとから、秩父ちちぶ熊五郎くまごろう返答へんとうにゆくからんでろ」
 秩父ちちぶくまおおかみわからないが、なにしろ獰猛どうもうそうなのが、そのなか三人さんにんいる。
 その手輩てあいにらまれて、伊織いおりはあわててかえってた。武蔵むさしは、手枕たまくらひじうすをつぶってねむっている。そのすそ西陽にしびもだいぶかげって、あしさきと、ふすまはしのこに、おおきなはえくろにたかっていた。
 おこしてはいけないとおもって、伊織いおりはそのままだまって、また往来おうらいていた。――しかし、となり部屋へややかましさはまえすこしもかわりはない。
 こちらからってった抗議こうぎ衝動しょうどうをうけて、賭博とばく紛争ふんそう沙汰止さたやみになったらしいが、そのかわ今度こんど団結だんけつして、無礼ぶれいにも、さかいのふすまを細目ほそめけてのぞいたり、暴言ぼうげんはなったり、嘲笑あざわらったりしているのだった。
「ええこう、どこの牢人ろうにんらねえが、江戸えどなかかぜかれてやがって、しかも博労宿ばくろやどにのさばりながら、うるせえもねえもンじゃねえか。うるせえなあ、おれっちのまえだ」
「つまみしちまえ」
「わざと、ふてぶてしそうに、ていやがるぜ」
さむらいなんぞに、おどろくようなほねほそ博労ばくろは、関東かんとうにゃいねえってことを、だれか、よくかしていよ」
「いっただけじゃだめだ、うらつまして、うま小便しょうべんかおあらわせちまえ」
 すると先刻さっきの――秩父ちちぶくまとかたかとかいうおとこが、
「まあ、て。ひとりや二人ふたり乾飯ほしいざむらい、さわぐにゃあたらねえ。おれが懸合かけあいにって、あやま証文しょうもんってるか、うま小便しょうべんかおあらわせるか、をつけてやるからてめえたちはしずかにみながら見物けんぶつしていろやい」
「おもしれえ」
 と、博労ばくろたちは、ふすまかげりをしずめた。
 そのものたちからると、たのみがいあるつらだましいをった博労ばくろ熊五郎くまごろうは、腹帯はらおびなおして、
「へい、御免ごめんなすって」
 と、あいふすまをあけ、上眼うえめづかいに、相手あいてながら、ひざいずりこんだ。
 武蔵むさしと、伊織いおりのあいだに、あつらえておいた蕎麦そばがもうていた。おおきなぬり蕎麦箱そばばこなかに、蕎麦そばたまむっならんでいて、その一山ひとやまを、はしほぐしかけていたところである。
「……あ、たよ先生せんせい
 伊織いおりはびっくりして、そこを退いた。熊五郎くまごろうは、そのあとへ、おおあぐらをいてすわりこみ、両手りょうてひじひざへついて、獰猛どうもうつらがまえを頬杖ほおづえせながら、
「おい牢人ろうにんうなああとにしちゃあどうだ。むねにつかえているくせに、なに落着おちつきぶって、無理むりうにゃああたらねえだろうに」
 ――きこえているのかいないのか、武蔵むさしわらいながら、つぎはしにまた蕎麦そばをほぐして、美味うまそうにすすりこんだ。